もがみ川感走録第61 もがみ川のおしん・その3

おしんは、雪融けに少し早い時期であったが、心も急いており。早々に炭焼き竃の横に立つ・一冬過ごした山中の掘っ建て小屋を出て、麓の集落を目指した。
その下りの雪道で上って来る憲兵集団とすれ違った。
脱走兵であると見抜かれた俊作兄ちゃんは、たちまち射殺されてその場で他界した。この世の理不尽と目のあたりに遭遇したおしんであった。
春が来ると間もなく算え歳8歳になるおしんは、下山すると。真っすぐ故郷のムラを目指し。単身自分の足で、故郷の実家の戸口に立った。
おしんは、一刻も早く祖母に会い。50銭銀貨をお護り袋の中から、理不尽にも一方的に採上げられこと。
そのいきさつをしゃくり上げながら報告し、祖母から渡された貴重なお宝をムゲに失ったことを謝りたかった。
家に入ると、祖母も母もおしんの生存と帰宅を虚心坦懐に喜んでくれた。
その点、父親は内心と外見はウラハラのようで、複雑さを見せつつ終止不機嫌そうであった。
越冬直前の晩秋におしんの奉公先から若い者がやって来て、その前の春に先渡しされたコメ俵を違約の代償として暴力的に取り返して帰った。
その時の無念とその措置により受けた家族生存の越冬危機をあらためて憶い出していた。
来訪者の説明どおり、時ならぬ頃つまり奉公の満期到来前におしんは、吾が家に還って来た。奉公先から無断で退去しており、明らかに一方的な契約違反であった。
おしんの帰宅により家族が1名増えると、ただちにその分の食い扶持も捻出する必要があった。
彼等小作人層の暮らしは、それほど貧しいギリギリの生活であった。
まだあった。家長として対外的な配慮もしなければならなかった。
娘が奉公でしくじったとの悪い噂が立つことも懸念しなければならなかった。
平成の現代から100〜110年も遡るムラ社会は、典型的な田舎暮らしだ。近隣に住む他家庭の内情暴きやしくじりがスキャンダルとして集落内を駆け巡った。
TVもラジオも無い時代だからこそ、家の対面=メンツを保ち・世間の波風を防ぐことが、家の主たる彼の仕事でもあった。
母のフジは、おしんは既にこの世に無い者として、全ての仏事を済ませていた。
とまあ、以上がおしんにとって過ぎた1年であった。彼女の希望した就学は、結局叶わなかった。
TVモニターのこちらに居る視聴者には、事件の経過はすべてお見通しであるが。しかし舞台の向こうに居る出演者には、腑に落ちない未解明の課題が一つ残っていた。
何の口上もなく、谷村の家に戻された50円銀貨の落着きどころであった。
米俵を強引に取戻しに来た若い男が、黙って置いて行った望外の大金であった。
その50円銀貨には、何の添書きも説明書きも付いてなかった。
その理由は、この時の指図が女中頭の手配だったからだ。現代人の庶民である我々には常識外の手落ちだが、無学文盲の彼女にそれを求めることは至難であった。
女中頭のような境遇=自己保身のために精一杯我を張ることしか生きようの無い。底辺を成す貧しい階層の民衆は、この時代ニホン国中に満ちあふれていた。
さてその50円銀貨の落着きどころだが。おしんの祖母は、おしんとの別れ際に、自分が内緒でおしんに与えた50円銀貨ではないだろうか?と、内心胸騒ぎのようなものを感じていた。
だが彼女は既に高齢化し、谷村家の当主の母として。この家のこれまでに貢献し・家系の存続に寄与した過去の功労者であったが、既に第一線を退き。いわゆる生産年齢を過ぎた家の厄介物として、積極的発言を戒め・ひっそりと暮らしていた。言わば、楢山節稿のリタイアした老人像であった。
この点もまた現代とはさま違いであり・今昔の観がある。
現代の高齢者だったら、老齢者年金を受給して、その額は少ないにしても国から定期的に給付金を支給されることで、一定の自立した生活を送る国民主権が確立している。
ここで出演者のために、事件の全経過を述べておこう。
2つの空間<奉公先の材木商とおしんの実家>に・時間の経過を通じて登場する出演者は、独りも居なかった。
まず50円銀貨が勝手に消えた朝。元の奉公先の炊事場に。
まず最初に起きて現れたのは、女中頭だった。
迂闊にも上がりかまちに、家計用諸払い財布を置いたまま、そこから消えた。
次に、起きて来たのは、雇い主の主人であった。
フト思い立ち、その財布から50円銀貨を抜出し、自らの軽い財布に収めると、そのまま外出した。彼は皆が起き出す前に、誰にも会わずに出立した。その日は宿泊出張であった。
その次に、おしんが登場した。
やがて戻って来た女中頭は、そこにあるべきでない財布を発見して、おしんを疑い始めた。
身に覚えのない嫌疑をかけられて、おしんは必死に反論した。
反論は、火に油を注ぐ結果を招いた。
あまりの騒ぎに奥から女主人も起き出して来た。
ついにおしんは裸にされた。首から吊るしたお護り袋の中から大枚の50円銀貨が出て来た。
貧しい小作人の小娘が持つ金額としては、不相応な大金であった。おそらく祖母が生涯賭けて貯めた臍繰りの総額であったろう。
