北上川夜窓抄 その18  作:左馬遼 

南部駒なる言葉がある。
いささか釈迦に説法だが。書きはじめる都合上、型どおり言葉の由来を書いておく。
駒は馬である。
その由来は、おそらくこの日本列島にウマを持込んだ渡来人集団の民族名と重なったと考えられる。
ウマの招来時期も経緯も明確でないが。『駒=こま』なる音は、朝鮮半島に建国した高麗<こま。同半島に最初に成立した実在王国である高句麗に同じ>に由来するとされる。
それが証拠に、「こま」なる地名は、馬産に関係した列島各地に散在する。
関東圏だと、駒場(現・目黒区 東京大学キャンパス。江戸時代幕府の馬の調教場であった)とか、駒沢(現・世田谷区 東京オリンピック公園。武蔵野台地は馬産地)とか、駒込(現・豊島区〜文京区 六義園付近。古代武藏国の官牧があった)の地名が残る。
また。現代の鉄道ステーションを「駅」と呼ぶのは、古代律令期の駅伝制度に由来する。駅家(詠みは”うまや”)すなわち厩舎のことだ。
以上がいささか長い「駒」がウマであることの説明だが、よって、南部駒は、南部産のウマを指すことになる。
次に南部と呼ばれる地域のことだが、時代によってその範囲は変動する。最もオーソドックスな空間画定は、幕藩時代の南部藩領である。
これを一言で要約すると、現・岩手県和賀川の北岸から北に向かい・現・青森県の東半分までとなる。
青森県の東半分とは?更に突っ込んで描くと。
概ね八戸・十和田・むつの3市と上北・下北・三戸の3郡がそれに当る。
とまあ、一気に言われて、”はいそうですか”と理解する人は、かなりの地理達人である。
よって、いささか脱線気味だが。2つ程挿話を書いておく。
まず、現・青森県の県勢を1つとみるか・みないかは、ここでの本論ではないが。県域の東・西の境界ラインを抑えておくことは、県民文化の現勢を適確に理解するために欠くことのできない前提となる。
つまり、徳川時代速算300年間弱の分割藩治の影響は、この人口過疎空間かつ人的交流の乏しい現代にも、深く及んでいる。
生活様式・風俗慣行・方言気質など多くの点で、1つの県域内に東・西差が大きくある。
より深く突っ込めば、明治政変時の県界設定に合理性が乏しい真相をこそ知るべきである。
次に東・西の境界ラインを挟んで実際に起ったトラブルについて軽く紹介しておこう。
正徳3・1713年の檜山騒動である。
檜材を藩境を越えて伐採したことが発端となり、南部・津軽の両藩庁間で決着することができず、幕府に提訴する事態となった事件である。
幕府は、現地調査を行った後に、津軽藩側を勝訴とする判決を下した。
その判決によれば、南部藩馬門村(現・上北郡野辺地町)の者が、津軽藩狩場沢村(現・東津軽郡平内町)の山に入り。檜材を越境盗伐したことになる。
ここで東・西境界ラインを更に詳述しておこう。
南端が十和田湖北岸の御鼻部山・北端は陸奥湾・野辺地湾・狩場沢駅付近の海岸となる。この両端を南北に繋ぐ境界ラインは、概ね八甲田山の外輪山の東側尾根を繋ぐように雁行状に走り。西の津軽郡と東の上下北郡の郡境を形成する。
事実の経緯は、上記のとおりだが。両藩の間には、陰湿とも言える遺恨が存在した。
津軽氏は、弘前を本拠とする独立の幕藩大名となったが。その前身・出自において南部氏の配下・属将であった<津軽を名乗る前の旧姓を大浦氏と言う>。
津軽弘前藩の領地が、また、南部藩の旧領のうちであった。
南部サイドは、『ただの部属将官が藩領の一部を掠め取って行った』と称して。快く思わず、見下す傾向が長く続いた。
ある時期従者であった者を、藩境を隣接させて大名に取り立てた幕府の迂闊さもさることながら。秩序転換期の明治政府がまた、実情を踏まえることなく。岩手・宮城・青森の旧陸奥国の県域設定をデタラメに実施したことの誹りは免れない。
北上川に沿う流域にも、和賀川の北岸である南部地域と南岸である伊達地域との間に地域文化の壁がある。川畔都市は現・北上市だが、この付近には、伊達・南部の藩領境界を示した「藩境塚」が今でも残されており。地域文化境界ラインとして、現在も生き続けているようだ。
