北上川夜窓抄 その19 作:左馬遼 

前稿で南部駒を採上げたが、今日はその続編・上がり稿である。
南部家の家伝によれば、源頼朝による奥州藤原氏征討から明治政変まで。およそ700年間の長きに亘って陸奥国の奥に留まったことが判る。
南部家が鎌倉地頭〜戦国・幕藩大名として君臨支配したから、その地が「南部」と呼ばれ、その地で産出されるウマが南部駒と言われるようになったと考えるべきであろう。
さて、ウマが先か?南部が先か?などと、つい愚問らしき疑問を持ってしまう。
南部家の本貫地である甲斐国巨摩郡=現・山梨県南巨摩郡・南部町は、律令古代から官牧を抱える馬産地であり。甲斐駒といえば、黒毛がすぐに思い浮かぶ。
クロコマのカツゾウなる博打打ちの名前を思い出す。浪曲に登場する侠客だから、実在したか疑わしい。とまあ、話題になるくらい日本列島では馬産地に適する原野は少ない。
その事を言うために、馬の骨みたいな侠客の名を出したわけではない。
筆者の独断と偏見によれば、コメとウマは両立しないが。ウマの産地とヤクザの多い土地は重なるようだ。
そのココロは、コメなる漢字は八十八と書く。それくらい泥まみれを覚悟で、コツコツやり続けないとコメは育たないものらしい。
コメづくりは、とても手が掛るが、ウマ育ては逆に殆ど手が係らない。泥臭いヤクザは皆無だが・サイコロ片手の馬産家は成り立つと。まあ、そんなところである。
水稲栽培もウマを育てる牧畜もともに農業だが、一方は労働集約的・他方は粗放的なのである。
しんどさにおいてこれほど正反対な事業もまた少ないのではないだろうか?
さて甲斐国・南部家は本国で、陸奥国・南部はその出店または植民国として展開したものであろうか?
それが証拠に、奥の陸奥は、今も米どころではない。そして700年前もコメ産地ではなかった。
奥の陸奥は本州に属し、気候帯としては列島・本州の温帯気候区分区とすべきだが。現実はそうでない。東北の太平洋岸と北海道とが、亜寒帯気候区分区に属している。
後述するが、馬産地・奥の陸奥は、コメづくりには全く不適であるようだ。
先に原則論を言えば水稲栽培と馬産は、排斥関係にあって産業として両立しない。このことは、日本列島は勿論 世界共通に成立する産業立地論である。
だがしかし、最近話題の”特A米”は、北海道産の銘柄が好評であり。明治以来の畜産農業王国=デッカイドウ振興は、究極の誤謬に相当する産業政策であり・大失策であると評価がかたまりつつある。
日本の水田稲作における豊作の条件は、夏の高温と長い日照時間の2つであると言われるから、灌漑用水の確保が可能でさえあれば、当分デッカイドウのコメづくりは安泰であろう。
しかし、奥の陸奥=南部地方は、これまでも・これからもコメづくりは難しいであろう。
それは、この地方独特の気候である『ヤマセ』があって、夏の高温と長い日照時間のいずれも望めないからである。
あまり話題を広げたくないが、ヤマセは、三陸沖が発生源である。
三陸沖は世界有数の優良漁場であるが。その形成水域は、年ごとに変動し、一定しない。
黒潮暖流と親潮寒流が交わる混乱水域から、吹き出す風が北海道釧路付近から東北地方太平洋岸一帯にかけて冷涼な北東風をもたらす。このヤマセが日照を遮る事著しいのである。
よって、コメが作れない南部地域では、ウマを育てて収入を得ていたが。それも戦中までで、終戦後陸軍が解体され・農業の機械化にともない馬産は、競馬用乗馬生産を除いて殆ど消滅した。
岩手山の麓に、単一農場としては国内最大の規模を誇る「小岩井農場」があるが、戦後の早い時期に馬産を辞めて、酪農主体のウシ飼育に転じたようである。
前稿で述べたとおり、島国で広大な草原を持たないこの国では、馬産適地はまことに少ない。
前稿で採上げた4国5牧の中に、九州は阿蘇山地が出現しない。これは不思議だが、筆者の乏しい体験からすると。ウマの景色の奥に、火山の姿が重なっていることが多い。
ウマが疾走できる平原と言えば、まず阿蘇山地が浮かぶくらい。そのスケールは大きい。
草原を形成する気候環境は、おそらく乾燥であろうから、高温多雨の列島気候とは、両立しない。
富士山・阿蘇山浅間山岩手山など、いずれも火山だ。火山灰が偏西風に流されて降下・堆積する山体の南東側に牧場が置かれているようだ。
まだある。浅間山の概ね南東側に群馬県がある。県名からして馬産地だが、律令期には「毛の国」であった。毛は則ち木だ。ウマを育てるには、木=森林が乏しいこともまた必要条件である。森林が無い原野こそ草原を形成する前提であり、ウマが疾走できる可能性の原点だ。
このようにウマの飼育に、植生条件がある。
植生<森林相>は、気候環境の反映であることを指摘したのはドイツの気候学者ケッペンだが。
地球史の中で、自然植生の森林を一掃する事例として、火山から噴き出す火砕流・火山性泥流がある。災害列島日本にこそ成立つ草原形成要因である。その点で世界の事情・大陸の平原と異なる。
ウマが勝手に育つ所は、広大な乾燥平原である。世界に知られるモウコウマ・アラブ種・サラブレッド種などの産地がそれである。
最後に、ウマと武者の故事を紹介しておこう
まず、朝日将軍・木曾義仲の最期の場面<平家物語巻9より抽出>
義仲は、九郎義経の上洛により。都から追い落とされる事態となり、粟田口から勢田に向けて行く。途中大津・打出の浜で、一番信頼する部将・今井兼平と行き合う。
更に落行く途中、敵と揉み合ううちに遂に主従2騎となる。そこへまた、新手が現れる。戦おうとする義仲を押しとどめて、今井は傍らの粟津・松原に入り、自害するようにと暗に勧める。
今はこれまでと、今井が敵勢を防ぐ間に。単騎で松原に入ろうとすると、薄氷の下は深田であった。乗馬は名高い・木曽の鬼葦毛であったが。馬の頭が潜ってしまい、煽っても・あおっても、動く気配はなかった。ふと背後を振り向いた瞬間、石田為久が放った矢が内兜を射抜き。そこで義仲は絶命した。
ことほどさように、馬を戦闘に使うことは、稲作列島では役立たない。全く相性が悪いのである。
次は、やや時代が下って戦国の終り頃、織田信長の馬揃えである。カブキ者で知られた信長は、実戦を熟知した名戦略家にして希代の天才であったが。何故か?実戦で殆ど効能ある成果に結びつくことの無い馬を重用し、軍事パレードをやりたがった。
配下の武将からすれば、馬揃えは費用持出しが甚だしく。不評しきりであった。
山内一豊の妻の臍繰り金支弁の内助の功が有名だが、作り話の感が強い。
事実、戦場現場で働らきが乏しいのは、馬と刀であった。むしろ雑兵の繰出す長槍や晴天下の火縄銃の方が遥かに実戦では有効であった。
信長たる者が、何故にそのような愚行を行ったか?単なる派手好みであったのか?
真相は判らない。がしかし、想像は勝手だ。
華やかなパレードをショウとして見せつけると、その格好よさに憧れて、命知らずの若者が殺到する。新兵募集のための宣伝行動であっただろうか?