ここでも祖母から貰った餞別であると必死に訴えたが。自己保身しか考えない女中頭の胸には全く響かなかった。
その日、おしんは元の奉公先=あの女中頭の前には二度と現れなかった。既に冬真近い田舎道を故郷らしき方向にアタリを付けて、歩き始めていた。
やがて数日後。中期出張から帰宅した主人は、金銭を無断拝借した事実を白状した。
気が急いていたので。たまたま上がりかまちにあった家計用諸払い財布から、事後承諾で良かろうと軽々しく考えて抜いたのであった。
おしんに係る事後処理は、当事者=責任者たる女中頭に託された。
結局、おしんの最初の奉公は、春から晩秋までの只働きに終始した。
おしんは、途次の山越え道で行き倒れ、寒さで絶命する危険に遭遇した。
幸運にも偶然、俊作兄ちゃんに助け出された。
山中で一冬の越冬中に。仮名文字の仕上げと足し算・引き算、九九から掛け算・割り算までを習った。
おしんは、俊作兄ちゃんにとって、教えがいのある筋の良い生徒であった。
俊作兄ちゃんは、逆境にあっての生き方を彼の体験に照らして、身を以ておしんに教えた。
気持を強く持ち、再起の時に備えて、準備怠りなく備える心構えの教えであったろう。
底辺に生まれ育ち、未来が必ずしも明るくないおしんの境遇を見透した教訓であった。
間もなくおしんの次の奉公先が決った。
今度は、酒田のコメ問屋”加賀屋”であった。
2年契約で、コメ5俵の先渡しであった。
おしんの希望する義務教育への就学は、またも消え去っていた。
小作の家の娘には生涯生家のために尽すことが当然に求められた。
戦前の社会ルールは、江戸時代の延長そのままの儒教思潮ベースであった。
先ず家ありき。個人の意志は家長の指図の前に消える。それが社会の風潮であり実態であった。
女 三界に家なし
多くの女のゴールは嫁になることだが。「嫁」なる漢字は、「女」と「家」とから成る。
「女」なる構成字は、家のサイドに添えて置かれているだけだ。
「家」には、立派な屋根=「宀」カンムリが付いている。
屋根の下に居て、ぬくぬく太るのは、家豚だけである。
さて上古の日本列島は、無文字であった。この頃既に大陸中国には文字があった。
情報がカタチとして残る文字を取入れることは、植物が水を受容れるごとく・ごく自然であった。
漢字は表記方法がタテ書きであり。ヨコ書きの英語などとは異なり。ものの見方・考え方もまた異なっていた。
漢字で語られる基調的思想は、儒教であった。これもまたごく自然に上古の日本列島に受容れられた。
階層など為政者・権力者にとって、都合の良いタテ社会のルールが当初から組込まれており。
西洋の古代ローマのように。民衆間の水平的関係や平等的な相互の位置関係を基礎に置くヨコの思潮とは、根本的に異なっていた。
さらに1600年の関ヶ原の戦に勝ち残った徳川家康は、大名の子は大名・足軽の子は足軽なる基層固定の=タテ社会ルールを一層強力に取入れ。長く安定した武家政権を樹立した。このやり方は、敗戦により放棄されるまで日本列島の主導的道徳であった。
今日はこれまでとします

もがみ川感走録第60 もがみ川のおしん・その2

おしんが乗せられた筏は、早春の雪融け水に押流され。危うい川流れであったが、どうにか目的地に上陸し、奉公先に落ち着いた。
かなりの脱線だが。私人の事業に雇われる=それだけのコトでしかないのに「奉公」と大袈裟に言う。とかくニホン語は用語の使い方がデタラメだ。
おしんは、材木店で住込雇い人として、幼児の子守りをさせられた。
雇い主の材木店の所在地は、不明だが。後におしんは勤め先を無断で脱出することになる。そこから推定するに生誕地からさほど遠い土地ではなさそうだ。
住込先では女中頭の管理下に置かれるが、縁に恵まれず。最初からしっくり行かなかった。
と言っても本稿では、おしんのストーリーを再現することはしない。
おしんは、赤ん坊を背負いながら、近所の小学校をウロウロしていた。義務教育に挙る年齢だったし、文字や手習いに関心があり。向学心に燃えていたようだ。
実はその事が、女中頭の気に触ったらしい。無学文盲の小作人出身らしい彼女は、小作人に読み書きや学問は要らないとの信念を抱き、おしんにもそれを強制した。しかもそれを広言して憚らなかった。
しかし、子守りをしながら教室の中を覗き込むおしんを教室の中から気づいていた人物が居た。左沢尋常小学校の教員<配役・三上寛>は、教育の普及に情熱を抱く博愛精神の持主である。
その晩おしんの雇い主夫妻を訪ね。説得して、おしんの講義参加を認めさせた。
女中頭は、おしんに対し昼食を供しないと宣言した。
その教員は、陰に回って、古い教材を集めたり・昼食代わりの簡単食を提供するなど。おしんの就学を支えた。
しかし、おしんの教室通いは、1ヵ月で終った。退校時に同級生から苛めを受けた。おしんは、軽い傷を負ったが、真相について誰にも他言しなかった。もう学校には行かないと単に自ら宣言した。
おしんのドラマに流れる仕掛けられたテーマがある。その一つが苛めである。
