北上川夜窓抄 その9  作:左馬遼 

石巻は、北上川の河口に作られた大きな町だが。
今日採上げる盛岡は、中流域にある街。現代の岩手県庁はここにある。
さて、舞台は突然東京に移る。筆者がサラリーを得るべく赤坂<港区>にいた頃、昼の散歩コースに南部坂があった。氷川神社からアメリカ大使公邸などに至る高台の一画。
南部坂命名は、南部藩中屋敷が存在したことに由来すると言う。
岩手県は、とても広大な県域を持つ事で有名である。
1県の面積をもって、雄に四国全域に匹敵するらしい。
その岩手県の位置(誰でも知っている事をダラダラ述べるのもナンだが続ける)だが、東北地方の北東を占める。
東北の北東に南部とはこれ如何に?ナンブは座標軸を示す辞でなく・ただの苗字である。
どうもこの辺に複雑骨折の主因があるような気がする。
さて、その南部氏だが、知る限り江戸時代を通じて、彼の地に居を占めた外様大名である。
では古く、どこまで遡るか? 家伝によればいろいろあるが。
ひたすらあり過ぎるし、確実な始まりは不明と言わざるを得ない。
彼の地の大事件と言えば、源頼朝による奥州藤原氏の征討=文治5・1189年だが。
南部氏はその頃、つまり政治的・軍事的な大空白地帯が突然出来したドサクサを機に進攻して。
北の辺土に土着を果し,瞬く間に強力な地盤を築いたらしい。
以後、吾妻鏡などの公式史書に、たびたび出現し。雪深い辺地東北の中の強大な雄族として、その存在を知られるようになる。
ここではこれ以上遡ることはしない。甲斐国の南部地域出自やら・河内源氏・武田源氏などの自己主張やらについては、格別肯定も否定もしないこととする。
さて、家系存続の次なるヤマバは、天正18・1590年の奥州仕置である。
秀吉の小田原征伐は、天下統一の最後のステージとなり。その場にタイミングよく馳せ参じた、時の当主=南部信直<のぶなお第22代当主>は。所領安堵を取付けることができた。
もちろん,その後の関ヶ原戦役でも上手に繰回して、幕藩大名に転身し、幕末まで無事に生き残った。
南部家以外に、鎌倉〜戦国〜江戸幕藩を通じて1ヵ所に定着し終えた大名は。薩摩島津家と対馬宗家くらいのもの。いずれも僻遠の辺地だから、あながち珍しいと持ち上げることもなかろう。
僻遠の辺地などと,格別の意味を含む字を使う。これは表意文字の世界だけに、差別を容認する立場と誤解される懸念なしとせず。いささか鼻白むものあるが、儒教的倫理に伝統をおく列島世界観では、客観的事実と言わざるを得ず。そこで青森県の地図をウロウロと彷徨う。
なんと、田舎館村なる行政地名を発見した。
田舎なる普通名詞を含んだ固有名詞である。かなり意を強くしたが、そこまでである。
筆者自身は、地図でなく地球儀の使用を標榜する立場である。何故そうするか?と言えば、地球儀には、中心も周辺もなく・ユークリッド的に平等な曲面が連綿するのみである。
南部氏が、はじめの頃。活動の本拠を置いた天地は、八戸市で知られる青森県三戸郡の南部町・三戸町などであった。この地は、どう考えても北上川とは無縁の最奥地に当る。
盛岡に本拠を移したのは、文禄元・1592年〜寛永10・1633年の間とされる。
実は、盛岡・不来方<こずかた>城へも、三戸<さんのへ>城からストレートに移ってきていない。九戸<くのへ>城(福岡城とも言う)・郡山城を経由している。
僻奥の地には、これほどの悠長な時間の流れがある。
そこにはその土地なりの事情、時には藩内の騒動や周囲との小競り合いがあったらしい。
隣藩にして・血縁に連なる津軽藩との角逐もまた有名だが、ここでは踏込まない。
最後の根拠地=盛岡・不来方城への移転は、着工から竣工まで,40年間も要した。
長期を要した背景は、盛岡の地形を思うと更に納得できよう。八卦ならぬ風水学的に、水難の相がみてとれる。
北から南へと、大河北上川が流れる。東から中津川、そして西から雫石川が、合流している。
大雑把に言えば、十字架のように。3川が1所で合流する。
水害が多発する土地に、わざわざ進出する。果して賢明といえようか?
水害問題を十分に含味して、あえて北上川流域に進出し。近世幕藩大名へと転身を図ったとしたら、南部利直<としなお盛岡初代藩主・南部累代27世>は、南部家中では、大英断と評されたかもしれない。
しかし、全ての皺寄せを担わされる末端細民の費えを思うと、胸が痛む。
因みに、公式記録に残る飢饉が76乃至80件・一揆が133件と,周囲に比べても異様に多発している。
この地には、「やませ」と呼ばれる農業に不向きな気候があり。寒冷地特有のハンディもある。
しかし、鎌倉期当初から約700年近い年月も・一地に定着した為政者だ。
土地固有の環境に応じた・あるべく措置を採ることもなく。徒らに稲作を強制するなどあまりに愚策であると言わざるを得ない。
しかも。禄高の高直し<文化5・1808年。藩の表高を10 → 20万石に増やしたいと南部利敬(としたか盛岡第10代藩主)が自ら申し出・幕府から許された>に至っては、現実を弁えない無能者の仕業としか思えない。
過ぎてしまえば、悠々たる時間の流れ・スケールの大きな北国らしさを感じさせるばかり。
さて、建設40年の大工事だ。さも壮大な城郭を想像させるが、まさにリーズナブルな規模の城である。
筆者は何度も盛岡を訪ねている。
新幹線開通間もない頃のこと
杜と水の都・盛岡は、東北新幹線の延長が(ダサイタマ・ゴネトク密約の余波を受けて)長引き。意想外に長いことターミナルエンド・ステーション効果を味わった。
それなりに観光メリットを享受した時間の経過があった。
さて、不来方城址を散歩していた時のことだ。
一陣の風が吹いてきて、頭上の大木から、木の実がバラバラと落ちた。
地上の大石を勢いよく叩いて、実が割れて散らばった。
思わず拾いに走り・手にとったら、橡の実であった。
さわやかな雨上がりの午後であった。
いま想うと、こじんまりした城址であった。
武田節に「人は石垣、人は城」なる名文句があるが、不来方城の城構えに武田武士として共通する思想があるような気がしないでもない。
民芸風生活器を扱う気の利いた店があるなど、北国らしい落着いた街であり、何度も訪ねたくなる土地である。