もがみ川感走録第46  山形人その3 

もがみ川は、最上川である。
最上川に因む人物を繙くシリーズだが、タイトルの副題は”山形人 そのNo.X”としている。
さて、その”山形人”なるイメージだが、特に定義も無く、大統領被選出資格でもないから当地での出生者に限定もしていない。つまり最上川に因む人物であれば、誰でも良いのである。
よって、今日は、イギリス生まれの女流旅行家イザベラ・L・バードである。
彼女は、明治11年の夏頃に、最上川の上流である松川を西から東へと渡っている。
最上川渡渉は、おそらくその1度きりであろうが。今となっては確かめようも無いので、まあそんなところであろう。
バード<Bird 1831〜1904 旅行家・紀行文作家>は、英国ヨークシャーの牧師の長女として産まれた。
1878・明治11年来日し、東京〜日光〜新潟〜山形〜秋田〜青森〜北海道=6〜9月
その後10月に、神戸〜京都〜伊勢〜大阪を訪問した。
帰国後彼女は、旅行中故郷の妹に送った書簡を基に紀行文を書き。1880年「日本奥地紀行」を刊行した。
<<注>> この紀行文のタイトルは、筆者が読破した邦訳版の表題による。刊行年は原語での刊行年としたが、原語版は、東日本・西日本別の上・下巻2分冊構成となっている。
なお、邦訳版は抄訳から完訳まで種々ある。筆者が手にしたのは、抄訳版である。ことを予めお断りしておきたい
「日本奥地紀行」を読んだのは、筆者の私事で申し訳ないが、あまりに古い記憶なので何時?と思い出せない。
ただ、この数年。荒川沿いに新潟県から山形県に越えたり・赤湯温泉に浸かった。
その際にその館内に詳細な紹介展示があったのを眺めた。後日帰宅後に該当部分を確認フォロウしたことがあった。
赤湯温泉が所在する南陽市では、アルカディアとはおらの里と。独占感覚でおられるであろうが、これもまた今となっては、絞り込むことは難しい。
アルカディアとは、エデンの園のことでもあるから。東洋的な理解では、桃源郷と呼ぶべき人生の理想郷である。
だがしかし。過去の事象を時間軸を無視して、現代の空間に繋ぎ止めることは。地域感情として・また人寄せの観光振興を標榜する地域行政府の限界からも、無理からぬことではあろうが・・・一抹の寂しさを覚える。
ここで言う過去の時間軸とは、暦的には明治だが。実態的に1878は、西南戦争の翌年に過ぎず。明治新政安定化の見通しが未だ流動的だった。よって、バードが置賜盆地で実際に眼にした光景は、江戸後期の農村風景そのものであったと解すべきである。
更にその光景=空間イメージもまた、殊更狭い地域に限定さるべきでなく。最上川の流域が造り出す大らかな山岳流川の大系であったと捉えるべきであろう。
さて、彼女の視点を理解するため,状況をもう少し広く掘下げてみよう。
邦訳のタイトルが”奥地ニッポン”では、いささか大袈裟と解する向きもあろうが?果して真相はどうであったろうか・・・
クロフネショック(1853年ペリー来る)から開国してまだ間もないこの時期。言わば後進・未開の日本列島を単身女性が分け入って旅することは、時の日本政府も在日英国大使も、かなりの憂慮を持ったはずだ。
東日本に絞り込んでも、函館&新潟の2港の開港だが。
函館港は、1855年3月開港=1854に調印された日米和親条約に基づき開港された。
新潟港は、水深不足などの支障があって,事実上の機能開始は1869・11月。
こちらは、修好通商条約(1858年中に5ヶ国と調印)に基づき開港場に指定された。
当時どこの国でも。旅行そのものが、未だ一般的で無かった。まして、熟年ながら女であり、尚更常識の壁は厚かったであろう。
まだある。当時の日本列島は、クロブネ以来の社会変動期にあり、ほぼ列島全域で、断続的に農民一揆・打ち毀しが発生していた。開港場周辺には、コレラ蔓延の世情不安すらあった。
そこで?通訳兼ガイドとして究竟な若者=伊藤鶴吉が同行している。なお、その辺の事情を語る著作に、高橋克彦の「ジャーニー・ボーイ」朝日新聞出版2013刊がある。
だがしかし、バードは、アジア最初の訪問地として日本を選んでいる。
彼女の刊行物を展望すると、最初の訪問旅行は、カナダ・アメリカであった事が解る。
一説に掛り付医師の勧めによる転地療養であったらしい
ここでバードの刊行物を抜出して、下記に掲げる。
彼女の旅行先を概ね一覧できる。しかし、ここには邦訳ある紀行のみを掲げた。全著作でもなく・またすべての旅行先が網羅されているわけでもない