女中頭も同級生達も平然と弱い者に対して追い打ちをかける。弱い者・貧しい者は、更なる窮地に追い込まれる。
これはあくまで筆者の独善だが、このドラマにはカタチとトコロを換えて、度々苛めのパターンが登場する。
それがまたドラマを好評に導く観すらある。国民性に内在する性情の一つと言えないこともない。
もっと極論すれば、儒教を基調思想とする東洋アジアの独つの行動パターンですらあるようだ。
財力あるもの・権力の座にあるものには、尚更便益を増すように世間が動いてくれる。これぞ忖度<そんたく>だが。忖度の仕組は弱者に対しては、手のひらを返すように牙を剥く。この表裏一体の精神土壌は、遠く大陸中国春秋戦国時代に編み出された社会思想であるらしい。
いささか脱線した。登校を自ら断念したおしんは、筏乗り師に頼んで、実家へ手紙を届けてもらった。仮名文字ばかりのがんぜない子供が実家の親に出す、初めての便りだった。
ところが、実家の父も母も誰も字を読めなかった。
この日本列島の僅か百年に満たない昔。底辺に生きる小作層の識字率の低さ・就学率の低さには驚くが、それが実態であった。現代に住む我々からは想像も理解もできないほどの惨状に当時はあった。
儒教思潮を悪者にして云々せざるをえないほどの貧困と惨劇が渦巻いていた。
この惨めさは、農奴と呼ぶに相応しいもので。江戸期から戦前まで変らぬ実情であった。ただ呼び名が、水飲み百姓と言うか・小作人と言われるかだけの僅かの差異でしかなかった。
ある日おしんは材木店から無断で脱走した。
原因はどうあれ。雇われる立場からする無断退去は不利でしかなかった。
雇い初めの春先に渡された米俵は、おしんの約束違反をもって、秋深く冬がそこに迫る山里の実家から持出されることとなった。
当事者であるおしんは、翌春の雪融けまで行方不明となり。実家では遂に真相を知らないまま春を迎えた。残された留守家族は、越冬備蓄用のコメを採上げられてしまい、欠食の冬期を過ごしつつ、おしんの安否を気遣った。
おしんは、山を越えたその向こうに故郷の実家があると考えて、一心不乱に歩き出していた。別れ際に祖母が形見にと持たせてくれた50銭銀貨を無茶苦茶な言いがかりでもって一方的に採上げられたことがただ悔しかった。早く祖母に会って、そのことを言募り、無念さと申し訳なさとを伝えたかった。その一心で、心もとない山道へと踏込んだのであった。
折悪しく冬の初めの寒気が暴風と豪雪を伴って、最上川山地を雪景色一色に染め始めていた。おしんは、行き倒れとなり山中に倒れ眠った。フツウであれば、そこで絶命する筈だったが、運よく雪中で銃猟をする猟師によって一命を助けられた。
農閑期になると里の貧農は、雪山に籠って、伐木集材して山中の炭窯で焼き。時々出来た炭を背負い下って、麓の村で食糧に換えてまた窯元のネグラに帰る。その繰返しであった。
おしんを助けた猟師は、おしんが蘇生した時、炭窯の掘立小屋に暮らす2人目の同居人であった。
東京生まれの若者で、ハーモニカなどを持っていて都会的文化を思わせる場違いの人物。名は俊作兄ちゃん<配役・中村雅俊>と言った。
その山中で、雪融けの春まで、妙な組合せの3人暮らしが続いた。
退屈な山暮らしの中で、文字に飢えていたおしんは、俊作兄ちゃん<>の持物から、ある日刊行物を見つけ出した。
慌てて咄嗟に俊作は隠したが、後日それは鳳晶子<後に与謝野姓へ>の反戦歌集であり。人目に触れてはならない発禁本であると説明された。
俊作は、日露戦争に従軍した陸軍の下士官か何かの経歴を持ち、203高地で負傷し、今は脱走兵として追われている身であった。
俊作はおしんに文字や九九も教えたが、逆境にあってどう生きるべきかなど。人の世の中で、人としてどう生きるべきかを説いて聴かせた。
おしんにとって俊作兄ちゃんは、人生の師として第1号と呼ぶべき存在となった。
炭焼きの爺さんも小作に生まれた苦労多き半生で、頼りと目した2人の息子を戦争で先立たれた境遇から、俊作にもおしんにも優しく接する理解者であった。
やがて、雪深い山の中にも春の息吹が現れ始め、おしんは炭焼きの小屋を出て、皆に別れて実家に向かう旅を覚悟する。
まさにその日、麓から山狩りをする陸軍憲兵隊が登って来た。不意をつかれた俊作は2人の前で、たちまち銃殺されてしまった。
さて、その日露戦争だが。
日本では勝ち戦であったとされる。ニホン人は異常に勝ち負けに拘る国民性だが、それはスポーツの発想でしかなく。実際の戦争では、勝敗に関わらず一度失われた生命は戻らない。
どんな不名誉であっても平和に勝る存在はないし、正義の戦争なぞと言う言い方に意義は全く無い。
戦争は、一度始めると終らせることが実に難しい。勝ち負けなんぞ予め見透せるものでもないし、勝ち負けそれ自体に意義が無いことは既に述べた。
日露戦争は、局地戦段階で日本の国力は疲弊してしまい、以後の戦闘継続が憂慮され、敗勢に転じようとする絶妙のタイミングで、中立国アメリカが休戦調停に乗出してくれた。
