もがみ川感走録第34  べに花の10

もがみ川は、最上川である。
この「べに花の章」は、本日のNo.10をもって終る。
山形が、紅花生産の王国であった時代は、ほとんど江戸時代までであった。
明治の新時代になると、海外から大量の染色材料が殺到した。
コスト面で国産の紅花は太刀打ちできなくなった。
紅花だけでは無い。殆どの染色産業が、この頃瞬く間に消滅した。
産地産業が消え去ることは、地域経済だけでなく・地域社会の崩壊をも意味する。
このクロブネ襲来に始まる秩序の転換は、列島各地の農業と製造業を・そして地域を無力化した。
しかも当時、開国間もない後発後進国ニッポンは。外交術も劣っていて、関税自主権を奪われた状態であった。
外国産業の攻勢から自国産業を防衛したり・衝撃緩和のための時間稼ぎをする・言わば当たり前の対外交渉権すら発揮できなかった。
ここで忘れず述べておきたいことが、2つある。
まず、紅花が消えた原因は、コストのみで敗北したこと。
品質面・製造技術面の詳細は不明だが、高級品分野と美術展示用など文化財レベルでは伝統工芸として存続している。ホンモノは廃れないとする真理は不動のようである。
次に、繊維輸出全体がどうなったか?だが・・・生糸は終始健在であった。
先年世界遺産に登録された富岡製糸場が、小さな改良で。十分対抗可能である事を物語る。
ビジネス実務では、相手輸出先のオーダー・ロットに応じた品質揃えをすることが大事。つまり,品質管理とは、高度なものを徒らに追求することでなく。求められるレベルに近寄ることに過ぎない。
生糸の話題を続けよう
生糸は、明治初年からアジア太平洋戦争開戦の1941年まで。外貨獲得のトップ品目に君臨し続けた。
しかし、1945年終戦となり、平和の時代は到来したが。生糸の輸出需要は雲散霧消してしまい、旧に復す事はついぞなかった。
生糸の輸出が、戦後(=熱戦が終結し・間もなく冷戦に移行するが)の一応の平和到来によって、回復しなかったのは。実に不思議であるが、客観的な歴史事実である。
この奇妙な事象を解明する第1は、カローザスによるナイロン発明である。人造繊維が生糸の存在感を抹殺した。
果してそれだけだろうか?例によって、筆者の独断と偏見でもって、背景の一端を解明してみよう。
まずは、戦争開始までの生糸実需が、軍需オンリーであった。と考えたい
熱戦の終結により、軍需は軍需だから一挙に消えた。戦後のなだらかに発生した軍需分は、すべてナイロンに切替った。
では、その軍需とは、何か?軍用機用パラシュートだ。
緊急脱出用の単なる備品。軽くて・丈夫な素材であることが必須条件であった。
しかし、今日この軍需を経済統計によって、説明・考証することは難しい。
次は、技術史の通観である。
ほぼ全ての自然素材系染料は明治初年頃に、ほぼ一斉に化学系染料に置換わる悲哀を味わった。
更に自然素材系繊維がまた、化学繊維の登場により。戦中・戦後の需要減退に苦しんだ。
いずれも経済事象として客観的史実だが。その背景は、極めて特殊な時代状況が造り出した・ある意味一時的な現象でしかないことを指摘しておきたい。
19世紀と20世紀の政治経済の極めて異常な合体は、本来ありえない異常現象だが。歴史的には思いのほか長く続いた。
国レベルの財政主導と軍事科学の異常接近が、軍備増強中心の変則経済を躍進させ、化学産業なる負の科学を急激に膨張させた。しかも、異常の長さで続き、現在進行中と言える側面もある。
19〜20世紀は、戦争の世紀であり。愚かにも人類史は、世界大戦を発明した。
新商品と宣伝されると、踊らされやすい従属国民は。疑うことなく、負の科学が産み出したニセモノを。飛びつくような早さで消費した。
負の科学が造り出すものは、ホンモノの代替品でしかない。
これからの21世紀、石油化学系の産物は、典型的な座礁資産だから、速やかに消えてゆくことであろう。
とまあ、いささか長い・独断と偏見による脱線であった。
現実に立ち返ると、ベスト・パートナー同士である絹と紅花は、ほぼ我々の周囲から消えている。
最後に、かつての栄光の時代を象徴する記念物を紹介して、紅花の章を閉じることとしたい。
その記念遺物だが、2つとも神社の石灯籠である。
 ○ 武藏国桶川稲荷神社に安政4・1857年紅花商24人によって建立され。高さ4・5m
   これが知らせる事実は、関東紅花商いのありよう。
   関東紅花産地は、江戸時代おそらく最後発<天明年間1781〜9頃>の
   生産地として登場した。江戸の需要を最も後押したのは、
    出雲阿国の歌舞伎
    家光が始めた参勤交代
    利根川の銚子放水口への付替工事
   と言われる。 あながち俗説とは言えない。
   奥州<福島の三春・仙台平野>
   関東<武藏・下野・常陸・上総・相模>
   で産した紅花が江戸に集まり「紅粉」に加工され、
   小町娘の化粧用として小間物屋が持歩いたと言う。
   衣料用の紅花は、原料のまま加工地・京都に送られ
   染上がり反物になって、江戸に戻ってきたと言う
 ○ 摂津国住吉大社にも高さ7・3mの大石灯籠がある
   こっちの方は、文久2・1862年建立、永寿講34名寄贈とある
   講員は、大阪・京都・尾張・美濃、元締が出羽山形の豪商佐藤家。
   5つの国に跨がる、航海安全・海運繁盛のすみよしスケールに相応しい
さて、ここまで11ヶ国登場したが、この頃圏外移出された紅花の生産・加工は、薩摩・肥後・筑後・伊予・播磨・伊賀の6国を加えて、都合17国となる。
全国生産量のほぼ半分以上を出羽1国がおさえ、染色加工は、京都が独占していたと言う。
江戸後期の3大消費地は、京・大阪・江戸だ。
新興躍進の江戸は、ついに紅花染め織物産業を育てるに至らなかった。
京染反物の最大消費に貢献しながら、加工産地になれなかった。
その原因として、ここでは3つ掲げておこう。
 1、 千年王都であった京の雅び・王朝風の文化水準に届かない
 2、 将軍のお膝元、倹約令・奢侈禁止令を多発する武家風土と相容れない
 3、 京都ほど、優良・豊富な・天然の「工業用水」に恵まれない
歌舞伎を育てた江戸の女物商いと言えば、紅粉・白粉・京染反物だが。
白粉は、伊勢国が原料の水銀を特産したから。伊勢丹松坂屋などの伊勢商人が育った。
百貨を商う高島屋・大丸などは、京から進出した名門大手が目立つ。
絹も紅花も、自然系素材にして・いつの時代も、ホンモノである。
代替物でない自然系素材に回帰する日が来ないことがあろうか?
ホンモノの復活は、近未来にあると考えたい