もがみ川感走録第61 もがみ川のおしん・その3

おしんは、雪融けに少し早い時期であったが、心も急いており。早々に炭焼き竃の横に立つ・一冬過ごした山中の掘っ建て小屋を出て、麓の集落を目指した。
その下りの雪道で上って来る憲兵集団とすれ違った。
脱走兵であると見抜かれた俊作兄ちゃんは、たちまち射殺されてその場で他界した。この世の理不尽と目のあたりに遭遇したおしんであった。
春が来ると間もなく算え歳8歳になるおしんは、下山すると。真っすぐ故郷のムラを目指し。単身自分の足で、故郷の実家の戸口に立った。
おしんは、一刻も早く祖母に会い。50銭銀貨をお護り袋の中から、理不尽にも一方的に採上げられこと。
そのいきさつをしゃくり上げながら報告し、祖母から渡された貴重なお宝をムゲに失ったことを謝りたかった。
家に入ると、祖母も母もおしんの生存と帰宅を虚心坦懐に喜んでくれた。
その点、父親は内心と外見はウラハラのようで、複雑さを見せつつ終止不機嫌そうであった。
越冬直前の晩秋におしんの奉公先から若い者がやって来て、その前の春に先渡しされたコメ俵を違約の代償として暴力的に取り返して帰った。
その時の無念とその措置により受けた家族生存の越冬危機をあらためて憶い出していた。
来訪者の説明どおり、時ならぬ頃つまり奉公の満期到来前におしんは、吾が家に還って来た。奉公先から無断で退去しており、明らかに一方的な契約違反であった。
おしんの帰宅により家族が1名増えると、ただちにその分の食い扶持も捻出する必要があった。
彼等小作人層の暮らしは、それほど貧しいギリギリの生活であった。
まだあった。家長として対外的な配慮もしなければならなかった。
娘が奉公でしくじったとの悪い噂が立つことも懸念しなければならなかった。
平成の現代から100〜110年も遡るムラ社会は、典型的な田舎暮らしだ。近隣に住む他家庭の内情暴きやしくじりがスキャンダルとして集落内を駆け巡った。
TVもラジオも無い時代だからこそ、家の対面=メンツを保ち・世間の波風を防ぐことが、家の主たる彼の仕事でもあった。
母のフジは、おしんは既にこの世に無い者として、全ての仏事を済ませていた。
とまあ、以上がおしんにとって過ぎた1年であった。彼女の希望した就学は、結局叶わなかった。
TVモニターのこちらに居る視聴者には、事件の経過はすべてお見通しであるが。しかし舞台の向こうに居る出演者には、腑に落ちない未解明の課題が一つ残っていた。
何の口上もなく、谷村の家に戻された50円銀貨の落着きどころであった。
米俵を強引に取戻しに来た若い男が、黙って置いて行った望外の大金であった。
その50円銀貨には、何の添書きも説明書きも付いてなかった。
その理由は、この時の指図が女中頭の手配だったからだ。現代人の庶民である我々には常識外の手落ちだが、無学文盲の彼女にそれを求めることは至難であった。
女中頭のような境遇=自己保身のために精一杯我を張ることしか生きようの無い。底辺を成す貧しい階層の民衆は、この時代ニホン国中に満ちあふれていた。
さてその50円銀貨の落着きどころだが。おしんの祖母は、おしんとの別れ際に、自分が内緒でおしんに与えた50円銀貨ではないだろうか?と、内心胸騒ぎのようなものを感じていた。
だが彼女は既に高齢化し、谷村家の当主の母として。この家のこれまでに貢献し・家系の存続に寄与した過去の功労者であったが、既に第一線を退き。いわゆる生産年齢を過ぎた家の厄介物として、積極的発言を戒め・ひっそりと暮らしていた。言わば、楢山節稿のリタイアした老人像であった。
この点もまた現代とはさま違いであり・今昔の観がある。
現代の高齢者だったら、老齢者年金を受給して、その額は少ないにしても国から定期的に給付金を支給されることで、一定の自立した生活を送る国民主権が確立している。
ここで出演者のために、事件の全経過を述べておこう。
2つの空間<奉公先の材木商とおしんの実家>に・時間の経過を通じて登場する出演者は、独りも居なかった。
