北上川夜窓抄 その23 作:左馬遼 

昨日は,北上川に因む特産物、舞草刀(もくさとう)の事を採上げた。
既に生産活動を、室町頃に休止してしまった遺産である。
著作し終わって,一晩過ぎた。朝になって、書き漏らした話題があることに気がついた。手直しも考えたが、ヴォリュウム制約もある。そこで続編とすることにした。
時代は,平安〜鎌倉の昔。場所は、北上川中流域に位置する平泉〜一関である。
舞草刀は、日本刀の源流期を成す・いわゆる古刀だが。日本刀が実用上の体験を踏まえて、既存の直刀〜湾刀へと変って行く過程を担ったのが。おそらく、一関の舞草(旧地名。現・一関市舞川集落)に拠点を構えた刀工集団であったろう。
日本刀は、鉄製品の中で、最も高度な水準を備えている優品である。
刀工とその作業場は、製造過程の最終コーナーだから。我々はある意味、記録映像などで見慣れ・かつ記憶し、理解したつもりでいる。
だがしかし、それは大きな誤解である。
産業の川下=接客場面だけを覗いただけでは、到底判りえない。壮大なバックグラウンドが隠れている。それが鉄の世界である。
鐵(てつ)なる字体がある。これを偏や旁で分解して、「金の王なるもの哉」と詠むのだそうだ。土建国ニッポンには、「鉄は国なり」なる成語もあり。たちまち財政資金の横領システムを偲ばせる。
また、鉄は,クロガネ=黒金と言うこともある。大陸中国には、古代において既に自然科学的研究が存在したらしい。曰く「五行説」とも言う。物質の構成要素を成す5つの基本元素=「木・火・土・金・水」を更に5区分して
 黄金(こがね)  白銀(しろがね)  赤金(あかがね)
 青金(あおがね) 黒金(くろがね)    と書く。
それぞれが示す金属は、
 金  銀  銅  錫  鉄  となる。
黄色を除く4つの色は、それぞれ
 東  南  西  北  の方位をも指している。
いささか脱線が過ぎたが。
ここで何故?古代中国の自然科学観などに回帰したか?を考えてみた、
今年フランスでCOP21が行われた。
採択された”パリ協定”の内容とは、2020年以降の地球温暖化対策として[産業革命以後の気温上昇を2度以内に低く抑える〕と。大枠について合意したものだ。
正しくは、気候変動に関する国際連合枠組条約締約国会議と呼び。2015年12月ムスリム・テロ直後のパリに195ヶ国地域が参加した。パリ協定採択に参加者全員が異を唱えることが無かったことに最大の意味がある気がする。
先立つ1997年12月COP3で採択した京都議定書のレベルから18年経って人類は,いくらか賢い前進をしたような気がする。
京都議定書への署名国は83ヶ国地域でしかなく、米・中の2大国が加わってなかった。
パリ協定もアクション・プランの策定や拘束力ある義務規程化など、具体的な道のりはこれからだが。
ここで注目したいのは、産業革命と言う、ほぼ250年も前の人類史的過去への言及と着眼が行われたことである。
資源鉄を地下から掘出し、鉄の加熱源として石炭を掘り出し、労働者を大量に投入して、大量生産・大量消費と言う新しい経済モデルに踏み出した。
新しいシステムは,必ずしも安全とは言いがたい。
多くの労働者を必要としたので、住宅団地を作り・公共交通網を設けて、通勤させるようにした。
その結果、大量の炭素化合物が地表に溢れる事態となり。都市公害なる大気汚染の慢性化・常態化を招いた。
昨今の激甚なる地球規模の気候変動もまた、おそらく同根であろう。
分業と専業による経済活動の効率化、資本家と労働者の壁ができ、較差と隔離が進行し。社会に修復しがたい大きな溝を造り出し、深刻な階層対立を招いた。
気がついた時は、住宅の骨組も通勤バスや自動車のハコも鉄で出来ていた。
入れ物が冷たく・固いせいか?産業革命後の人間関係もまた、相互理解が成立ちにくい差別と阻害の冷たい・没個性の非人間的な惰性が蔓延する社会に化していた。
今こそ,人類は、産業革命以前に立返って、世界観・価値観を建直すべきかもしれない
気が遠くなるほどの長い脱線だった。気を取り直そう。
舞草の刀工集団は、日本刀産業の川下に当るが。お金を支払う顧客は、眼の前の北上川を渡った平泉に居た。そこに屯して奥羽州藤原氏に仕える武士団であった。
では、川中・川上はどこに?