  カナダ・アメリカ紀行=1856年刊行。処女紀行作
  ハワイ紀行=1875刊行
  ロッキー山脈踏破行=1879刊行
@ 1880年に「日本奥地紀行」を刊行
  チベット人の中で=1894刊行
  朝鮮紀行=1898刊行
  中国奥地紀行=1899刊行
彼女は,生涯1度結婚している(1881年。「日本奥地紀行」刊行の翌年=年齢50歳頃)。
結婚生活が短かった(約5年)こともあり、程なく外国訪問・紀行作家に復帰している。
こうしてみて解ることは、彼女はれっきとした冒険家であったことである。
欧州ならまだしも、一人で女性がアジアの内陸を旅することは,殆ど秘境を探検する冒険そのものであった。
陸中国の訪問地では、民衆が集まって来て,投石に遭うなど、生命の危険もあった。
秋田県でも増水時に河川を横断して、水没する危機に遭遇している。
にもかかわらず、旅を続け、いったん帰国の後に。また旅に出かけている。
著述する職業者として、冷静沈着であったようだが。布教をする家庭に生まれ育った者として格別の覚悟が備わっていたのかもしれない。
最初に訪問したカナダ・アメリカを書いた処女紀行作が、意想外の好評を得て。金銭面で味を占め、覚悟を固めていたのかもしれない。
ここで脱線だが。英国も日本も共にシマグニである。
ユウラシア大陸の端っこにチョコンと鼻くそみたいに付いた島である点もまた、共に似ている。
しかし、東・西の端と言う点では、格別に遠く離れている。その国民性となると、正反対と言えるほど。更に大きく異なる。
こっちは、蒙古襲来を運良く免れて以来、専ら海岸民族に徹してしまい。内なる平和に邁進して、同化・低レベルへの平均化を国是としたから、外交音痴・国境閉鎖の国民性著しく。
最近は、円安誘導政策の奏功もあり・若者のコモリヤ君傾向こそ著しい。
他方の英国は、7つの海に押出し。世界の富を金融中心ロンドンピカデリー&ロイド’sに呼込むなど、華々しい影響力を地球規模で示した。
英国文学と言えば、海洋小説が盛況だが。海陸を問わず、辺境探検の冒険文学も盛んである。
冒険に乗出し、その体験記録を刊行する。ベストセラーに押上げ、その印税で優雅な老後を過ごす。それが1つの国民性的パタ−ンとされる。
その点で、女流のバードを受入れる素地が、英国にはあったわけだが、
 1891年 王立スコットランド地理学協会の特別会員に推挙される
 1892 王立地理学協会の特別会員に推挙=イングランド・在ロンドン
 1893  ヴィクトリア女王に謁見した
摘記したとおり、女流のパイオニア冒険家、一国民としても最高の処遇を得ている。
英国の国情は、それほど内なる緊張と対立が激しく。外に出て実績を積重ねるしかない、厳しい環境であったのだろう。
更なる脱線だが、彼女は同時代に生きるジャーナリストの眼を持ったホウドウ写真家でもあった。1894から3年の間に、4度に分けて朝鮮半島各地を訪問したが。この頃の半島地域は、日清戦争の事実上の戦場であった。
日韓併合に至る前夜の時期だが、日本の膨張国策をしっかり観察し・本国に報告している。
現地駐在の日本大使が、李氏朝鮮最後の国王夫人を暗殺した経過を、ほぼ現場で目撃していたようだ。
最後に、これも筆者の憶測・独断だが。
内陸置賜盆地が、なぜ?アルカディアとまで、絶賛されたかを考えてみよう。
十三峠を超える登り下りの険路の何処かで、東に穏やかに広がる内陸耕地を遠望したことであろう。
その遠景が、彼女の故郷であるヨークシャーからエディンバラに至る光景に何処か相通ずるものがあったのであろうか?
十三(じゅうさん)峠を超えた日々は、梅雨時のどしゃ降りの中であった。と言う
そして、松川を渡った日は、晴れていたようだ。小松(現・川西町)の宿は快適であったらしい
晴れに加えて旅の前途に希望があった、温泉があった。
しかも彼女の故郷に温泉は、ほとんど無い。
晴天下の移動と温泉の多数なることが、”アルカディア”の称号を賜う要件であった。
なんせ、彼女には。幼少期からの持病とも言うべき、脊椎の病があった。
湿度と寒冷は、脊椎の病に特に応えるらしい。
アルカディア命名の真相は,実にそこにあったかもしれない

日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)

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