もがみ川感走録第39  出羽路の芭蕉No.4 

もがみ川は、最上川である。
出羽路で芭蕉は、東北には希な人事風俗を観望していた。
時は未だ江戸時代の最初の100年にアト10年ほど。つまり初期の終盤ではあったが、この草深い地に京風の都ぶりがしっかり根づいていた。
その背景は、最上川日本海を往く舟運が、噛合っていたためだ。
京・大阪・更にその先にある江戸の文物・情報が、思いがけぬ近さにあるような頻度と速さとボリュウムで届いていたのだ。
それは、紅花・青苧なる最上川流域から産する特産物が、産地を形成する規模で存在した事にともなう、有形・無形の恩恵であった。
舟運の頻度を支えるものは、まず輸送される物の数量である。
京・大阪・江戸,当時の3大都市に運ばれた青苧は、言わずと知れた高級衣料の素材である。
鎌倉草創期から、武士の正装たる麻裃として「〇〇上布」と各地の地名を冠した布が、主に3大都市において消費された。
別名、カラムシ織とも言うが、原料たる青苧は、その栽培も収穫後の下処理もともに負担が重く。江戸期を通じて青苧産地を維持したのは、会津・出羽くらいのものであった。
青苧が送られ織物にする場所として越後・妻有、越中・呉西、近江・湖東、奈良などが知られる。
中でも奈良は、「奈良晒(さらし)」で有名だが、最上川最上流部の川底を浚って河川改修に乗出し、上流部松川流域への舟運を拓いた(詳しくは第14稿 最上川舟唄の10を参照されたい)のは、奈良晒を扱う豪商であったことを思い出す。
奈良晒と言えば、麻蚊帳(かや)の産地とほぼ重なるらしい。蚊帳も地色が白の高級な物は、大麻の麻でなく・青苧を原料とする例があると聞く。何時の日か?蚊帳の利用が復活するだろうか・・・
江戸時代には、豪商の間で青苧を原料とする夏の軽い着物が流行した。
高額な高級着物であるが故の需要であったらしい。
次に紅花だが。植物由来の染色原料、日本列島には上古に伝来しており、律令期すでに課税品目であった。栽培上内陸気候に適するが、列島のほぼ全域で栽培できた。
染められる布は、絹織物が最も適している。紅花と絹布はベスト・パートナー同士だが、高級・高額であり。江戸期を通じて身分による着用規制があった。
紅花の搬出先が、江戸期を通じて京都方面に限定されたのは、染色業者の立地事情に従っている。
染色技術が特殊かつ高度であり、特定地域に技術が伝承された事もあるが、京都の場合、他に3つほどの背景が認められる。
  1、消費需要層が、権力周辺の上層階級に限定される。
    京・大阪・江戸の3大都市が、大消費地かつ人口重心でもあるが、
    京は、千年の王都としての歴史的・文化的背景があった
  2、染色工場は、上質かつ大量の水を使用する。
    上記3大都市の中で唯一京に、豊富な天然産出地下水がある。
    言わば現代の工業用水規模の使用量を他の2都市は賄えなかった。
  3、参勤交代による大名家族の江戸定府が、需要を押上げた。
    幕藩第3代将軍・徳川家光は、1635年参勤交代を始めた。
    大名家の江戸奥御殿と江戸城大奥の女性集団が、紅染め絹織物の需要層。
    新興大消費地として江戸がデビュウすることとなる。
おそらく,この新興にして成長著しい大消費需要に、ピッタリ符節を遭わせるように順調に出荷量を伸ばしたのが、最上川流域の紅花であったろう。
江戸時代中期には、出羽国最上川流域が、列島全域の半分を超える出荷量を担った。
これは、単に量的充足ではなく、中間加工事業者の注文に応えるなど。質的側面での対応や技術面での地道なリスポンスも評価されての成果であったと考えられる。
以上が、出羽から上方へ向けての特産農産物の搬送事情だが、その産地たる最上川流域には、代価である金銭がもたらされる。則ち、紅花の見返りとして、最上川流域に他の地域とは際立って異なる・大きな購買能力を備えた農民層が出現した。
この時代、消費財の製造地がまた上方地域であったから、紅花の帰り荷として、いわゆる「下りもの」が、逆ルート搬送物として出羽地方にもたらされた。
その貴重な遺存品が、最上川流域の各地に見られる「飾り雛人形」であり。既に失われてしまった物としての「古手着物」があった。
後者の遺存例として同じ出羽国の内にして、かの有名な『西馬音内(にしもない)の盆踊りと端縫(はぬい)』を紹介しよう。
盆踊りとは、各地に見られる”風流”であり。その本質は、先祖供養つまり家祖の霊・物故家族の霊魂との交わりだが。
この地の盆踊りに着る衣装が、藍染めの浴衣または家に伝わる”端縫”なる名の古着である。古着と言うより、紅花染め絹織物の小片を縫い集めた=ボロ切れ集成と言うべきだ。
これを着用して盆踊りの列に加わるわけだが、端縫は家の誇りを象徴する存在であり・家祖の里帰りを迎える格好の目印の意味もあったろう。
ここまで、鳥海山の向こう側=北出羽に残る特異な遺存風習を紹介したが、神信心に篤い出羽国一般の人情を代表する事例ともなっている。
「おくのほそ道」の旅を行く同行二人の曾良は、神道・神名に詳しい人物であったことが、「曾良旅日記」から窺い知る事ができる。
当時の神は、仏と一体で。明治初期の神仏分離以前のありようだが。
当時長い距離を自らの足で行脚する旅人も、紅花・青苧を運ぶ舟運関係者もまた、神仏に帰依する点において、想像以上の真剣さがあった。
尾花沢の鈴木清風のような紅花大尽もまた神仏に祈る気持は大きかった。
彼ら仲買人が、自らの商品荷物を遠路海上を行く輸送業者に寄託する際に、その安全を神仏に祈った。何故なら、この時代海難事故も多く・頼るべき海上保険などの損失補填の仕組がなかった。
加えて天気予報なる災害回避の情報伝達もなく・天候悪化による商品全損が、もろに個人の存亡を直撃する時代だからこそ、神仏に帰依する心もまた強かった。
同行二人は、清風の薦めに従い。山寺に参詣し、出羽三山巡礼の一行に混じって、川下り舟に乗り、出羽三山に登って聖蹟を遥拝している。
夏の時期は、最上川舟運業者にとって、三山参拝客を運ぶことが大きな収入源であった。
祈祷と護摩を焚く山岳密教の聖地として知られた三山は、広く関東地方や東北一円から登山遥拝者を集めていた。専門に誘客活動をする宿坊が幕末頃でも三山の麓に340軒ほどあって、馴染みが来ると宿泊の世話・登山の案内を勤めた。
その入込み数だが、少ない年でも年間3万人,ピーク年には15万人を数えた事もあったらしい。
現代風に言えば、観光産業だが。観光客が落す金がまたこの地に繁栄をもたらした事は言うまでもない