北上川夜窓抄 その10  作:左馬遼 

北上川は、陸奥国最大の大河である。
陸奥国なる分国設置は、律令制度の下であるから。その始まりは概ね7世紀の終りか8世紀の初め頃と考えてよいだろう。
一時的に石城・石背国などが分界建国されたが,間もなく旧に復され、陸奥国一国状態が、明治初年まで維持された。
明治初年中央集権体制の下、上流部つまり北の方に岩手県・南に当る下流域に宮城県が置かれた。
両県の県境は、岩手県一関市〜磐井郡〜陸前高田市を繋ぐ境界線の南にある。
幹川たる北上川は、この県境を貫いて北→南へ流れ下るが。
支流河川の分水嶺を考慮すると。岩手県磐井郡に属す花泉町藤沢町室根村の三町村は、山塊頂上列線を越えて、南にある仙台平野にはみ出しており。地形・地理的な合理線形から逸脱しているようにみえる。
以上は筆者の独断と偏見による見解でしかないが。
文明開化を標榜した明治新秩序への移行は、あまりに性急に推進され。幕藩江戸の旧体制を否定し・旧秩序を除却することに捉われ過ぎ、拙速主義の弊害が目立っている。
では、幕藩江戸の旧秩序における盛岡南部藩・先代伊達藩の藩境は、どこにあったか?と言えば。北上市中核市街地たる黒沢尻付近を東西に結ぶラインとなる。
このラインは、現在の県境から。幹川・北上川の河川流長ベースで直線概算60km北にスライドした位置に当たる。
このようにして、岩手県の面積は、徒らに肥大化した。
まだある。
明治新政府が行なった伊達藩に対する強烈な嫌がらせと解する人もいる。
鳥羽伏見の戦闘は、当然に回避できそうな政治状況であったにも関わらず、強行開戦となった。
官軍テロとでも言うべき、過剰暴発行動であった。
列島本州の北端たる奥羽地域に、分離独立の機運があった。
いわゆる奥羽列藩同盟だが。その盟主は、大藩ランク1位・2位の仙台伊達・会津松平の2家であった。
表高62万石の伊達家藩庁がある仙台は、奥羽独立分封後その首都に目されていたことも災いした。
新政府スタートにより、仙台藩はそのトバッチリをしっかり担わされた。
さて、筆者が考える修正県境ラインは、以下のとおり
栗駒山<標高1627m・列島脊梁の奥羽山脈の一画>から室根山<北上山地の南はずれ・895m>をほぼ西→東に結ぶ線が基本プランだ。
このメインを成す西・東端にある2つの山を結ぶ現実ラインは、以下のとおりである。
栗駒山の東にあって、山塊頂上列線を成す・猫ヶ森<標高406m>〜中山峠(花泉町の北辺)の間で,陸羽街道=R4号国道、東北本線東北自動車道、都北新幹線を跨ぎ。
更に、中山峠と牛山峠(標高197m・旧千厩地区内)の間で、北上川がクロスする。
なお東進して、牛山峠〜室根山の間で、気仙沼街道とJR大船渡線を跨ぐ。
以上で全貌だが。視認地形論に立っており、現地での見晴らしの良さ・簡単明瞭が柱だ。
ただ、惜しむらくは明治新政の大錯誤を一部修正する程度の手直し案でしかない。
修正後も、気仙郡気仙沼市が2つの県に分断されたままだし。
地図で目立っている気仙沼市の北側への出っ張りが、幾分解消される程度でしかない。
とまあ、修正県境ラインの話題はおしまいにしよう。
たかが土地されど土地である。
土地割のことは、農業生産を基軸とする土地本位制の下では、より重要度が増すわけだが。
江戸幕藩体制の秩序の下では、現代以上に土地が持つ意味は重かったらしい。
土地はすべての価値基準にして、太閤検地による表高が重視された。
上述したとおり北上川に臨む黒沢尻の地が、南部・伊達の藩境として最終確定するが。
そこに至るまでの両藩による藩境争いを略述しておこう
始まりは、天正19 ・1591。
この前年に、小田原北条氏が滅ぼされ天下統一が成った。豊臣秀吉会津まで来て、奥州仕置を行なった。
その奥州仕置に反発して、北で九戸政実・仙台大崎平野に葛西・大崎の乱が起った当年に当る。
その翌年には、悪名高い朝鮮侵攻が始まっている。
