北上川夜窓抄 その22 作:左馬遼 

北上川に因む特産品は、数多い。よく知られるものに、南部鉄瓶がある。
南部釜とも言う,茶の湯の釜として最高級に属すらしい。お茶と無縁の筆者は、語る資格がないので伝聞のままにしておこう。
江戸の中期に,京都から著名な釜師が招かれて。南部藩のお抱え御用釜師として開業したことが,今日の隆盛を築いた淵源だと聞く。
産業を興すには、何らかの切っ掛けが必要なことは,ごく当たり前なことだが・・・
その思いつきが、そのまま成功するとは限らない。殖産興業には、一定のリスクが伴うからだ。南部鉄器の場合は、順調に起ち上がるための産業素地があったと考えたい。
すぐに浮かぶのが、釜石の製鉄である。
ところが、それはあくまでも素人の浅智慧のようなものらしい。
釜石の製鉄は、幕末の安政4・1857に始まった。いわゆる我が国初の高炉による近代鉄鋼生産であり。西洋型の製鉄技術の導入は、この時に始まったらしいからである。
その点、南部鉄器は、鋳鉄の部類に属する鉄、いわゆる鋳物である。鋼<はがね>と言う鍛鋼とは、分類項目が異なるものだそうだ。
ただ、導入当初の江戸中期は別にして。現代では、多段式の製鉄・加工技術が開発されており。鋳鉄から鍛鋼を造り出すことは可能だし・行われてもいる。
世界的に産業革命後の「鉄の時代」では、大型建造物や公共輸送手段などの典型的文物が鉄から作られている。従って、製鉄産業の存続を決めるコストの大宗を占めるものは,重量物の輸送コストである。
製鉄産業の場合、原料の鉄鉱石・高温燃焼資材のコークス・石炭などが重量物であり。鉱石産出地や炭鉱の近くに立地しやすい、いわゆる重工業型産業だが。
近年は、むしろ巨大消費地に隣接する港湾やウオーター・フロントに立地する傾向が指摘される。それは何故かと言えば、鉄製品特に中間素材としての鉄材そのものが十分に大型輸送物であることから来る事情でもある。
南部鉄器の経済立地に限れば、江戸時代と言う時代的制約から。盛岡・南部藩境を超えることは無く、資源鉄は、文献資料によれば、北上川の砂鉄と黒木山からの岩鉄とある。
実はここからが,難題であった。筆者の探索能力では、岩手県内から「黒木山」なる地名を究めることが叶わなかった。真相不明だが、鉱脈枯渇などで?閉山してから、もう長いのだろうか?
「山」を外して、「黒木」で検索したら。岩手郡雫石町に黒木沢はあるが、それから先の確定に進むことができず、遂に捜索を断念した。
一方の北上川だが。こっちは砂鉄なのだから,一見問題なさそうだが。川を流れて来る程度では、供給と需要のミスマッチ懸念がある。と言っても、あまり世間受けしそうもない話題なので、この程度に留めたい。次に,鋳物砂と言う、鋳型を作るための材料がある。こっちは北上川から良質のものが入手できたらしい。燃料も結構な消費量となろうが、当時は木炭依存が主体と考えられ。周囲を山に囲まれた土地柄であり、こっちの供給不安は無かったことであろう。
さて、話題が鉄だけに、取っ付きにくいのは致し方ないが。南部鉄瓶は,近世のうちに始まった産業だからまだ良い方だ。
次の話題は、日本刀の古刀である。一挙に800年も遡る。奥州藤原氏源義経の時代だから、一層判らない事だらけである。
最近は,歴女ブームとやらで。古刀の展示会を催すと、かなりの参観客が入るらしい。
奥州藤原氏と言えば、平泉町だが。そこから北上川を挟んだ東側対岸に観音山がある<現・一関市舞川集落付近>。
一説にそこが日本刀発祥の地であるとされる。一関博物館に展示する刀のことを「舞草刀」<もくさとう>と言うが、展示刀(鎌倉期の作で、目釘穴もある)の中心<なかご>にある銘が”舞草”と彫られてある。これは舞川集落の旧地名に当るそうだ。
