もがみ川感走録第60 もがみ川のおしん・その2

おしんが乗せられた筏は、早春の雪融け水に押流され。危うい川流れであったが、どうにか目的地に上陸し、奉公先に落ち着いた。
かなりの脱線だが。私人の事業に雇われる=それだけのコトでしかないのに「奉公」と大袈裟に言う。とかくニホン語は用語の使い方がデタラメだ。
おしんは、材木店で住込雇い人として、幼児の子守りをさせられた。
雇い主の材木店の所在地は、不明だが。後におしんは勤め先を無断で脱出することになる。そこから推定するに生誕地からさほど遠い土地ではなさそうだ。
住込先では女中頭の管理下に置かれるが、縁に恵まれず。最初からしっくり行かなかった。
と言っても本稿では、おしんのストーリーを再現することはしない。
おしんは、赤ん坊を背負いながら、近所の小学校をウロウロしていた。義務教育に挙る年齢だったし、文字や手習いに関心があり。向学心に燃えていたようだ。
実はその事が、女中頭の気に触ったらしい。無学文盲の小作人出身らしい彼女は、小作人に読み書きや学問は要らないとの信念を抱き、おしんにもそれを強制した。しかもそれを広言して憚らなかった。
しかし、子守りをしながら教室の中を覗き込むおしんを教室の中から気づいていた人物が居た。左沢尋常小学校の教員<配役・三上寛>は、教育の普及に情熱を抱く博愛精神の持主である。
その晩おしんの雇い主夫妻を訪ね。説得して、おしんの講義参加を認めさせた。
女中頭は、おしんに対し昼食を供しないと宣言した。
その教員は、陰に回って、古い教材を集めたり・昼食代わりの簡単食を提供するなど。おしんの就学を支えた。
しかし、おしんの教室通いは、1ヵ月で終った。退校時に同級生から苛めを受けた。おしんは、軽い傷を負ったが、真相について誰にも他言しなかった。もう学校には行かないと単に自ら宣言した。
おしんのドラマに流れる仕掛けられたテーマがある。その一つが苛めである。
女中頭も同級生達も平然と弱い者に対して追い打ちをかける。弱い者・貧しい者は、更なる窮地に追い込まれる。
これはあくまで筆者の独善だが、このドラマにはカタチとトコロを換えて、度々苛めのパターンが登場する。
それがまたドラマを好評に導く観すらある。国民性に内在する性情の一つと言えないこともない。
もっと極論すれば、儒教を基調思想とする東洋アジアの独つの行動パターンですらあるようだ。
財力あるもの・権力の座にあるものには、尚更便益を増すように世間が動いてくれる。これぞ忖度<そんたく>だが。忖度の仕組は弱者に対しては、手のひらを返すように牙を剥く。この表裏一体の精神土壌は、遠く大陸中国春秋戦国時代に編み出された社会思想であるらしい。
いささか脱線した。登校を自ら断念したおしんは、筏乗り師に頼んで、実家へ手紙を届けてもらった。仮名文字ばかりのがんぜない子供が実家の親に出す、初めての便りだった。
ところが、実家の父も母も誰も字を読めなかった。
この日本列島の僅か百年に満たない昔。底辺に生きる小作層の識字率の低さ・就学率の低さには驚くが、それが実態であった。現代に住む我々からは想像も理解もできないほどの惨状に当時はあった。
儒教思潮を悪者にして云々せざるをえないほどの貧困と惨劇が渦巻いていた。
この惨めさは、農奴と呼ぶに相応しいもので。江戸期から戦前まで変らぬ実情であった。ただ呼び名が、水飲み百姓と言うか・小作人と言われるかだけの僅かの差異でしかなかった。
ある日おしんは材木店から無断で脱走した。
原因はどうあれ。雇われる立場からする無断退去は不利でしかなかった。
雇い初めの春先に渡された米俵は、おしんの約束違反をもって、秋深く冬がそこに迫る山里の実家から持出されることとなった。
当事者であるおしんは、翌春の雪融けまで行方不明となり。実家では遂に真相を知らないまま春を迎えた。残された留守家族は、越冬備蓄用のコメを採上げられてしまい、欠食の冬期を過ごしつつ、おしんの安否を気遣った。
おしんは、山を越えたその向こうに故郷の実家があると考えて、一心不乱に歩き出していた。別れ際に祖母が形見にと持たせてくれた50銭銀貨を無茶苦茶な言いがかりでもって一方的に採上げられたことがただ悔しかった。早く祖母に会って、そのことを言募り、無念さと申し訳なさとを伝えたかった。その一心で、心もとない山道へと踏込んだのであった。