ロシア皇帝は、休戦条件として何物も差出そうとしなかったが。小国にして国力の限界を露呈していた日本は、そのまま停戦に応じた。まさに天佑アメリカが、絶妙なタイミングで仲介役を買って出てくれた。
日本海海戦での世界の海戦史に残る劇的勝利や旅順港解放など陸上戦での勝利など、緒戦での部分戦闘での勝利は事実である。だが、それをもって戦争全体の勝利と混同・同視すべきではない。
日露戦争の結果は、軽挙妄動して安易に戦争に踏み出すことへの警告となるべき深刻さを示していた。
清国を欧米列強が食い物にしたように、遅れて開国した後進ニッポンが日清戦争に手を出し、この時は運よく賠償金から台湾1島の植民地権益など想定外の戦利品を手にした。
そこで味を占めて。ロシアにも手を出したが、柳の下にドジョウがいつも居るわけがなく。
戦争が終わってみたら。欧州で募集した戦時外債が多額に残り、償還負担が戦後の財政運営に支障を招いた。
必ず勝つとの信念だけで戦争を始める杜撰さは国民性ともいうべきであろうか?過去から学ばない無反省さが常に付き纏うようだ。
だが。アトで考えると、ロシアから受取っていたものがあることに気がつく。
かつてロシアが清国から割譲を受けた満州鉄道の運行権益を日本に再割譲されていた。
たしかに忘れ去られるべき中味の乏しい経済権益でしかなく、維持し続ける維持防衛のための費用負担も大きかった。
しかし、この譲り受けた権益が、後にアメリカとの対立の火種となり、日本帝国を解体へと導く火線となった。
いわゆる満州帝国の建国を招き寄せ、大きな災いとなったのである。
今日はこれまでとします

もがみ川感走録第59 もがみ川のおしん

今日から『もがみ川のおしん』と題して、書き始める。
2018年になって、何で今頃「おしん」なのか?
まずその疑問に応えることとしよう
このシリーズは、筆者の勝手気侭さを反映して、第1稿の成った2014.8月から既に4年目に入っている。そして今日の原稿の進行番号がNo.59号だから、極めてのんびりゆったり進めてきたといえる。
この数年継続的に最上川の川面を眺める、そんな至福の日々でもあった。
その川の流れが、国民文学と目される「おしん」の舞台であると聴かされて。この稿を終るまでに一度は採上げようと考えてきた。
放映されたのは1983・昭和58年4月〜翌年3月までである。NHKの連続TV小説、しかもNHK・TV放送開始30周年記念番組として1年枠の通年放映の朝ドラであった。
時代背景は、ロッキード疑惑後の田中角栄判決など政治スキャンダル騒ぎの一方、ディズニーランドの開業や夏の甲子園PL学園の桑田・清原のペアが登場して活躍するなど、騒がしくも活気のある経済活動に明け暮れた世相でもあった。
筆者の個人的事情を述べれば、35年前はサラリーマン生活30歳台の後半であり。放映される朝の8時台は会社に向かって駆け込む時間帯だ。実は一度も当時の放送は観ていない。ただ当時の記憶で、人気が格別に高い国民的番組として好評であったことを漠然と知っていただけだった。
そんな事情だから、本稿を書く目的で。レンタル・ヴィデオ・ショップに行って、DVDを借り。ざっと流し視る事にした。それでもほぼ2ヵ月を要した。もちろん朝から晩までそればかりにかまける暮らしでもないが、過ぎてみたら意外に時間を取られていた。
全297話だが、仮に1話13分として概算すれば、64・4時間とまあ、そんな観賞時間となろうか?
おしんは、1901・明治34年の生まれ。放映時82歳との設定である。
だが、実はおしんはドラマ上の存在つまりヴァ−チャルな偶像だ。だがしかし、平成の現代において、海外から観光客を誘致することが国策の一端とも目される状況になると、おしんの果した役割は実に大きい。
外国からの観光客誘致がどれほどの大きい意義があるか?それは筆者が論ずべき課題ではない。
読者の皆さんがそれぞれの立場で考えて戴きたいが、経済効果だけが全てと言うような短絡的見解に与する気は毛頭ない。
手元資料によれば、世界68ヶ国で何らかのカタチで放送され。主にアジア・中東地域において、日本へのインパクトを与える素材となったらしい。どちらかと言えば、この地域は女性解放が相対的に進んでいないと思われ、家電生産王国ニッポンを従来と異なった面で認識・覚醒させることになったかもしれない。
どの地域であれ・どんな国情であれ、『女』がその社会の縁の下の力持ちであり・底辺を担う役割を果していることへの共感みたいなものが、おしんへの親近感を呼び寄せるかもしれない。
驚いたのは、北アフリカのどこかに「おしん」なるファーストネームを持つ女の子が相当数居るらしいとのメディア報道である。おそらくこのファミリーは、間違いなく日本シンパであろう。
国民文学の大きな金字塔であるドラマおしんが、国内だけでなく。国外でも相応のセンセーションを巻き起していることを高く位置づけておきたい。
さてそのおしんの映像だが。最も『もがみ川』を象徴するシーンは、おしんが筏に乗せられて、雪一色に彩られた急流をあたかも流される木材のように下って行く光景である。