この頃・この地にあった刀工集団は、地名を刻する慣らいであったらしい。
因みに、日本刀とは,日本列島で使われた刀の総称であるらしい。
筆者は、湾刀(後世出現する反りのある刀)こそが、日本刀だ。と思い込んでいたが。それは正しくは、”太刀”であって。上古・古代にみる直刀(最も初期の形態。大陸から招来または倣って列島内で作られた刀)もまた、”大刀”と書いて区別されるが・日本刀のうちだと言う。
明治3・1870に佩刀禁止令が出て140年超,更に日常から携行していた陸・海軍が廃止されて70年が経過しており。日本刀の製造も下火になり久しく、今日的な意味は薄れたが。技術史・文化史的な意義はあるとして、再確認しておくと。
日本刀の一大特徴は、心鉄と皮鋼との組合せ構造であることだ。
柔らかい鉄を刀身の内部と反りの内側<棟=むね〜鎬=しのぎ>に、心鉄として置き。切れ味に直結する鋼を反りの外側<刃=は>に皮鋼として置く。この刃部分だけを研ぐことで、合理化を図るのだ。
現代風に言えば、ハイブリッド(複合材)構造だ。
高価な鋼を節約しつつ・剪断力を軟鉄で受止めさせることで、鋼本来の脆さを補わせ。日本刀の刃毀れ・曲がり・刀折れなどの弱点を防止する実用的な工夫と言えよう。
この複合構造を持つ生産アイデアは、上古において大陸・半島部の高句麗あたりで生まれたものと考えられるが。新技術として花開き・定着したのは、日本列島の日本刀においてである。
ところで人類史を俯瞰した場合、鉄器なる考古学の成果を以て考えるのが相当だ。
鋼の生産と社会的利用は、紀元前2千年〜14百年頃・小アジアヒッタイト<ハッチとも言う>の間で,始まり。その後ごく短期間で、北・南アメリカ大陸を除く地球面に広がったとされる。
陸中国ではBC500〜BC100頃鉄器文化が確立した。
日本列島での鉄器出土は、現在のところ5世紀頃とされるが。この頃の鉄鉱石供給地は、朝鮮半島南部の洛東江(ナクトンガン。現・金海市)付近と考えられる。
鉄製品・鉄材の供給とほぼ同時並行して列島内で探鉱目的の山野跋渉が、渡来人と同系の金属技術者によって進められたことが想像される。
産業革命以前まで、鉄を扱う業は、特殊な技術集団に属していたと考えられる。従って、鉄器の存在をもって、その地域の住人が鉄の生産に長けていたと考えることはできない。
日本列島における、上古・古代の資源鉄の分布は未だ十分に解明されているとは言えず。確定的な事は言いにくいが、東北山地と中国山地に2大集積があるようだ。
解明が困難な背景には、上古・古代では物資流通そのものが反社会的であったり・資源鉄の埋蔵量が小規模だと速やかに鉄鉱石が枯渇し・たちまち自然景観に埋没してしまうことなどがある。
自然界に存在する資源鉄は、不純物を含み・錆びている(=過度な酸化)ので。製品鉄にするまでに多段階加工処理される。いわゆる中間物である原料鉄は、発見された鉱山域の山中およびその周辺で、直ちに加熱処理などにより不純物を除き、価値ある鉄分のみが持ち去られることが多かったであろう。
東アジアで一般的な加熱装置は、なべてタタラである。加工段階に応じて求められる溶融温度はさまざまだから、送風装置の有・無など。装置の装備度はさまざまだ。
タタラは、その送風機構を指す踏鞴(たたら)と加熱炉を指す鑢(たたら)と、文字により区別される。
古い時代の東北には、鬼の伝承が各地に残ると言う。
この場合の鬼とは、要するに土地の者ではない。と言う意味であろうが、単に近隣の住人でないレベルから言葉が通じない異邦人までと。その幅は意想外に大きかったことであろう。
