もがみ川感走録第37  出羽路の芭蕉No.2 

もがみ川は、最上川である。
芭蕉の出羽路の旅を知るための資料に、「おくのほそ道」がある。
この書は、わが国最高の紀行文学書とされ、高雅にして難解でもある。
練りに練られた文章は、高度に虚飾と創作に富む名作である事は事実だが。「おくのほそ道」本文を踏まえて、彼等の旅の実態を知る事は難しい。
同行した門人=河合曾良(そら 1649〜1710 俳諧師)が、残した「曾良旅日記・元禄二年日記」がある。
旅行の記録として,実に簡潔・正確な内容である。
この旅日記と「おくのほそ道」本文とを対比することで、多くの事が解明され。
芭蕉の推敲の過程が究明された。
「おくのほそ道」の本文が確定するまでに、旅行が終ってから5年の歳月を要しているが。
曾良旅日記」と並列比較する事で、本文の文芸的評価は一層高まる事となった。
曾良旅日記」<重要文化財1978指定>に書かれている事は、日付・時刻・天候・経由地・宿泊・面会した者の名・歌仙同席者の名前と俳号など。事実の羅列に徹している。
この旅日記の存在は、早くから芭蕉の後継門人の間で知られていたが。芭蕉研究者に向けて刊行と言う利用可能な形を以て示されたのは、1943年のことであった。
そこで「曾良旅日記=元禄二年日記」に基づき、「おくのほそ道」の旅を再構成してみよう。
元禄2・1689年3月27日江戸を出立し、美濃国大垣を離れる同年9月6日まで総日数156日・行程600里の旅であった。上掲陰暦表示を陽暦に置換えると5月16日〜10月18日となる。
なお、曾良は、北陸の山中温泉芭蕉と別れた。以後の日程・行路・宿泊は、推定研究の成果をもって記述した。曾良芭蕉は大垣で再会、その後曾良のみが江戸深川に直行帰庵した。
因みに、芭蕉は大垣を離れた後、伊勢神宮参拝を経て郷里伊賀国上野に滞在している。
全行程総日数156日のうち出羽国には、5月15日〜6月27日<陽暦の7月1日〜8月12日となる> 都合42日間滞在した。
この42日間なる滞在日数は、全行程総日数の4分の1を越えるウエートであり。陸奥国滞在日数23日の倍数に近い事に驚ろく。
後世、俳聖と冠された芭蕉の最高傑作を。日数データで把握しようとするアプローチは、いささかどうかとも思われるが・・・・。陸奥国が「おくのほそ道」の旅の中核的目的先であったことは、広く知られており、疑いも無い。
宮城野の章断中に「奥の細道」なるズバリの地名が登場する。そこは、現在仙台市岩切地内の東光寺門前付近・冠川沿いの道と比定される。
他にも旅に出る前から、松島・塩竈のサクラ・平泉などが主要訪問予定地であると表明されていた。俳諧書のタイトルである「おくのほそ道」からしても、そのことは明らかである。
そう考えれば、尿前(しとまえ)の関を陸奥から出羽に越えた時点で、もう旅はほぼ終了しており。アトは一直線に郷里の伊賀に向けて帰郷するばかりであったと考えられる。
しかし、結果はそうならなかった。
出羽国入国の第1日目である尾花沢において、芭蕉当人も想定していなかったハプニングが起きた。
そのハプニングによって、後半の旅が大きく膨らみ・想定外の大旅行に変貌した。と考えるしかないようだ
ではそのハプニングは何であったか?それを解明する事は、おそらく容易なことではない。
旅の前半を俳諧書「おくのほそ道」に集録し・後半を”仮称=出羽路の旅”として,分割刊行していてくれれば、判りやすかったのだが。現実はそうなってない。全行程総日数156日分が一括して一冊にして刊行されているからだ。
しかし、1行程の旅を2つにした先例がある。
往路を俳諧書「笈の小文」に収めたので、「笈の小文」の旅と呼ぶ。
同じ旅の帰路を俳諧書「更科紀行」に収めているから、同じく「更科紀行」の旅と呼んでいる。
1行程の旅が往復路ごとに分離して、扱われる先例だ。
以下は、筆者の独断と偏見でもって、ハプニングの実相を推測・復元しようとする考証である。