いわゆる戦国時代の終り頃であり、何事も武力で解決しようとする風潮=秩序前夜のことであった。突然遠くからやって来て、あれこれ指図する天下人秀吉。その指図そのものに対して、反発してやろうとの気運が溢れていた時代であったようだ。
藩境争いは、決着を見ないうちに、戦国時代は終り、江戸時代に入った。
最終的に決着に至ったのは、寛永18・1641年であった。
武力に頼って解決する時代は、とうに終っていて。老中が仲介して話し合いにより合意した。
ことの始まりから、既に50年が経過し。平和な秩序の時代が到来していた。
だがしかし、草深い陸奥の時間の流れは、緩やかだったようだ。
最後は、仙台伊達藩内のいざこざである。
始まりは、第3代仙台藩主・伊達綱宗の不行跡(酒乱・吉原狂い)だ。
幕府の改易処分を懸念した藩内は、こぞって藩主の隠居と幼君への相続を願い出た。万治3・1660年幕閣は、綱宗を逼塞・閉門させ。幼君の相続を許したが、藩風を汲んだか?混乱の再発を畏れたか?同時に幼君に後見人を付ける裁定を下した。
その後見人2名は、伊達家一門から選抜され・幕藩大名格に列せられることとなった。
しかし、幕府は、その新設大名分の知行地を発令しなかった。
そこで已むなく仙台本藩は、表高62万石を割いて。一関藩3万石・岩沼藩3万石にそれぞれ配分した。よって、これを仙台藩内分(うちわけ)大名と言う。
一関藩主=伊達宗勝(仙台初代藩主・政宗の末子)は、後見役の立場を梃にして、仙台本藩の実権を握ろうと画策し。強引な刑罰主義を導入して伊達一族による支配権の取戻しに走った。
他方岩沼藩主=田村右京(仙台第2代藩主・忠宗の三男、初代政宗の孫、政宗正室の実家である三春・田村家の名跡を継いだ)は、本藩に従属する立場を貫ぬき。独立大名化を指向した宗勝とは対照的な姿勢であった。
後見役宗勝と本藩執政奉行<他藩の家老のこと>との確執は、家臣団を巻込んで。拡大し・長期化した。
奥州藤原氏初代・藤原清衡が創建した名刹=平泉・中尊寺は、この頃一関藩領内に置かれたため。田畑・家屋敷所有や非課税の特権が剥奪され、衆徒から訴状が出されるなど、藩内の混乱は諸方面に及んだ。
そして遂に寛文11・1671年谷地論争が契機となって伊達家一門伊達安芸宗重から幕府に出訴する事態となった。事件処理は、酒井老中の江戸藩邸で行われることとなった。その場で、仙台本藩奉行・原田甲斐宗輔(宗勝派の重鎮)が暴発して、安芸宗重を殺害した。
この刃傷沙汰から、幼君後見人・伊達宗勝は、藩政混乱の責任を問われることとなった。改易処分となり、土佐国に配流された。一関藩3万石は廃藩。所領・家臣団は、本藩に戻された。
もう一人の後見人・田村右京も、閉門の処分を受けたが。翌年赦免された。
以上が、後世有名な伊達騒動だが、ここでは歌舞伎=伽羅千代萩、山本周五郎樅の木は残った大槻文彦伊達騒動実録をなぞることはしない。
加賀・前田藩の藩政と伊達・仙台藩のそれとを比較して、筆者なりの勘違いを述べてみたい。
加賀藩は、御算用場を置き・改作奉行を設けた。知行取クラス家臣は、領地を与えられても年貢が与えられるのみ。知行地に直接働きかけることは一切禁じられた。農業経営・徴税業務は、藩庁の改作奉行が専権担当し、兵農分離を徹底実施した。なお御算用場は、戦略を担当するシンクタンク型の企画部署で、俊秀事務官僚が集められたようだ。
その点、伊達・仙台藩では、幕末まで、各家臣個々が知行地の農業経営・徴税業務を直接担当した。一関・岩沼両藩領捻出のため寛文元・1661年総家臣団の領地を見直し・知行宛行状を一斉発給した。土地替えによる肥沃・不作などの好・悪をもろに引受ける事態が生じ、一部に不満が昂まった。
この時本藩執政職・筆頭奉行であった奥村大学などは、肥沃地へ移転しつつ・ほぼ同時期加増されている。
この年貢支給と現実知行地給付との差は何処にあるか?と言えば。
現代社会で多発する相続争いに似ている。
土地のままでは平等を期しがたいが、換価してしまえば徹底して均等分割を計ることができるのだ。