北上川夜窓抄 その15  作:左馬遼 

北上川に因む人物を描くシーリズの第2編である。
栴檀は双葉より芳し
その昔小耳に挟んだ名言らしいものだが、意味はすぐに思い出せない。
今日採上げる人物は、高橋是清である。
昨日の新渡戸稲造に引続き、貨幣の肖像画になった人物だ。よってシーリズ第2編とする。
1951〜58に発行された五十円券<B号>の肖像画として登場した。
一説に日銀総裁経験者が、日銀券に登場した唯一の事例。とする見解があるらしい。
高橋是清(たかはしこれきよ 1854〜1936 大蔵大臣を歴任)
江戸時代後期の終り頃に生まれており、昨日の新渡戸稲造とほぼ同時代を生きた。
つまり20世紀の大破局に至る大戦が始まる前に生涯を終えた、ある意味幸せな年代層とも言える。
ただ高橋は、5.15事件による暗殺死。終末は不幸の極みと言うべきかも?
幕府御用絵師の川村家に生まれたが、故あって生後間もなく仙台藩士に里子に出された。
1864 ヘボン塾で学びはじめる・・・アメリカ人医師ヘップバーンが当初横浜に開設した私塾。後に明治学院大学となる。後に島崎藤村が関与。
日本に近代西洋医学を招来した人物として有名だが、ヘボ医者と言われて憤慨?
ヘボン式ローマ字記述方式を提唱した背景とする説は、否定しがたい。 
高橋是清は幼くして英語に馴染む環境に身を置いて育っている
1867 伊達氏仙台藩から海外留学を命ぜられ、渡米。
順風満帆の出世街道コースの始まりと思われたが、まず横浜で渡航費用などの所持金一切を騙し散られ、その悪徳商人の係累により寄留地カリフォルニア州オークランドで、今度は奴隷として売られた。
1869 帰国を果す・・・明治政変と言う秩序紊乱・社会転倒の動乱期。それも外国で逆境に身を置きながら、達者な英語を身につけて本土に還った。
心身ともに頑健の最上級を備えている。奇遇的出会いなど天与の強運も備わっていたらしい。
1873 ・ 1884 飛び飛びに官庁に採用された記録が散見されるも、定まった職に収まる気配なく。放蕩の生活に耽る傾向も見られた。
諸処で英語教師を勤めたらしく,教え子の中に正岡子規&秋山真之俳人&日本海海戦時の作戦参謀=ともに松山の出身)がいる。
1889 農商務省の要職を辞してペルーに渡航。産銀鉱山主に転身するはずが、鉱脈が枯渇した廃坑を掴まされたことにやっと気がつく。あえなく帰国
1892 日本銀行に採用。
1895〜99 横濱正金銀行に勤務。
1899 日本銀行・副総裁となる。
この時彼に課された使命は、戦費調達公債の外国での発行業務であった。
この頃の世界情勢は、後段で略述するが。普通の人生の何倍にも相当する厳しい境遇を生きた高橋是清であったが、ニックネームの「だるま」そのままに七転八起の天真爛漫さをもって難関をクリアーした。
1905 勅撰の貴族院議員へ  1907 爵位を授けられる ・・・ともに論功行賞
1911 日本銀行・総裁となる。
1913 大蔵大臣となる(首班は山元権兵衛=薩州閥・海軍軍人系)
1918 大蔵大臣となる(首班は原敬=初の政党政治内閣。原は現・盛岡市生まれ。新聞界から転出した経済人系政党政治家)
1921 内閣総理大臣となる(=大蔵大臣を兼務する。原敬が暗殺され急遽政友会総裁に選出され・首班指命を受けたもの)
1924 農商務大臣となる(首班は加藤高明=経済人系政党政治家)
   この年隠居して爵位を息子に譲る。
   衆議院議員選挙に打って出て当選を果たす。
   出馬した選挙区は盟友原敬の地元。薄氷を踏む辛勝
 ○ その後,政界からの引退を表明する
1927 請われて大蔵大臣となる(首班は田中義一長州閥・陸軍軍人から政界に転身)
   政界引退表明後の復帰だが、この頃の世界情勢もまた後段で略述する
1931 大蔵大臣となる(首班は犬養毅=新聞界から転出した経済人系政党政治家)
1932 大蔵大臣となる(首班は斉藤実=海軍軍人系。仙台藩水沢領=現・岩手県奥州市=生まれ)
1934 6度目の大蔵大臣となる(首班は岡田啓介=海軍軍人系)
1936  2.26事件により暗殺される。
   政治に対する不満を暴力に訴える軍人の行為を理解するのは無理。
   一説に軍事予算を縮小したため襲撃されたとする見解がある。
以上が、彼の波乱に富む生涯の略歴だが。予告した戦時外債公募の背景を略述する。
クロブネ開国から間もなく50年が経過しようとする極東の小国は、10年前の日清戦争では眠れる獅子の大国=清国に勝利し、想定外の賠償金と植民地=台湾を獲得した。
日清戦争勝利に味をしめて10年、今度は欧州の大国=帝政ロシアとの戦争を画策した。
日英同盟と言う望外の後ろ盾が備わったが。10年目の2度の戦争は、国力を無視した暴挙以外の何ものでもない。投機的冒険というべき異常な国務運営であった。
具体的には、朝鮮半島において、ロシアと衝突する事態となった。
大陸に権益を持ちたいと画策する植民地帝国主義に立つ日本の国策は、日清戦争時代のそれとあまり変ってなかった。
日・露両国の野望がガチンコする場所が朝鮮半島となるのは、地政学・地理的に避けられないかも?