まず50円銀貨が勝手に消えた朝。元の奉公先の炊事場に。
まず最初に起きて現れたのは、女中頭だった。
迂闊にも上がりかまちに、家計用諸払い財布を置いたまま、そこから消えた。
次に、起きて来たのは、雇い主の主人であった。
フト思い立ち、その財布から50円銀貨を抜出し、自らの軽い財布に収めると、そのまま外出した。彼は皆が起き出す前に、誰にも会わずに出立した。その日は宿泊出張であった。
その次に、おしんが登場した。
やがて戻って来た女中頭は、そこにあるべきでない財布を発見して、おしんを疑い始めた。
身に覚えのない嫌疑をかけられて、おしんは必死に反論した。
反論は、火に油を注ぐ結果を招いた。
あまりの騒ぎに奥から女主人も起き出して来た。
ついにおしんは裸にされた。首から吊るしたお護り袋の中から大枚の50円銀貨が出て来た。
貧しい小作人の小娘が持つ金額としては、不相応な大金であった。おそらく祖母が生涯賭けて貯めた臍繰りの総額であったろう。
ここでも祖母から貰った餞別であると必死に訴えたが。自己保身しか考えない女中頭の胸には全く響かなかった。
その日、おしんは元の奉公先=あの女中頭の前には二度と現れなかった。既に冬真近い田舎道を故郷らしき方向にアタリを付けて、歩き始めていた。
やがて数日後。中期出張から帰宅した主人は、金銭を無断拝借した事実を白状した。
気が急いていたので。たまたま上がりかまちにあった家計用諸払い財布から、事後承諾で良かろうと軽々しく考えて抜いたのであった。
おしんに係る事後処理は、当事者=責任者たる女中頭に託された。
結局、おしんの最初の奉公は、春から晩秋までの只働きに終始した。
おしんは、途次の山越え道で行き倒れ、寒さで絶命する危険に遭遇した。
幸運にも偶然、俊作兄ちゃんに助け出された。
山中で一冬の越冬中に。仮名文字の仕上げと足し算・引き算、九九から掛け算・割り算までを習った。
おしんは、俊作兄ちゃんにとって、教えがいのある筋の良い生徒であった。
俊作兄ちゃんは、逆境にあっての生き方を彼の体験に照らして、身を以ておしんに教えた。
気持を強く持ち、再起の時に備えて、準備怠りなく備える心構えの教えであったろう。
底辺に生まれ育ち、未来が必ずしも明るくないおしんの境遇を見透した教訓であった。
間もなくおしんの次の奉公先が決った。
今度は、酒田のコメ問屋”加賀屋”であった。
2年契約で、コメ5俵の先渡しであった。
おしんの希望する義務教育への就学は、またも消え去っていた。
小作の家の娘には生涯生家のために尽すことが当然に求められた。
戦前の社会ルールは、江戸時代の延長そのままの儒教思潮ベースであった。
先ず家ありき。個人の意志は家長の指図の前に消える。それが社会の風潮であり実態であった。
女 三界に家なし
多くの女のゴールは嫁になることだが。「嫁」なる漢字は、「女」と「家」とから成る。
「女」なる構成字は、家のサイドに添えて置かれているだけだ。
「家」には、立派な屋根=「宀」カンムリが付いている。
屋根の下に居て、ぬくぬく太るのは、家豚だけである。
さて上古の日本列島は、無文字であった。この頃既に大陸中国には文字があった。
情報がカタチとして残る文字を取入れることは、植物が水を受容れるごとく・ごく自然であった。
漢字は表記方法がタテ書きであり。ヨコ書きの英語などとは異なり。ものの見方・考え方もまた異なっていた。
漢字で語られる基調的思想は、儒教であった。これもまたごく自然に上古の日本列島に受容れられた。
階層など為政者・権力者にとって、都合の良いタテ社会のルールが当初から組込まれており。
西洋の古代ローマのように。民衆間の水平的関係や平等的な相互の位置関係を基礎に置くヨコの思潮とは、根本的に異なっていた。
さらに1600年の関ヶ原の戦に勝ち残った徳川家康は、大名の子は大名・足軽の子は足軽なる基層固定の=タテ社会ルールを一層強力に取入れ。長く安定した武家政権を樹立した。このやり方は、敗戦により放棄されるまで日本列島の主導的道徳であった。
今日はこれまでとします