もがみ川感走録第44  山形人その1 

もがみ川は、最上川である。
  最上川  のぼればくだる  稲舟の
     いなにはあらず  この月ばかり
  <古今和歌集・巻20  詠み人知らず>
前シリーズでは、「出羽路の芭蕉」として、8回に亘って芭蕉の俳句を採上げた。
この俳句なる呼び方は、明治以降から今日のもので。
厳密に言えば芭蕉は、同じものを「俳諧発句」と詠んでいた。
世界で最も短い詩と言われる『5・7・5音』の詩形は、和歌=短歌から派生した。
その過程で、歌合わせ・宗祇で知られる俳諧連歌俳諧連句・歌仙など。
長い時間軸の中で、言わば改革運動とも呼ぶべき韻文芸術の変遷が繰返された。
時代が遡るほど。音声にたよる詩歌の力は、光り輝く。それは、詩歌が民族の故事や英雄を思い出させる重要な儀式の主役であったからである。
上代の日本列島に住んでいたのは、文字を持たない民であった。文字を持たないでも、民族に伝わる歴史は保持していた。
ヒストリーと呼ばれる歴史を再現し・伝世する役割は、聡明な女性が担っていた。
伝承は、口と耳による無形の共有資産である。
やがて、文字が伝来し。伝統である口と耳に・新来の手法たる眼と手指の文化が加わった。
現在に伝わる最も古い文字記録での『伝承集成』が、万葉集である。
文字の使用により、「歌」の世界も大きく変質した。ここでその全体を述べることはできないが、長歌の衰亡と消滅は文字に起因するとしておこう。
文字に接してから、吾が民族は、短いことに、より高い文芸価値を置くように、変ってしまったらしい。これは、誤解を招きやすい要約だが。「眼と手指が」主役の座に収まり・旧来の主役であった「口と耳」が脇役に押しのけられた。ことを意味している。
さて、冒頭に掲げた最上川を詠み込んだ歌は、ヒストリー伝承とは全く関わらず・ある男女の間のやりとりをもの語る。
上3句は,いわゆる序詞<じょしorじょことば>で。下2句が、歌の主想である。
主想の『いな』音をスムーズに引出すために、同音の稲<いな>を先行させた。序詞の役割とはそんなものらしいから、殊更に最上川が舞台である必要は無いことになる。
男にプロポーズされた女が、申し出を断った。それだけのことだが、断わりの理由を筆者は、斎藤茂吉の解釈によって、深く理解した。
その解釈によれば。件の女性は、男が傷つかないように、上手にやんわりとはねつけている。と言う
女性生理のことは、勿論よく判らないが・・・ 茂吉は精神科ながら医師であるから、抜群の信頼を置いてよい。
斎藤茂吉<さいとうもきち 1882〜1953>は、西村山郡堀田村守谷家(農業)の3男として産まれた。斉藤姓は、上京した際に寄留した郷土の成功者=斎藤紀一(当初浅草で開業医。後に青山脳病院・院長、帝国議会議員)の養子となったことによる。
若くして優秀であった茂吉は、開成中学〜一高〜東京帝大・医学部と進み。母校付属病院精神科の勤務医となるが、一高時代に和歌の道に開眼し・作歌・評論・研究に尽力した。
発刊された歌集・論文類は、多数に過ぎるので紹介しないが、そこに山形人らしい並外れた努力と研鑽が観てとれる。
茂吉は、留学洋行の帰路、青山脳病院(港区南青山にあった)の火災焼損の報に接し。再建に着手し院長に就任し、松原分院(世田谷区。現・都立梅が丘病院の場所にあった)を開設した。
脳病院経営の傍ら、歌の道にも終生勤しんだ。
戦時中戦意高揚の歌を多く発表し、戦後世間から指弾されるが。1945から約2年間、郷里の上山、後に大石田疎開したが。ここで妻・やす子(養父紀一の娘)との同居を再開し、東京に復帰した。
  最上川  さかしらなみの  たつまでに
     ふぶくゆふべと  なりにけるかも
  <歌集 白き山 1949刊行>
「さかしらなみ」は、漢字を充てると逆白波、茂吉の造語とされる。
疎開先の大石田で、ほぼ日課としていたのが散歩であったと。次男の宗吉(1921〜2011 ドクトルマンボウで知られる医師・作家の北杜夫)が、後日書いている。
実相観入を標榜した茂吉の姿勢をよく表わしつつ、心境の一端すら伺える歌である。
因みに、長男の茂太(1916〜2006 モタサンで知られる医師・作家)も随筆を良くした。
1951文化勲章を受賞。その2年後に逝去。
なんと、郷里の上山市最上川の支流である須川の畔に。茂吉記念館がある。
そしてJR奥羽本線に、”もきちきねんかんまえ”なる名の駅がある。
上山温泉駅と蔵王駅の中間にある駅の名である。
耳の小さい筆者だが、人名に由来する駅の存在を他に知らない。