折悪しく冬の初めの寒気が暴風と豪雪を伴って、最上川山地を雪景色一色に染め始めていた。おしんは、行き倒れとなり山中に倒れ眠った。フツウであれば、そこで絶命する筈だったが、運よく雪中で銃猟をする猟師によって一命を助けられた。
農閑期になると里の貧農は、雪山に籠って、伐木集材して山中の炭窯で焼き。時々出来た炭を背負い下って、麓の村で食糧に換えてまた窯元のネグラに帰る。その繰返しであった。
おしんを助けた猟師は、おしんが蘇生した時、炭窯の掘立小屋に暮らす2人目の同居人であった。
東京生まれの若者で、ハーモニカなどを持っていて都会的文化を思わせる場違いの人物。名は俊作兄ちゃん<配役・中村雅俊>と言った。
その山中で、雪融けの春まで、妙な組合せの3人暮らしが続いた。
退屈な山暮らしの中で、文字に飢えていたおしんは、俊作兄ちゃん<>の持物から、ある日刊行物を見つけ出した。
慌てて咄嗟に俊作は隠したが、後日それは鳳晶子<後に与謝野姓へ>の反戦歌集であり。人目に触れてはならない発禁本であると説明された。
俊作は、日露戦争に従軍した陸軍の下士官か何かの経歴を持ち、203高地で負傷し、今は脱走兵として追われている身であった。
俊作はおしんに文字や九九も教えたが、逆境にあってどう生きるべきかなど。人の世の中で、人としてどう生きるべきかを説いて聴かせた。
おしんにとって俊作兄ちゃんは、人生の師として第1号と呼ぶべき存在となった。
炭焼きの爺さんも小作に生まれた苦労多き半生で、頼りと目した2人の息子を戦争で先立たれた境遇から、俊作にもおしんにも優しく接する理解者であった。
やがて、雪深い山の中にも春の息吹が現れ始め、おしんは炭焼きの小屋を出て、皆に別れて実家に向かう旅を覚悟する。
まさにその日、麓から山狩りをする陸軍憲兵隊が登って来た。不意をつかれた俊作は2人の前で、たちまち銃殺されてしまった。
さて、その日露戦争だが。
日本では勝ち戦であったとされる。ニホン人は異常に勝ち負けに拘る国民性だが、それはスポーツの発想でしかなく。実際の戦争では、勝敗に関わらず一度失われた生命は戻らない。
どんな不名誉であっても平和に勝る存在はないし、正義の戦争なぞと言う言い方に意義は全く無い。
戦争は、一度始めると終らせることが実に難しい。勝ち負けなんぞ予め見透せるものでもないし、勝ち負けそれ自体に意義が無いことは既に述べた。
日露戦争は、局地戦段階で日本の国力は疲弊してしまい、以後の戦闘継続が憂慮され、敗勢に転じようとする絶妙のタイミングで、中立国アメリカが休戦調停に乗出してくれた。
ロシア皇帝は、休戦条件として何物も差出そうとしなかったが。小国にして国力の限界を露呈していた日本は、そのまま停戦に応じた。まさに天佑アメリカが、絶妙なタイミングで仲介役を買って出てくれた。
日本海海戦での世界の海戦史に残る劇的勝利や旅順港解放など陸上戦での勝利など、緒戦での部分戦闘での勝利は事実である。だが、それをもって戦争全体の勝利と混同・同視すべきではない。
日露戦争の結果は、軽挙妄動して安易に戦争に踏み出すことへの警告となるべき深刻さを示していた。
清国を欧米列強が食い物にしたように、遅れて開国した後進ニッポンが日清戦争に手を出し、この時は運よく賠償金から台湾1島の植民地権益など想定外の戦利品を手にした。
そこで味を占めて。ロシアにも手を出したが、柳の下にドジョウがいつも居るわけがなく。
戦争が終わってみたら。欧州で募集した戦時外債が多額に残り、償還負担が戦後の財政運営に支障を招いた。
必ず勝つとの信念だけで戦争を始める杜撰さは国民性ともいうべきであろうか?過去から学ばない無反省さが常に付き纏うようだ。
だが。アトで考えると、ロシアから受取っていたものがあることに気がつく。
かつてロシアが清国から割譲を受けた満州鉄道の運行権益を日本に再割譲されていた。
たしかに忘れ去られるべき中味の乏しい経済権益でしかなく、維持し続ける維持防衛のための費用負担も大きかった。
しかし、この譲り受けた権益が、後にアメリカとの対立の火種となり、日本帝国を解体へと導く火線となった。
いわゆる満州帝国の建国を招き寄せ、大きな災いとなったのである。
今日はこれまでとします