いわゆる里の民と山の人では、通り道すら共通でなかったらしい。
山の人は、修験道と重なる要素が多かったことであろうが、金属加工の全場面に寺社の関与が認められるのは、物資の流通そのものが当時の社会秩序に反するものと観られていたことと関連するからであろう。
里の民が、鬼と感じたものの殆どは、遠望した「鬼火」であったに違いない。
野タタラは、1回の操業(一代=ひとよ)が昼夜連続4日以内であったらしい。熱源は、木炭が一般的だったらしいが。
一代の後、タタラの底に溜った銑(づく=鋳物用の鉄)なり拇(けら=鋼用の鉄。正しい字体は、旁が母のまま、偏を金に変える。玉鋼になるもの)を取出すために炉全体は破壊される。
必要物である銑と拇のみが、冷却後に持ち去られるので。後日里人が現地に辿り着いて追認するのは、鉱滓(のろ=カス)と破壊された森林群だけであっただろう。
先に述べた中国山地とは、山陽・山陰の両地域全般だが。都に近い兵庫など県名の中に金属製武具収蔵の意味を含んでいる。ここで採上げるのは、紙面の都合で3ヵ所のみである。
まず、出雲国斐伊川流域=現・島根県簸川(ひかわ)郡
次に、吉備国・吉井川流域=現・岡山県邑久(おく)郡長船町など
最後、吉備国・砂川流域=現・岡山市。吉備津の名を持つ2つの神社の周辺
斐伊(ひい)川流域は、砂鉄産出地・製鉄業の地として、知名度も高く。ほぼ全国に散在する氷川神社の発祥地であるが、東北製鉄との関連性はよく判らない。
次の吉井(よしい)川流域と砂川流域だが。
備前長船(おさふね)で知られるとおり、名工の代表とされる日本刀作家を輩出する前者と。後者は、神社名・氏族名の由来から、その源流が、東北地方にあったことが、漠然と指摘される。
最後に舞草刀が日本刀生産の源流に位置する理由を筆者なりに考えてみた。
舞草刀の製造が、一関地区では室町時代頃に途絶えてしまったので、上に掲げた中国地方の有力日本刀産地との系譜関係が忘れられ,説得面は如何ともしがたい。
蕨手刀(わらびてとう)は、古刀として東北地方に縁のある日本刀である。
これまで、列島中から約200点ほど発見報告されており。柄頭が蕨状に巻いた形の曲線を持つ・その特徴から命名された。柄と刀身(=直刀が多い)とが一体整形されており、古い時代の刀であることは一目瞭然だが、後世出現する毛抜型太刀の源流であるとされる。
古墳時代古墳から副葬品として出土するが。古墳の数が少なく・終末期古墳が集中する東北の。最北端の岩手・宮城県内から、圧倒的に多く出土する。それが一層特異である。
蕨手刀は、蝦夷刀とも呼ばれる。正倉院御物の「黒作横刀」も蕨手刀とされる。
蕨手刀の生産地は、6〜8世紀の東北とされ、その点でも舞草刀との繋がりが伺われる。
一関の地から西の方の有名刀工各地へ、移住したことが想定される。
山形県にある月山刀工もまた、一関舞草から出たとする見方がある。
東北の鉄産地はまだある。福島県相馬郡新地町武井を論ずる東京工業大学の報告書がある。
武家の源氏と刀・東北での利権漁りは、歴史的に密接なものがあるが。義経と平泉を繋いだ金売吉次の活躍が知られる。
ここで論ずべきは,その実在ではない。固有名詞はどうあれ、そのような遠隔地間の物資輸送を商いとした人物集団が存在したことは、ほぼ史実であろう。
平治物語源平盛衰記義経紀には、「三條の橘次云々」とあることから、東北で産した日本刀なども輸送したに違いない。
因みに京・三條と言えば、粟田口の刀工=三條小鍛冶が知られる。三條蹴上の周辺は、出世恵美須神社・鍛冶神社・北向稲荷神社・粟田神社など。刀鍛冶と東北縁故の神々が、東国方面への連絡経路に当るこの地に結集している観がある。