さて、出羽国入国の第1日目の宿は、尾花沢・鈴木道祐宅であった。
前日尿前(しとまえ)の関を陸奥から出羽に越えた時点で、「おくのほそ道」本文は、その様相をガラリと変える。
尾花沢章断の文は、文庫版サイズでも僅か4行しかなく。極めて短い。
その代わりというのも妙だが、4句も発句が掲げられている。
  涼しさを  わが宿にして  ねまるなり
  這い出でよ  飼屋(かひや)が下の  蟇(ひき)の声
  眉掃(まゆはき)を  俤にして  紅粉(べに)の花
  蚕飼ひ(こがい)する  人は古代の  姿かな ・・・ 曾良
4句も発句を書き連ねる事は、異例と言うしか無い。陸奥国内の本文記事には全く見えない。
いずれの句も主題に、鈴木家の歓待厚遇ぶりやその家業を詠み込んでいる。いわゆる挨拶句である。
どの句も平易な言葉を使って、皮膚・耳・眼で感じた事を描き、直接に感じた事を表明している。
言わば、現代俳句にも通ずる簡潔さが備わっている。
1句目。”ねまる”は、尾花沢で使われる土地言葉をそのまま借用したものらしく。横になって休息する仕草を言う。
2句目。”蟇(ひき)”よ声だけ聞かせず・さっさと出てこいと呼びかけたものだが。芭蕉自身は、世俗の中に身を置く生き方をてらわず。自らを醜い姿のカエルに近い存在と感じていたフシがある。
3句目。”眉掃(まゆはき)”は、刷子<ブラシ>のこと。紅粉(べに)と同じく女性の化粧具。その外観が、アザミ型の紅花に似ている。
なお、この句は後日立石寺に向かう道中で作られたとする見解がある。
しかし筆者は採らない。
何故なら、芭蕉は伊賀の人で、一時藤堂家の家人となり。後浪人したが。生家は名のみ無高郷士で、実態は百姓暮らしであった。伊賀は紅花先進地として有名な産地だ。よって、紅花の栽培時の姿・形を幼児の頃から見知っていたものと考えるべきである。
4句目。”蚕飼ひ(こがい)”は、2句目の飼屋(かひや)と同じ。鈴木家の家業であった養蚕業の佇まいを描いている。
なお、最後の句は曾良作としているが、芭蕉が添削<短句7・7を長句5・7・5に引き直>してここに掲げている。
その元となる句は、須賀川歌仙の挙句<宿を提供した須賀川駅長相楽家の当主=俳号等躬を囲んでの3韻歌仙の最後の句>
  蚕養(こがい)する屋に  小袖かさなる
  *後日修正あり。末尾注記参照*
出典=「曾良旅日記・俳諧書留」須賀川より
さて、鈴木家だが。
屋号を嶋田屋と言い。土地の産物や京都からの下り物を扱う仲買商で、金融業も併せ行っていた。
尾花沢は紅花の生産地ではないが、羽州街道の宿駅にしてかつ最上川河岸の大石田に隣接する水陸両交通の要衝であった。そのため流域平野部の特産品を集荷しやすく、大店商いを営み、紅花大尽と呼ばれた。
鈴木道祐は、時に39歳。この3年後に家業を継承して、3代目八右衛門を襲名することになるが。未だ自由な若旦那であった。
彼は、家業遂行のため,京・大阪・江戸の3都を足しげく訪問滞在した。その地で伊藤信徳<談林派>の門下に入って、本格的に俳諧を学んだ。
道祐の俳号は、残月軒清風と言う。江戸の宗匠達と交流しており、芭蕉とも知己であった。
既に清風が編集・刊行した俳書・撰集も複数あって、相互に入集していた。
清風は、地元尾花沢俳壇では宗匠の役割を果す中核的存在でもあった。
因みに当時宗匠が催す句会は、職業や身分の差を超越した横断的交流の場であったようだ。
情報交換・職業訓練・知友拡大・人生修養など、幅広い目的を持った人士が交流する場であったらしい
・・・・・末尾・注記・・・・
10月3日に補正・追記
上掲本文の短句は、曾良旅日記・俳諧書留136頁よりの引用だが。
その前の135頁上段に、単吟句だが
  蚕する  姿に残る  古代哉   曾良
とあるのを。遅まきながら発見した。
こっちの方が、上掲本文の芭蕉改作句に近い句形であると考えたい