おしんが算え年齢の7つで、最初に奉公に出されたのは、材木店であったから。そのツテでイカダ下りに便乗することになったらしい。雪融けの頃の川の水はごく冷たい。誤って転落したら、まず生命はもたないであろうし、そもそも筏は、一般人を乗せてはならない輸送手段である。
言わば、相当にひねりの利いた映像文学の力作だが。文学的創作として、日本に積雪風景があり・その名は最上川と言うのだと。世界に印象づけた傑作映像と言えよう。
だがしかし、筆者の解釈は、少し異なる。
イカダにしがみつきながら、おしん<谷村しん=配役・小林綾子>は必死に母<谷村ふじ=配役・泉ピン子>の名を呼ぶ。言わば今生の別れとなりえる、悲しい情景だ。
そんな時代相でもある。一方、父<谷村作造=配役・伊東四朗>はおしんの名を呼びながら、川に続く雪野原を深雪が纏わりつくのも苦にせず、おしんの姿を追いかける。
何とも哀れな小作人の辛い生活心情が浮かび上がる。
社会の底辺に暮らす彼等は、地主に搾取されていて、雪融けの頃になると、もう食い繋げないのである。
おしん年季奉公は、実家に残る家族の食い扶持として、先払いを受けるコメ俵とバーターであり。算え年齢の7つのおしんは、周囲の同級生が小学校に入学する姿を傍目にみながら、遠く親元を離れ、他人の家に住込んで、翌春まで、約束のコメを家族に食べさせるために、じっとあらゆる苦難に独りで耐えなければならない新生活に飛び込むのであった。
この最上川の雪のシーンは、日本の社会構造の歪みを端的に表象した歴史に残すべき映像シーンであると。筆者は考えている。
そしてこの小作解放なる大問題に身を投じた人物もまた、この国民的映像文学には登場する。
その小作解放運動家は、名前を皓太<こうた/高倉のちに並木=配役・渡瀬恒彦>と言い、おしんとは相思相愛で駆落ちする約束にあった。
後に、皓太は特高警察に捕まり、拷問されて不具者になってしまい。転向したことをもって、生涯を挫折者としてひっそりと暮らした。
小作問題は、江戸時代以前から日本列島に内在する経済的収奪に特化した社会的構造失陥だが。明治新政もまた「維新など」と耳当りのよい虚名を掲げながら、全く手を付けなかった。
その後戦前の官憲警察は、中立の立場に立つことができた筈だが、弱者大衆に背を向けて地主側に一方的に与した。
結果、この社会構造的歪みが是正されたのは戦後になってからだった。
執行主体は、外国駐留軍なる圧倒的軍事影響力をもって、強権を発動した無条件降伏を取付けた戦勝国であった。
クロフネ・ペリーの故国は、じっと君主軍国制の未熟極まりない途上国つまり隣国ニッポンの根本的貧困の根源がどこにあるかを冷静に観察していたのかもしれない。
昭和20・1945年8月の敗戦とそれに続く陸軍・海軍の解体、不在地主の強制追放をもって、はじめておしんの半世紀がハッピーエンドで終る素地が整ったのであった。
我が国の貴顕・碩学層は、自国の病弊を自発的に自主的に改造することはできなかった。
因みに、おしんが皓太と連れ添って、散歩するラストシーン。そこは移住先つまり皓太の故郷であろう伊勢志摩の海岸風景が遠景の中に見えていた。
更に、おしんが冒頭シーンで訪ねて行った生地である銀山温泉<現・山形県尾花沢市最上川支流の銀山川流域>に近い土地だが。もう既に廃村になっており、かつての住地・耕地は原野に戻りつつあった。
今日はここまでとします

高尾山独吟百句 No.18 by左馬遼嶺

ただ眠れ  菜花・辛夷は  夢放浪
駄言独語〕
この数日急激な好天と気温上昇である。
菜の花もコブシの花もきっと盛んに咲いていることであろう。
当地のサクラも間もなく開花宣言へと達することであろう。
春の到来は、雪国の住民にとり、念願の季節の到来であり。
寒さの脅威からの開放と言うことで、まさに放浪の季節の到来であるが・・・
閑話休題
晴天無風の春は、何よりも替えがたい宝物との遭遇である。
体力の快復を俟って、ひたすら深い眠りを期する日々である。

もがみ川感走録第58 西郷南洲・番外編

  雨は降るふる  人馬は濡れる
    越すに越されぬ  田原坂
田原坂<たばるざか。熊本市北区植木町豊岡>は、明治10・1877年に起きた西南戦争<1月30日〜9月24日>の古戦場の一つだが。
民謡に唄われた激戦地であった。
西南戦争は、熊本・大分以南の南九州を戦域とした最大規模の士族反乱で、鹿児島士族を中心として総勢約1万3千人が戦死した。
田原坂の戦闘と陸軍熊本鎮台の包囲攻防戦<2月22日〜4月15日>が、戦争の帰趨にかかる天王山だったが。明治新政府としては、新たに導入した中央集権制を維持するため、断崖に立たされこの軍事抗争に必勝を賭け、 どうにか勝ち残った。
この戦争のシンボル的盟主として西郷隆盛(1828〜1877 倒幕戊辰戦争・東北戦争の軍事指導者。日本陸軍の設立に事実上関与した陸軍トップ)が担がれた。