以上が2つの挿話だが、村の名にもウマが登場するとは、如何にも南部藩らしく徹底している。
伊達の北に南部が居る。実にややこしく方角誤解を招くことしきりだが、まず氏族名ありきで、後に由来地名が根づいたのだから止むを得ない。
盛岡藩南部氏になったのは、1598年の不来方城着工以後のことである。それ以前は、家伝によれば。三戸流<現・青森県三戸郡南部町>と根城流<現・同県八戸市>とが、各々その地にあって、長く土着する豪族であった。
これまた、家伝によれば。家祖の南部光行が、建久2・1191年糠部(ぬかのぶ)郡の地頭となったことをもって、大名興隆の始まりとしている。因みに糠部は、江戸初期に分割されて北・三戸<2郡は現・青森県>・二戸・九戸<2郡は現・岩手県>の4郡に分割されて、郡名は消えた。
ここまで辛抱強く読み続けてきた読者のイライラも相当につのっているいるものと思われるが、それは、時代に応じて空間域区分が動くため、文脈が複雑になるからだ。
筆者の力量不足も勿論あるが、藩境と県境が異なる他に。基幹河川がまた変るからなおさら厄介である。
このイライラは、挙げて拙速・無分別の明治制度を徒らに100年超も長く・大敗戦と言う秩序転換期を越えて、維持し続ける怠慢な国民性がもたらすことを肝に銘じるべきである。
家祖の南部光行は、源頼朝の属将であるとする俗伝があるが。奥州藤原氏討伐のドサクサに乗じて、陸奥国の最奥地域である馬淵川<まべちがわ>流域部に、居を占めたものと考えるべきであろう。
消えた糠部郡は、現・八戸市を地域中核都市とするが。北上川とは、分水嶺を異にする最奥地域である。
分水嶺を挟んで南流する北上川に対して、その裏側を北流するのが馬淵川である。
消えた糠部郡には、『九部四門制』<くかのぶ・しかどのせい>なるものがあったと言う。
まず7か村を編成して1戸とする。次に1〜9まで番号を振り、9戸1郡としたものだが。東西南北ごとに門を設けて、9戸を各門に分属させた。
ほぼ800年も昔のことであり、要領を得ないが。”戸は牧場である”とする見解がある。
糠部(ぬかのぶ)は、駿馬の産地であったらしい。
「戸立(へだち)」なるコトバが吾妻鏡に登場すると言う。源頼朝が、後白河院に名馬を献上した際、上皇がいたく喜んで。戸立は何処か?なるご発声あったとするものだ。
ウマは、権力者の所有物とするのは、洋の東西を問わず・通史的共有認識だが。この国にも、駒牽<こまひき>なる宮廷行事がかつて存在した。
記録に拠れば、貞観の頃(859〜77)に始まり平安期中続いた。毎年8月紫宸殿の前庭に各国の官牧から貢進されたウマを引出し、天覧に供する儀式である。
ここに言う各国とは、信濃甲斐国穂坂・武蔵国小野・信濃国望月・上野の4国5牧である。
ここに糠部郡のある陸奥国は名を出さない。
しかし、甲斐国が古くから馬産地であったことは、さまざまに意義深い。
現・山梨県南巨摩郡に南部町があるが、南部氏が糠部郡に進出・土着する以前の本貫地であるとされる。
郡名の「こま音」もまた、着目すべきである。武田軍団の中核戦力は、騎馬隊であったこともまた有名である。
上野国は現・群馬県だが、県名に「ウマ」の文字を含んでいる。
その県庁所在地・前橋は、江戸中期に改名するまで旧地名を”厩橋(うまやばし)”と言った。
しかし、間違いなく陸奥国はウマを産んだ。
奥州藤原氏の領国から産する特産品と言えば、ウマ・鷹の羽・金売吉次が運んだ黄金の3品だから。否定する訳には行かない。
やや時代は下るが、南部曲がり屋とチャグチャグ馬コと、2つの国指定民俗文化財がある。
後者は、現・滝沢市・鬼越蒼前神社から盛岡市・盛岡八幡宮までの約15km。飾り付けたウマを引出す行列で、旧暦5月5日に行われた。家畜に対する感謝の念を表したハレの行事である。
対する前者は、寒冷期を妊娠期間とするウマを保護するため。人馬一体の生活の場として、特別に設計・構築した家屋構造を言う。
因みに、現・宮城県地域も古くは馬産地だが、こっちは「直家(すごや)」なる少し異なる構造形式の人馬共生の住家がある。
筆者は、芭蕉が尿前(しとまえ)の関で味わった封人(ほうじん)の家を想像するが、全く自信はない。