もがみ川感走録第59 もがみ川のおしん

今日から『もがみ川のおしん』と題して、書き始める。
2018年になって、何で今頃「おしん」なのか?
まずその疑問に応えることとしよう
このシリーズは、筆者の勝手気侭さを反映して、第1稿の成った2014.8月から既に4年目に入っている。そして今日の原稿の進行番号がNo.59号だから、極めてのんびりゆったり進めてきたといえる。
この数年継続的に最上川の川面を眺める、そんな至福の日々でもあった。
その川の流れが、国民文学と目される「おしん」の舞台であると聴かされて。この稿を終るまでに一度は採上げようと考えてきた。
放映されたのは1983・昭和58年4月〜翌年3月までである。NHKの連続TV小説、しかもNHK・TV放送開始30周年記念番組として1年枠の通年放映の朝ドラであった。
時代背景は、ロッキード疑惑後の田中角栄判決など政治スキャンダル騒ぎの一方、ディズニーランドの開業や夏の甲子園PL学園の桑田・清原のペアが登場して活躍するなど、騒がしくも活気のある経済活動に明け暮れた世相でもあった。
筆者の個人的事情を述べれば、35年前はサラリーマン生活30歳台の後半であり。放映される朝の8時台は会社に向かって駆け込む時間帯だ。実は一度も当時の放送は観ていない。ただ当時の記憶で、人気が格別に高い国民的番組として好評であったことを漠然と知っていただけだった。
そんな事情だから、本稿を書く目的で。レンタル・ヴィデオ・ショップに行って、DVDを借り。ざっと流し視る事にした。それでもほぼ2ヵ月を要した。もちろん朝から晩までそればかりにかまける暮らしでもないが、過ぎてみたら意外に時間を取られていた。
全297話だが、仮に1話13分として概算すれば、64・4時間とまあ、そんな観賞時間となろうか?
おしんは、1901・明治34年の生まれ。放映時82歳との設定である。
だが、実はおしんはドラマ上の存在つまりヴァ−チャルな偶像だ。だがしかし、平成の現代において、海外から観光客を誘致することが国策の一端とも目される状況になると、おしんの果した役割は実に大きい。
外国からの観光客誘致がどれほどの大きい意義があるか?それは筆者が論ずべき課題ではない。
読者の皆さんがそれぞれの立場で考えて戴きたいが、経済効果だけが全てと言うような短絡的見解に与する気は毛頭ない。
手元資料によれば、世界68ヶ国で何らかのカタチで放送され。主にアジア・中東地域において、日本へのインパクトを与える素材となったらしい。どちらかと言えば、この地域は女性解放が相対的に進んでいないと思われ、家電生産王国ニッポンを従来と異なった面で認識・覚醒させることになったかもしれない。
どの地域であれ・どんな国情であれ、『女』がその社会の縁の下の力持ちであり・底辺を担う役割を果していることへの共感みたいなものが、おしんへの親近感を呼び寄せるかもしれない。
驚いたのは、北アフリカのどこかに「おしん」なるファーストネームを持つ女の子が相当数居るらしいとのメディア報道である。おそらくこのファミリーは、間違いなく日本シンパであろう。
国民文学の大きな金字塔であるドラマおしんが、国内だけでなく。国外でも相応のセンセーションを巻き起していることを高く位置づけておきたい。
さてそのおしんの映像だが。最も『もがみ川』を象徴するシーンは、おしんが筏に乗せられて、雪一色に彩られた急流をあたかも流される木材のように下って行く光景である。
おしんが算え年齢の7つで、最初に奉公に出されたのは、材木店であったから。そのツテでイカダ下りに便乗することになったらしい。雪融けの頃の川の水はごく冷たい。誤って転落したら、まず生命はもたないであろうし、そもそも筏は、一般人を乗せてはならない輸送手段である。
言わば、相当にひねりの利いた映像文学の力作だが。文学的創作として、日本に積雪風景があり・その名は最上川と言うのだと。世界に印象づけた傑作映像と言えよう。
だがしかし、筆者の解釈は、少し異なる。
イカダにしがみつきながら、おしん<谷村しん=配役・小林綾子>は必死に母<谷村ふじ=配役・泉ピン子>の名を呼ぶ。言わば今生の別れとなりえる、悲しい情景だ。
そんな時代相でもある。一方、父<谷村作造=配役・伊東四朗>はおしんの名を呼びながら、川に続く雪野原を深雪が纏わりつくのも苦にせず、おしんの姿を追いかける。
何とも哀れな小作人の辛い生活心情が浮かび上がる。
社会の底辺に暮らす彼等は、地主に搾取されていて、雪融けの頃になると、もう食い繋げないのである。
おしん年季奉公は、実家に残る家族の食い扶持として、先払いを受けるコメ俵とバーターであり。算え年齢の7つのおしんは、周囲の同級生が小学校に入学する姿を傍目にみながら、遠く親元を離れ、他人の家に住込んで、翌春まで、約束のコメを家族に食べさせるために、じっとあらゆる苦難に独りで耐えなければならない新生活に飛び込むのであった。
この最上川の雪のシーンは、日本の社会構造の歪みを端的に表象した歴史に残すべき映像シーンであると。筆者は考えている。
そしてこの小作解放なる大問題に身を投じた人物もまた、この国民的映像文学には登場する。
その小作解放運動家は、名前を皓太<こうた/高倉のちに並木=配役・渡瀬恒彦>と言い、おしんとは相思相愛で駆落ちする約束にあった。
後に、皓太は特高警察に捕まり、拷問されて不具者になってしまい。転向したことをもって、生涯を挫折者としてひっそりと暮らした。
小作問題は、江戸時代以前から日本列島に内在する経済的収奪に特化した社会的構造失陥だが。明治新政もまた「維新など」と耳当りのよい虚名を掲げながら、全く手を付けなかった。
その後戦前の官憲警察は、中立の立場に立つことができた筈だが、弱者大衆に背を向けて地主側に一方的に与した。
結果、この社会構造的歪みが是正されたのは戦後になってからだった。
執行主体は、外国駐留軍なる圧倒的軍事影響力をもって、強権を発動した無条件降伏を取付けた戦勝国であった。
クロフネ・ペリーの故国は、じっと君主軍国制の未熟極まりない途上国つまり隣国ニッポンの根本的貧困の根源がどこにあるかを冷静に観察していたのかもしれない。
昭和20・1945年8月の敗戦とそれに続く陸軍・海軍の解体、不在地主の強制追放をもって、はじめておしんの半世紀がハッピーエンドで終る素地が整ったのであった。
我が国の貴顕・碩学層は、自国の病弊を自発的に自主的に改造することはできなかった。
因みに、おしんが皓太と連れ添って、散歩するラストシーン。そこは移住先つまり皓太の故郷であろう伊勢志摩の海岸風景が遠景の中に見えていた。
更に、おしんが冒頭シーンで訪ねて行った生地である銀山温泉<現・山形県尾花沢市最上川支流の銀山川流域>に近い土地だが。もう既に廃村になっており、かつての住地・耕地は原野に戻りつつあった。
今日はここまでとします