この時明治六年の政変<1873年10月朝鮮使節派遣をめぐる見解の対立から新政府高官が分裂し、西郷隆盛板垣退助などが下野し、鹿児島・高知士族の多くが陸軍近衛兵等を辞職して帰郷した>により帰郷した西郷は、私学校を設立した。地域の子弟を集めて民政・軍政の幹部を育成したが、鹿児島は反政府の風潮が強かった。
当時明治新政府は、廃藩置県秩禄処分・徴兵制・廃刀令など相次いで新施策を打出したが。
多くの士族=江戸幕藩体制下での武士は、働くことなく収入を得る=いわゆる封建的特権を明治になって奪われ不満が鬱積。更に徴兵制の導入により国民皆兵が導入されると、専門戦闘員としての身分的な優越感も失われた。更に刀を持ち歩くこと、これがかつて外観に現れたエリート=侍階級としての象徴的携行物であったが。これもまた廃刀令の施行・強化により新政府から奪われた。
このように士族層の不満は全国各地で生じていた。明治草創期の一揆や暴発行動は、全列島規模で多発し、新政府は先行き破綻の危機を常に抱えていた。
新政府は、西南戦争に勝利して体制を整えたと言いたいが、如何せん全国各地で多発する暴動は、この後も一向に沈静化をみなかった。
この戦争は、9月24日の鹿児島城山での西郷自決を以て終結したとされる。
西郷を祀る南洲神社は、明治13・1880年九州各地の戦域に分散していた従軍者の遺骨を集めて葬られた墓地の一画(鹿児島市上竜男尾町)に創建された。
その南洲神社の分社が、なんと遠く山形県酒田市にある。
この南洲神社は、最上川の河口都市酒田の飯盛山山麓に立地する。
飯盛山は、その名のとおり、遠隔地からも望見できる神奈備山の要素を備える神域めいた景勝地である。
ただ神社創建年が昭和51・1976年と時代が下る事が難だが。月1回の頻度で、南洲遺訓<明治23・1890刊行>の購読会が開催されているとあるから<酒田市役所の談話>、鶴岡藩のうちでもあり、旧藩士との何らかの関係が伺える。
因みに、その庄内南洲神社に接して、土門拳記念館が立っている。
土門拳(1909〜1990)は、レアリズムを訴えて古寺巡礼や女人高野をシャープに捉えた昭和を代表する写真家だが、弁も立ち-名文を書き-筆も唸る才子として知られた芸術家で、故郷酒田市の名誉市民第1号を贈られている。
さて、その飯盛山だが、かつて支流・赤川と本流・最上川の合流点がその山麓にあったとされる。その少し上流付近から日本海に向けた直接放水路である赤川・新川<=人工河川>を掘下げ、昭和2・1927年工事が完工した。
この時をもって、赤川(=河川延長約70km・流域面積857平方km)が土木工学的に最上川から分離せられて、庄内ゾーンの河川となったが、歴史地理的に最上川水系であることに違いはない。
なお、中流域には、庄内のツインシティーの一画を為す鶴岡市=藩政期酒井氏の城郭が置かれた=や上流域には修験道で知られる出羽三山の月山・湯殿山羽黒山がある。
赤川の源流は、大鳥川系が朝日連峰以東岳鶴岡市標高1771m)と梵字川<ぼんじ川>系の月山(がっさん。鶴岡市標高1984m)となっている。
なお、赤川・新川は、酒田市外郭から庄内空港へ通ずる国道112号線とクロスするが。周囲は、クロマツが密生した美しい砂丘地帯であり、日本海に沈む夕景を観賞するに相応しい。
幕末から明治初年にかけての内戦時代だが、鳥羽・伏見〜戊辰〜東北の諸戦争へとその戦域が移動した。
本土での最後の激戦であった東北戦争で、旧幕府側に足場を起き。最後まで善戦したのは、鶴岡・酒井藩兵であった。しかし、当時有数の戦略家であった西郷隆盛が指導する官軍に敗北した。その結果下された鶴岡・酒井藩兵に対して行われた戦後処分は、苛酷なものではなかった。
これ等は前稿に書いたことの再言だが・・・
処分の言渡しに際し西郷が格別の付言を残して立去ったことを官軍武家参謀の山県などから聞き出し。
後の明治3年になって、鶴岡・旧酒井藩・士族は大挙して鹿児島の地を訪ね、互いに親交を重ね、南州遺訓が世に残される契機となった。
西郷の世に知られる大仕事の一つに、江戸無血開城がある。
この大事業が成功するまでに、世情あまり知られてない数々の布石があった。
江戸無血開城とは、江戸の街を戦火から護ることでもあり・大政奉還後の江戸徳川家をどう処遇するか?でもあり・朝廷に反逆しリタイアし最後の将軍となった徳川慶喜をどう処置するか?でもあった。
布石の事例を大佛次郎の著作である『天皇の世紀』第14巻<朝日新聞社昭和53年3月刊>に基づき俯瞰してみよう。
 ◎ まず輪王寺<在・日光>門跡・公現法親王(1847〜95)が、
   官軍東征を阻止する目的で、東征大総督有栖川熾仁親王
   訪ねている。
   *自身は、東海道を小田原〜駿府まで出かけた。
    常住の地が江戸・上野・寛永寺で、その寺の貫主を兼任した。
    その寛永寺は、元将軍・慶喜江戸城退去後の隠居地。
    境内は、慶喜の水戸退去後、彰義隊の本拠地に。
    内戦戦域となり、1日で陥落。
    彰義隊壊滅後に突如、奥羽列藩同盟の本拠地である