朝鮮半島は、日本列島からの自然廻廊であり。同時に不凍港を求めて南下するロシアの軍事戦端でもあった。
当時の日本は、国力も乏しく・財政的に弱体な新興国であった。そこで将来の税収たる貿易関税を償還財源に見込んで、国際金融中心ロンドンでの戦費調達に乗出した。
薄氷を踏む危うさの連続であったが、ユダヤ系金融家の協力など幸運に恵まれたこともあり,結果的に公募引受は成った。
日露戦争(1904〜05)を戦勝とする見方がある。だが、その国内向け評価は疑わしい。
日本海海戦旅順港解放など部分的勝利のタイミングで、米国が休戦調停に乗出してくれた。
内実を言うと、それ以上の戦争継続は無理な状態にあった。急ぎ講和に応じた。
勝負無しの停戦講和だったから、賠償金も植民地獲得も皆無であった。
外債債務が借金としてまるまる残った。全額償還は、20世紀の終り頃=戦後も昭和の終末頃に果されたと言う。しかし真相は、大戦破局の前後に起ったインフレ膨張による金融効果が、実質帳消にしたと解すべきであろう。
自ら持つ力を客観視できない・自信過剰に立つ国策運営は、投機的暴挙である。
そして3度目の戦争を呼び寄せ、日露停戦から40年後の大破局を迎えた。 
白人世界のサル真似=植民地帝国主義の模倣政策は、破綻するべくして破綻した。
次に、政界引退を公けに表明しながらも3度目の大蔵大臣就任に至る背景を探る。
請われての復帰であるが。時代は、昭和の金融恐慌から世界恐慌<1929〜>。このどん底時代。財政家としての手腕を買われて現場復帰した。
最近、彼の評伝をドラマ仕立にして放映した某国営放送は、「財政の天才」と持ち上げている。が賛同しがたい。
だるまに手足無し。その言葉どおり、財政学が”禁じ手”とする邪道の措置を繰出している。
日本財政史上、本来あってはならない「赤字国債=一般歳入の不足を国債で補うこと」の先例を拓いたのは、高橋是清であった。これが、戦後政治では常態化しており、ギリシャ以上に深刻である。
では、彼が打出した財政政策の成果は、どんな結末を迎えたか?その答は、見当たらない。とするのが正しい答である。
彼が始めた財政膨張策は、第2次大戦まで解消されず、戦時財政へと突入した。よって、正当に評価すべき状況を見ないまま敗戦により、すべてが有耶無耶・帳消しにされたと言うしかない。
最後に彼の生涯を展望した時、横浜〜カリフォルニア〜ペルー鉱山と。何度も騙されて,その都度苦境を舐めている彼が。
生来、能天気な放蕩者の素質を備え・財政知識が皆無であったが故の暴挙を多発した。ものと解したい。
彼は、仙台の地に一度も居を占めてないが、伊達気質だけは受継いでいたようだ。
父は鹿野派の絵師であったが、生母は町家から奉公に出たいわゆるお手付であったし。養父は藩士だがしかし足軽であった。
筆者は儒家の唱える仁徳・宿命による生き方を懐疑とする立場だが。高橋是清は、生育した環境からして不遇であった。
明治政変から敗戦まで、日本全体が最も不遇な時空軸に置かれた中で。高い評価を勝取るように立ち回って果した。
平常の人生の何倍もの密度を生きた彼は、さほど不幸とも思わず。”七転八起のだるま”そのままに,やや放埒にクリアーし。しかも、高い評価を現在も受続けている。驚かされる。