北上川夜窓抄 その17  作:左馬遼 

北上川に因む人物を語るシリーズの第4弾である。
作家・志賀直哉は、明治16・1883年北上川の河口の港町=宮城県石巻市で生まれた。
それがここで採上げる理由だが。父・直温は、東京を活躍の基盤とする経済人であり・転勤族として2年ほど石巻に滞在した。その僅かな期間中に直哉は生まれているから、いささか言いがかり的主張と見えないことも無い。
ただ、祖父・直道は、幕藩時代は相馬藩主<福島県相馬郡など>・中村氏の家令職にあった人だから、東北地方に無縁な家系であるともいいがたい。
筆者は、小説を読まなくなってもう40年程もなるから、格別に志賀直哉(しがなおや 1883〜1971 私小説・心境小説)を語る立場でもないし、格別新しい話題もまたない。
この8月3日94歳の天寿を全うした阿川弘之を通じて、少しだけ志賀の身辺を窺い知ることがあっただけである。阿川が書く戦記物・軍記ものなどは、例外的に読むことがあった。
唯一覚えていることは、志賀直哉が視覚において天才的な能力を備えていることへの言及である。2歳前後に離れてしまっており、記憶に残るはずの無い石巻における北上川の情景描写が、実に正確であったと絶賛していた。
情景描写と言っても、文字に拠る描写であるから、その理解たるや複雑なものがあるが・・・
長期に亘って執筆された代表作「暗夜行路」の文芸的表現において、その描写力は特筆評価され。1949年に文化勲章を授与された。特筆に価する持ち味なのであろう。
彼の生涯を概観してみると、筆者と重なる時空軸はほぼ無く、遠い存在の人だが。私小説・心境小説が彼のフィールドだから、意想外の身辺雑事が公開されている事実に驚ろく。
それは彼が世に出るか・出始める頃に、父との間で生じた確執が、世の人に広く知れ渡っている。点だが、18歳の前後。
足尾銅山鉱毒事件の現場見学会に参加しようとして父に反対されている。
いつの時代にも、世間の常識や経済活動のしがらみから自由な立場の若者と。
諸々の制約から政治的自由を束縛される閉鎖・閉塞の世間に生き・経済界に身を置く者たる親と。
世代差による世事観相の差は、いつの時代も埋めがたいものがあると言えよう。
モノ書きは、恥かきとも言われるが、文筆稼業である以上避けられない身辺吐露なのかもしれない。
その彼が。フランス語を公用語として採用すべしと提唱して、大いに世間を騒がせたことがあった。
昭和21・1946年のことである。
いわゆるオキュパイ・ジャパンのGHQ統制下の戦後混乱期であり、当時の思想風土を推測理解することは到底難しいが。60歳代前半の年齢で既に文壇の大物であった頃のこと。
しかも立場を忘れたかのような、極めて大胆な主張である。
多数議席を以て単一見解をごり押しされる平成末世のトウジョウ独裁再現の現実よりも、より自由な言論が横行していた良い時代であったかもしれない。
このフランス語提言は、単なる思いつきとしか思えない程度の背景しかないことを指摘しておきたい。
彼は、学習院から東京帝大英文科へ進んでいるが。フランス語を話すことに特に長けていたようでもない。
推測するに。文字を操る職業文筆家の立場から、日本語の言語としての未熟さ・完成度の低さを強調したかったに過ぎないと思えるものがある。
いずれにしても、筆禍事件と言わないまでも、実力もあり実績を備えながらも。戦後になってから、それなりに世間の注目を浴びたわけだから、生活人として忘れられてないことを確認できただけで良しとすべきであろう。ここではその程度の事件と解しておきたい。
さて、最後に彼の人となりを最も正しく物語る事績を型どおり述べて筆を措く
各地を転々としつつ・極めて広い世界に属す人々と親交を深めた生き方であった。
明治43・1910年  雑誌「白樺」の創刊に参画、東京帝大を中退。
   雑誌「白樺」は、大正12・1923年に関東大震災を機に廃刊されるが。
   大正デモクラシーを象徴する文芸・美術刊行物として第160号まで続いた。
   創刊は企画段階から関与した武者小路実篤志賀直哉学習院グループ。
   理想・人道・個人などを中核思想に掲げ、多くの有為ある気鋭新人を発掘。
   枚挙にいとまないので、ここでは個々の作家名を掲げることをしない。
大正元・1912〜15 東京を離れ、広島県尾道市に移住。結婚する
大正4・1915〜20X? 千葉県我孫子市在住時代。
   「城の崎にて」「小僧の神様」を発表
大正14・1925〜38 京都時代を経て奈良市在住。
   高畑町に建てた居宅は、後に保存・公開される。
   高畑サロンと呼ばれ、多くの文化人が訪問した。
   「万暦赤絵」「暗夜行路」を発表
昭和13・1938〜  神奈川県鎌倉市に移住。
昭和24・1949 文化勲章を授与される。
昭和46・1971   死去。88歳
以上がごく簡単な年譜だが、生涯転居回数20数回と言われ、解明困難だが。主な活動は戦前期をもってほぼ終了している。
彼を慕って、高畑サロンに集った面々の名前を挙げないが、冒頭に登場した阿川弘之などは、彼から多く影響を受けた人物の一人とされる。
その阿川弘之の娘・阿川佐和子が作った俳句か川柳か決めかねる親子対談時の公表句がある。
  親孝行  して欲しい時に  まだ親はいる
元の句<出処不明>を駄足ながら、掲げておく
  親孝行  したい時分に  親は無し   石の柱に  着せられもせず