    白河<現・宮城県白河市>に出現した。
    仙台・伊達藩と会津・松平藩が、同盟の2大巨頭だが。
    担がれて軍事総督になる。
    以上が21〜22歳頃の行動略記である。
    深窓育ちの皇族(明治天皇の叔父に当たる)であり、
    幼少から仏法界に身を置いた。
    この頃寛永寺・執当職の覚王院義観<江戸から会津
    若松まで同行した>により強引に主導された行動で
    あったと言えよう。
    明治元・1868年9月の会津藩降伏をもって内乱終結
    京都に送られ蟄居へ
    後に還俗し、明治5・1872年北白川宮家を相続し、
    能久親王となる。
    ドイツ留学を経て軍人に転身。明治28・1895年
    出征先〜占領地の台湾で病没した。
 ◎ 次にほぼ前後して、天璋院篤姫<てんしょういん・
   あつひめ1836〜83。在・江戸城大奥>が、大奥典医を
   東海道に派遣した。
   *藤原敬子<すみこ>・篤君は、遠く鹿児島は今泉・
    島津家=地方領主の娘として生まれ、
    後に島津本家当主・斉彬の養女に。
    次いで、京都五摂家の一である近衛家の養女を経て
    安政3・1856第13代将軍徳川家定の御台所へ。
    夫の家定は、生来病弱・人前に出ることを嫌った。
    夫は安政5・1858年輿入れから僅か1年9月で
    病死<享年35>。子なく家系断絶。
    天璋院は夫の死で落飾した後の号である。
    幕府の実務は、老中の阿部正弘、継いで堀田正睦
    主導するが、クロフネ来寇の直後でもあり、幕府にとり
    最も外交多端な時期であった。
    将軍職は第14代将軍徳川家茂紀州家から入り継いだ。
    その家茂と亡夫とは従兄弟関係。
    家茂に降嫁した皇女和宮天璋院とは、嫁〜姑の関係に
    当たる。
    この二人の共通点は、新婚早々夫に先立れたこと。
    長期に亘る家茂の上京不在や出張先大坂での家茂の突然
    の病死があった。
    更に第15代将軍徳川慶喜が上方で将軍職を急遽継承など、
    異例事態の多発に対し共同して江戸城&大奥を守護した。
    江戸無血開城の事実上の幕府方功労者が、この二人である。
   *篤姫が派遣した典医は、川崎宿西郷隆盛に対し、
    託された書状を手交した。
    書状は、婚家・徳川家の存続と慶喜の助命を嘆願した内容。
    西郷とは予て昵懇だが。頼みの養父・島津斉彬は、夫の死と
    ほぼ同時期既に他界しており。西郷はその御庭番だった。
   *西郷は、明治新政府の中核3人物の一画とされ。当時は
    東海道先鋒総督(=橋本実梁)に従う武家参謀職。
    外見上の職位は高くないが。攻撃実行の主体は各藩兵であり、
    軍略・指揮・財政・補給などを雄藩=薩摩藩の西郷が握り、
    江戸総攻撃の責任者かつ統括者であった。
  ◎ 3人目は、皇女和宮<1846〜77。在・江戸城大奥>。
   大奥上臈率いる使節団を送り、東海道経由で上京させた。
   *賜諱称号は親子<ちかこ>内親王
    明治天皇(第122代)の叔母に当たる。
    幕末期の孝明天皇(第121代)の異母妹<父第120代
    仁孝天皇の第8皇女>。
    勅命で第14代将軍・徳川家茂(=御三家・紀州家の
    第13代藩主慶福から将軍に転じ改名した)の正室へ。
    皇女降嫁(=成婚)は文久2・1862年江戸城内で挙行。
    以下はいささか筆者の独断的余談だが、
    クロフネ来寇が招き寄せた世紀的政略結婚劇であった。
    前年10月に京都を発ち中山道経由で江戸へ、
    11月に安着(行程約25日間)、翌年2月成婚へ。
    生母・橋本経子が同行し、大奥へ住まいとなる。
    中山道の旅は、送迎役人・運搬人足など総勢3万人超、総延長
    12里超に及び1宿通過に4日を要した<根拠資料により異同あり>
    その背景に、当時の幕府が日米修好通商条約を勅許を俟たずに
    調印し、孝明天皇が周囲に譲位の意志を漏らし始めた。
    天皇は個人的に華夷思想を強く持ち、外国人排除の考えが
    強かった。幕府は皇女降嫁をバーターに条約破棄を約束した。
    所謂『公武合体論』
    奇異だが、下級公卿の岩倉具視が京都側の熱心な推進者だった。
    彼は朝廷側代表として降嫁の長旅に同行、対幕府交渉の役割を
    完遂した。
    岩倉は、慶応3・1867年王政復古のクーデターを仕切り、
    大久保利通と並んで明治政変の大立物とされる。
    その前年<慶応2・1866>夫・家茂は、出張先の大坂で突然
    病死<享年20>。
    落飾し静寛院宮と号した。仲のよい夫婦だったが子なく、
    予て後継候補を夫婦間で決めていたが、想定外の急な夭折から
