2015-01-01から1年間の記事一覧

北上川夜窓抄 その24 作:左馬遼 

北上川と阿武隈川とは、仙台湾に沿ってその内側を通る淡水人工運河=貞山堀によって、結ばれている。 この2つの大河が、形づくる国を陸奥国と。つい明治の初年まで、詠んでいた。 一括りの行政単位としては、あまりに広大で。他の国の10〜20倍相当の面積を抱…

北上川夜窓抄 その23 作:左馬遼 

昨日は,北上川に因む特産物、舞草刀(もくさとう)の事を採上げた。 既に生産活動を、室町頃に休止してしまった遺産である。 著作し終わって,一晩過ぎた。朝になって、書き漏らした話題があることに気がついた。手直しも考えたが、ヴォリュウム制約もある…

北上川夜窓抄 その22 作:左馬遼 

北上川に因む特産品は、数多い。よく知られるものに、南部鉄瓶がある。 南部釜とも言う,茶の湯の釜として最高級に属すらしい。お茶と無縁の筆者は、語る資格がないので伝聞のままにしておこう。 江戸の中期に,京都から著名な釜師が招かれて。南部藩のお抱…

もがみ川感走録第47  山形人その4 

もがみ川は,最上川である。 最上川に因む人物を繙くシリーズだが、今日は「月山」の著作者=森敦を採上げる。 森敦(もりあつし 1912〜89 小説家)は、平成元年に77歳で亡くなった。 平成も27年が暮れようとしている。彼の死後既に四半世紀を過ぎており、も…

もがみ川感走録第46  山形人その3 

もがみ川は、最上川である。 最上川に因む人物を繙くシリーズだが、タイトルの副題は”山形人 そのNo.X”としている。 さて、その”山形人”なるイメージだが、特に定義も無く、大統領被選出資格でもないから当地での出生者に限定もしていない。つまり最上川に因…

北上川夜窓抄 その21 作:左馬遼 

北上川は、陸奥国の最も重要な第1番の要素であること。それはいつまでも変ることの無い基礎認識であるが、川の持つ無数に存在する機能が忘れ去られようとしている現代では、往々にして失念してしまっている。 物流媒体が、鉄道や自動車に移行したため。その…

北上川夜窓抄 その20 作:左馬遼 

今日は、南部〇〇を探ってみたい。 ナンブなる呼び名が冠されるモノが世にどれほどあるか?覚束ないが・・・ ナンブ・イメージで浮かぶのは決まって、大ぶり・武骨一辺倒。そんな感じだ。 それは,何処に由来するのか? 明確にできないが。 例えば,青空の色…

もがみ川感走録第45  山形人その2 

もがみ川は、最上川である。 最上川は、最上流の水源山域までそう呼ばれるとする者と。そうではないとする者が居る。 何でも1つに決めないと気が済まない立場の人もいるだろうが、筆者は拘らないほうだ。 現実には、水源から長井盆地の置賜白川合流部までの…

もがみ川感走録第44  山形人その1 

もがみ川は、最上川である。 最上川 のぼればくだる 稲舟の いなにはあらず この月ばかり <古今和歌集・巻20 詠み人知らず> 前シリーズでは、「出羽路の芭蕉」として、8回に亘って芭蕉の俳句を採上げた。 この俳句なる呼び方は、明治以降から今日のもの…

もがみ川感走録第43  出羽路の芭蕉No.8 

もがみ川は、最上川である。 出羽路の芭蕉シリーズも、いよいよ第8稿となり。そろそろ上がりである。 出羽路の芭蕉は、陸奥路の芭蕉よりも。滞在時間が長く、各地で同門俳人に招かれ、多く歌仙を巻いた。 そのことは、当時の出羽人が遠来の客に憧れることが…

北上川夜窓抄 その19 作:左馬遼 

前稿で南部駒を採上げたが、今日はその続編・上がり稿である。 南部家の家伝によれば、源頼朝による奥州藤原氏征討から明治政変まで。およそ700年間の長きに亘って陸奥国の奥に留まったことが判る。 南部家が鎌倉地頭〜戦国・幕藩大名として君臨支配したから…

北上川夜窓抄 その18  作:左馬遼 

南部駒なる言葉がある。 いささか釈迦に説法だが。書きはじめる都合上、型どおり言葉の由来を書いておく。 駒は馬である。 その由来は、おそらくこの日本列島にウマを持込んだ渡来人集団の民族名と重なったと考えられる。 ウマの招来時期も経緯も明確でない…

北上川夜窓抄 その17  作:左馬遼 

北上川に因む人物を語るシリーズの第4弾である。 作家・志賀直哉は、明治16・1883年北上川の河口の港町=宮城県石巻市で生まれた。 それがここで採上げる理由だが。父・直温は、東京を活躍の基盤とする経済人であり・転勤族として2年ほど石巻に滞在した。…

もがみ川感走録第42  出羽路の芭蕉No.7 

もがみ川は、最上川である。 直前の稿で。芭蕉は「おくのほそ道」本文で俳聖の名を受ける程の文芸的虚構を駆使した。と述べた。 そのひとつが、須賀川と尾花沢大石田との『対比』による記述技法の展開であるとも書いた。 尾花沢大石田なる言い方は、筆者の造…

もがみ川感走録第41  出羽路の芭蕉No.6 

もがみ川は、最上川である。 出羽路で芭蕉は、最上川船乗りの旅を味わっている。 同行二人は、スムーズに乗船するためか?俳諧仲間の地元大石田の豪商たちに、乗船を斡旋してもらっている。曾良が日記に書いていることだ。 しかし、「おくのほそ道」本文には…