それは、舞草集落の背後にあった。
北上川に向かって背後。つまり東の方位約7kmの近さを川が流れている。
川の名は、砂鉄川と言う。北上川の支流で、幹流との合流点は、一関市川崎地内だが。
名前がドンピシャリ”砂鉄”だ。刀の原料となる鉄の基幹資材が、そのまた上流の北上山地から。労することなく、自然落差をもって流れ降りて来る。
これで、ここ陸奥を日本刀発祥の源流として、ほぼ確定的に考えたい。
蕨手刀が、蝦夷刀と呼ばれることの根拠もまた,これで確定したようだ。
陸奥の地は、有史時代の前後を通じて蝦夷の民が住み・暮らす土地であった。
しかも、三内丸山遺跡が発見され、発掘成果の研究から。蝦夷とは、縄文人にして列島先住者であることが、ほぼ確定した。
更に、縄文時代の東北・北海道の生活水準は、他所の列島各地よりも格段に高く。しかも人口も多かったことが、最近の人口歴史学でもって検証されている。
わが東北は、時代が下るほど。下手に水稲耕作を強制されたり。列島南方からの移住民を受入れることで没落し。後世の方が劣悪化しているのだった。
江戸時代も幕末期に、飢饉の多発・頻発化など苦境に陥る事態となった。
こと東北に限れば、律令制以降。下降歴史観が貫徹しているのだ。
気を取り直して、蕨手刀の話題に戻ろう。
筆者は,先日紅葉の京都を目ざして。高雄・神護寺を訪ねた。
ここには、国宝の伝・源頼朝像がある。実際は,金堂でレプリカを観ただけ
その頼朝が腰に差している太刀が、毛抜型日本刀である。
いわゆる握りの部分が、後世のそれのように、加工品を付加することなく。刀身と一帯の金属整形を示し、単純ながら豪快な古刀の風格を示していた。
さて、最後に。北上山地と一関の位置づけを確認しておこう。
北上山地は、岩手県の東部を南北に縦走する高地山脈だが。この山脈が抱える埋蔵鉄資源量は、推定もなく・よく判らない。
一関周辺の北上山地は、北上川と太平洋の間に長々と連なる高山帯のほぼ南の端に当る。
この辺のランドマーク・マウンテンは,室根山=標高895mである。
山頂・山腹に、神社・高原牧場・ツツジの群生地などがある。
この山を源流とする大川は、北上川に注ぐことなく。間もなく県境を越えて、宮城県気仙沼湾に注ぐ。
ここまで書くと、もう多くの人には。釈迦に説法で、語ること無しとなるのだが・・・
先日、映画『ガイアシンフォニー』を観賞したばかりなので、気仙沼湾の漁師・カキ養殖家=畠山重篤氏の名前を掲げる程度に留めておこう。
筆者はこう考えた。
我々凡人は、産業革命以降のひたすら量的拡大を志向する効率至上文化を追求めて来て,今,大きな壁にぶち当たってしまった。言わば,カネカネの詰らない生き方に汲々して・下らない人生を終ろうとしている。
その点で、畠山氏は、量でなく・質を求める生き方を貫いて来たように見える。
質を求める生き方は、おそらくキット。産業革命の前もアトも無い、ホンモノの人間の道なのであろう
身の回りの自然を正当に評価し、より良い形にして後世の子孫に残そうと地道な努力を積重ねて来たのだ。
環境を改善し・維持し続ける仕事は,人間として最も崇高な部類に属する生き方であると考えたい