北上川夜窓抄 その13  作:左馬遼 

前稿では、下流大崎平野の蓖岳山を中心に書いたので、今日は上流域に立ち戻る。
南部藩の城下町=盛岡を「朝鮮通信使の町」と呼ぶそうだが。本当のところはどうであろうか?
実は、そのような見出しの記事が、朝日新聞の『窓 副題・論説委員室から』<1990・6・25夕刊>に載った事がある。
さて、朝鮮通信使の通過した経路だが、両国の外交中心たるソウルと京都・時に江戸との間を往復している。その経路からして、北上川の流域は、どう考えても無理がありそうだ。
記録類で容易にフォロウできる江戸時代以降は、ソウルからプサンまで半島内は陸路・釜山港から大阪港まで海路・大阪〜江戸・間は、陸路を通った事が判明している。
朝鮮通信使の外国人(官民合同編成団・時に総勢500人超)集団が、大挙して公道を往く光景は珍しいものであった。海禁が行われた江戸時代だから、唯一の珍奇な光景とも言える。
江戸幕府には、徳川の善政を広く知らしめる意味があり。沿道の庶民は、異国情緒・異文化風俗に接する希な機会と捉えていたらしい。
ところで,日本の外交下手は、有名かつ事実だから。型どおりおさえて置く。
発着地がソウルである理由は、李氏朝鮮の首都だからで。外交使節一行は、ソウル始発・終着であった。交易物資を満載した随行民間人の船団は、釜山港から出船・同行した。
列島サイドの到達・折返点が、京都・時に江戸と。廻りくどく記述する理由は、正しく解説すると下記のとおりとなろうか?
1  李氏朝鮮国は、1392年の建国〜1910年(1897国王退位までとする見解あり)の日韓併合まで、ざっと520年間続いた。
2 対応する日本列島の外交政権は、足利幕府第3代義満に始まり、織田信長豊臣秀吉徳川幕府〜明治政府までと。何度も入替わっている。
3 ともに東アジアに立地する両国の間には、儒教・仏教・礼法など共通の基本思想が備わるが。宗主国と言うべき大陸中国の存在があって、相互間の外交を積極的に推進する風土は乏しかった。
4 李氏朝鮮国の内政・治安上の悩みは、海岸防備と和冦対策であったから。列島との廻廊たる対馬海峡に立地する対馬島の島主=宗家に対して、入国審査事務の一部を担わせた。
  列島から希望して半島を訪問する者は。対馬に立寄り・宗家から許可証を受取らないと、半島沿岸で撃退されること必定であった。
5 対馬島主宗家とは、対馬藩主宗氏のことだが。地理的に大陸・半島の方が近い。狭い島のため、食糧面での自立が困難で。海峡の平和と交易の安全が、地域存立の要件であった。
6 対馬の実態は、日韓両属と言うべきであった。
  釜山に”倭館”を常置する事が許され、数百人規模の外交使節が常駐したとされる。
  高名な近江出身の儒者雨森芳洲も数年そこに滞在したようだ。
6つも列記したが。
朝鮮通信使は、徳川幕府成立以前、足利氏・信長・秀吉の居た京・大阪をターミナルにして帰国していたのである。
秀吉の半島侵攻は、文禄元年(1592)と慶長2・1597年の2度に亘って強行された。名目は、明国征討軍の派遣であったが。現実の戦闘場面は、終始半島の内であった。
この時あらゆる面で自立できない対馬島は、窒息寸前までに達した。
思うに。平和の配当は、広くかつ等しく万民に及ぶが。軍事行動の悲哀は、弱者と辺土に集中差別的に押付けられるものらしい。
現代に至ってもエネルギー・食糧の両面で自立できてない国が、果して集団的自衛の一役を担えるのであろうか?
過去の大戦同様。観るべき現実を見ない愚者の暴走と言わざるを得ない。
織豊時代の愚者は、翌慶長3・1598年8月遂に没した。
直ちに明国征討軍は撤収された。
対馬島は、生き残りを賭けて。李氏朝鮮国の要路に対し、交易再開を働きかけたが。洋として道は開けなかった。
国交再開に曙光が射し始めたのは、関ヶ原の戦い<1600年>、徳川家康征夷大将軍補任<1603年2月>が成ってからであった。
新しく登場した為政者の家康は、対外通商による利益獲得に対して積極的であった。対朝鮮外交再開の内諾を対馬宗氏に与え・働きかけを促した。
李氏朝鮮国の外交再開に対する姿勢は、とても頑なであった。2度も国土を侵略された苦い体験は、未だ薄らいでいなかった。しかし、日本侵攻軍によって拉致された自国民を連れ戻したいとする意向は根強かった。
事の善し悪しはさておき。
日本の陶窯界が急激に躍進したのは、まさにこの頃で。戦役のドサクサに便乗して連れ帰った朝鮮人陶工に藩窯を開かせる事例が、列島各地で相次いでいた。
李氏朝鮮国から下された再開の条件は、主に2つ。
まず、日本から先に国書を提出せよ。
次に、先王陵墓を荒した罪人を差出せ。     と言うものであった。
結果的に、慶長12・1607年再開第1号通信使の来日が実現した。
しかし、来日した使者の正式名称は、答礼・刷還使であった。その言わんとする処は、日本側から外交を求めてきたから答礼使を送るとする。如何にも儒教原理に立った勿体ぶりであったし。刷還使は、先の争乱で連れ去られた自国民を取戻す役目であった。
しかし、その本意を江戸幕府は知らなかった。先に日本サイドから発せられた事になっている国書は、対馬藩の内部で元からねつ造して,朝鮮に提出された。
外交再開の2つ目のネックもこれまた、対馬藩の内部で工作した。対馬島民の犯罪者2名が、先王陵墓を犯した者に祭り上げられて、引渡された。
となれば、再開第1号答礼・刷還使が持参する「朝鮮国書」から、その工作経緯がばれないように細工する必要があった。
国書を確認目的で対馬藩が預かり、対馬藩内部で偽造したものと差替えた。この時の「1607年朝鮮国書」の現物は、京都大学文学部博物館に現蔵されている。と言う
儒教原理に立つ両国に、対等外交を身を以て教えたのは、対馬藩であった。対等の書式形式や作法を発明したのは、対馬藩であるとしておこう。
やがて、裏外交の立役者たる対馬藩の3代目家老柳川氏は、増長の極みから藩主に対抗意識を持つようになり。幕閣に対して、長年に亘る国書偽造を公然と漏らす事態となった。
これが「柳川一件」<1635年>である。よくあるお家騒動だが。
事は外交の要を担う藩の内紛とあって、3代将軍家光の親裁を仰ぐ大事件へと発展した。
喧嘩両成敗により、首謀の柳川調興弘前津軽藩へ・藩主側の規伯玄方<きはくげんぽう 1588〜1661僧・臨済宗>は盛岡南部藩へと、それぞれ配流となった。
役目がら責任を負った規伯玄方を受入れる盛岡サイドは、文化蓄積の豊かな朝鮮の知見を持つ元外交僧を厚遇した。彼の方も、惜しみなく諸方面を指導したらしい。
一説に南部鉄器の改良や黄精飴(漢方薬原料のアマドコロを処方した韓流薬局方のお菓子)の開発を指導したと言われる。
瀬戸内海航路・東海・中山道など朝鮮通信使経路から遠く懸離れた北上川流域に「朝鮮通信使の町」が誕生したのは、そのような込み入った背景があったのだ。
最後に。規伯玄方は1658年赦免されて、南禅寺に移り。波乱の生涯をそこで終えたらしい。