もがみ川感走録第40  出羽路の芭蕉No.5 

もがみ川は、最上川である。 芭蕉は、おくのほそ道の旅を終えてから、「おくのほそ道」の本文を確定するために、5年を要したと言う。 本文確定に至る推敲の過程ごとに、その原稿が門人によって写しが作られたのであろうか? 各地に伝わった異本が発見される…

北上川夜窓抄 その16  作:左馬遼 

北上川に因む人物を語るシリーズの第3編。 今日は、詩人にして近代の早い時期に国民的な人気小説家として知られた島崎藤村を採上げる。 一時期教職にありながら,反道徳とも言うべき男女の問題を起こし。 後日それを題材とした私小説的作品を発表している。 …

北上川夜窓抄 その15  作:左馬遼 

北上川に因む人物を描くシーリズの第2編である。 栴檀は双葉より芳し その昔小耳に挟んだ名言らしいものだが、意味はすぐに思い出せない。 今日採上げる人物は、高橋是清である。 昨日の新渡戸稲造に引続き、貨幣の肖像画になった人物だ。よってシーリズ第2…

北上川夜窓抄 その14  作:左馬遼 

北上川に因む人物編に入る。 北上川の最上流部に当る旧南部藩領からは、多くの政治家を輩出している。 軍人からスライドした行政府のトップ経験者であり、政治家の範疇に含めるべきか?大いに疑わしいが。旧憲法下の一特徴であり、恥ずべき史実の一端と見る…

もがみ川感走録第39  出羽路の芭蕉No.4 

もがみ川は、最上川である。 出羽路で芭蕉は、東北には希な人事風俗を観望していた。 時は未だ江戸時代の最初の100年にアト10年ほど。つまり初期の終盤ではあったが、この草深い地に京風の都ぶりがしっかり根づいていた。 その背景は、最上川と日本海を往く…

もがみ川感走録第38  出羽路の芭蕉No.3 

もがみ川は、最上川である。 出羽路に踏込んだ芭蕉に降り掛かったハプニングが、果してどんなものであったか? それを推測する事が、前稿に引続く本日のテーマである。 このテーマは高度に困難な解明作業だが、例によって独断と偏見を駆使し説得力を深めたい…

もがみ川感走録第37  出羽路の芭蕉No.2 

もがみ川は、最上川である。 芭蕉の出羽路の旅を知るための資料に、「おくのほそ道」がある。 この書は、わが国最高の紀行文学書とされ、高雅にして難解でもある。 練りに練られた文章は、高度に虚飾と創作に富む名作である事は事実だが。「おくのほそ道」本…

北上川夜窓抄 その13  作:左馬遼 

前稿では、下流域大崎平野の蓖岳山を中心に書いたので、今日は上流域に立ち戻る。 南部藩の城下町=盛岡を「朝鮮通信使の町」と呼ぶそうだが。本当のところはどうであろうか? 実は、そのような見出しの記事が、朝日新聞の『窓 副題・論説委員室から』<1990…

もがみ川感走録第36  出羽路の芭蕉No.1 

もがみ川は、最上川である。 今日から出羽路の芭蕉と名付けて、芭蕉と最上川の出逢いについて、想いを留めることとする。 拠るべきものは、当初かの高名な「おくのほそ道」しかないと思っていたが。文献資料は、驚ろくほど多種かつ多様に存在することに最近…

もがみ川感走録第35 草木塔 

もがみ川は、最上川である。 最上川を眺めながら、あちこち行き来するようになって、もう5年になる。 最上川を知るためには、なるべく鋭い眼をもって、流域を右往左往し。より多くの人から話を聴く事であろう。 まだある。古い時代のことをよく知る事がまた…

北上川夜窓抄 その12  作:左馬遼 

北上川が、岩手県の境界南端に位置する一関市を離れると、もう大崎平野だ。そこは宮城県つまり下流域である。 大崎平野は、仙北平野とも呼ばれる。 稲穂うな垂れる穀倉地帯だが、そうなったのは、厳密に言えばごく最近である。 水田と言う言い方があるとおり…

北上川夜窓抄 その11  作:左馬遼 

北上川に因む世界遺産と言えば、まず平泉であろう。 行政的所在地では、岩手県西磐井郡平泉町となる。 達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂など,非日常の景観が突如現れるかと思えば。毛越寺(もうつうじ)のように、何度訪れても現実世界からの離脱を味わ…

もがみ川感走録第34  べに花の10

もがみ川は、最上川である。 この「べに花の章」は、本日のNo.10をもって終る。 山形が、紅花生産の王国であった時代は、ほとんど江戸時代までであった。 明治の新時代になると、海外から大量の染色材料が殺到した。 コスト面で国産の紅花は太刀打ちできなく…

北上川夜窓抄 その10  作:左馬遼 

北上川は、陸奥国最大の大河である。 陸奥国なる分国設置は、律令制度の下であるから。その始まりは概ね7世紀の終りか8世紀の初め頃と考えてよいだろう。 一時的に石城・石背国などが分界建国されたが,間もなく旧に復され、陸奥国一国状態が、明治初年まで…

北上川夜窓抄 その9  作:左馬遼 

石巻は、北上川の河口に作られた大きな町だが。 今日採上げる盛岡は、中流域にある街。現代の岩手県庁はここにある。 さて、舞台は突然東京に移る。筆者がサラリーを得るべく赤坂<港区>にいた頃、昼の散歩コースに南部坂があった。氷川神社からアメリカ大…