    急遽大坂で第15代徳川慶喜を立てるとの幕閣の諮問に同意した。
    慶喜30歳、水戸烈公・徳川斉昭の実子御三卿・一橋家の当主で
    幕府としては久々のエース登場。
    ○さて、皇女和宮が発した使節は、桑名の陣中で東海道先鋒
    総督(=橋本実梁)に面会した。橋本総督は、生母の実家の
    当主であった。
    婚家・徳川宗家の存続と最後の将軍=第15代徳川慶喜の助命
    を嘆願した。
    橋本総督は、関所通過の添書を渡して、使節を上京させた。
    新政府の主幹推進役の岩倉は、和宮に対し借りがあった、
    橋本総督の上位者に当たる大総督・有栖川熾仁親王和宮
    かつての許嫁者。
 ◎ 4人目、幕府軍事総裁・勝麟太郎から発遣された山岡鉄太郎である。
   この時勝と山岡は、初対面であったが。西郷<在・駿府>あての
   書状を託され、囚われの薩摩藩士・益満休之助を添えられた。
   *山岡は、勝の周囲が面会を危ぶむくらいの微禄にして、不遇の
    幕臣で。
    上述の3人とは正反対の立場つまり既成秩序や権威・肩書と
    無縁の生涯を歩んだ生涯だった。
    一心不乱に思う処へ突っ走る誠実一途型だった。
    その以前、山岡は剣客として知られ、浪人取締役に任じた
    経歴があった。
    それは、新徴組を率いて京に上った仕事だが。それは、
    高橋伊勢守や清川八郎らと共に担当したもので、京都残留組
    から新撰組が出るなど、想定外の展開をみたので、急ぎ江戸
    に連れ戻った。
    この新徴組は、後に幕府から江戸市中警護を任された鶴岡・
    酒井藩の預かりとなるから、西郷〜山岡〜庄内の間は因縁
    めいたものがあった。
    益満は、西郷の密命を帯びて、江戸市中を荒し回った後方
    撹乱活動の首領格であったが、三田の薩摩屋敷で囚われて、
    鶴岡・酒井藩から幕府に引渡されていた。 
    益満を同行させたのは、勝の機転であろう。
    結果は上首尾であった。
 ◎ ここで西郷が動いて、江戸無血開城は、成就した。
そろそろ筆を措こう
西郷の評価をかつて坂本龍馬勝海舟に語ったことがあった。 
  西郷は鐘だ。大きく撞けば強く鳴る。小さく撞けば弱く響く
幕末期最大の救国ヴォランティアに乗出した島津成彬が見出した男=西郷隆盛に対する、ひとつの見方だが。
明治政変の三傑=西郷・大久保利道・木戸孝允の一画を形成するまでに大成長した無欲の好人物でもあった。
西郷と大久保は、生涯セットであった。
幼なじみで互いに親しかった。大久保の方が若干年少だが、父親が町内の私塾師匠であったから、おそらく二人の間では、大久保が能動型の役割を果したであろう。
その学問が、儒教陽明学であった。幕府が掲げた朱子学がメジャーであったから、陽明学知行合一を掲げる実践を強調する学風は、相対的に際立っていたことであろう。
ところが、幕末期において、佐久間像山・吉田松陰河井継之助らが陽明学徒であった。ここでは松下村塾門下は名を掲げない。
近・現代史において、日韓併合なる不幸な歴史があったが、この隣り合う中華文化圏に属する両国の文明開化に差が生じたのは、陽明学受容の有・無に起因するかもしれない

高尾山独吟百句 No.17 by左馬遼嶺

  ボタモチと  別れを告げる  春紀行
〔独吟呟語〕
今日は、春分の日である。メディアは、遠くの各地でサクラが開花したと知らせている。
当地はつい先日ころ半世紀に一度のスケールの大きな豪雪に見舞われた 。
ウメはもう咲いたが、サクラはいま少し俟たれよう。
ボタモチは、牡丹餅とも書く。
同じものが、オハギとする説もある。
それぞれの名を冠した花が咲く頃に因んだ呼び名であろうか?
ただこれは人によって、見解が異なるので、強要はしない。
地域により・家により・めいめいの考えにより、それぞれであってよいのではないだろうか・・・・・
他の何ものにも換えがたいオフクロの味であり・故郷の想い出なのだから、各人各様で当然なのである。
仏家にあっては、先祖と出会うことの出来る日でもある。
閑話休題
前立腺ガンなる病名が宣告されて、もう10年が経過した。
ほとんど悪くなっていて、あちこち病院を変え・Dr.を換え・自己流の転地治療?によって、2桁もの長さをどうやら生き延びてきた。
延命措置と割切って、『こうせい省』策定の臨床措置ガイドラインを押付けようとする Dr.を煙に巻き、早々に逃げまくって、全く新しい土俵でのその日暮らしを貫いてきた。
だがしかし、ここに来て。新しい年度代りからいよいよゲノム治療に乗出すとのメディア報道を聴いた。
闇の中の小さな炎のような展望だが。既にして全身ガン・末期症状のワットに果して間に合うかどうか?おそらくダメだろう
さて、句の中にある”ボタモチとの別れ”とは、更なる食事制限の追い打ちを始めたことを意味する。
主目的は精神的な修養には全くない。
レッキとした医学的根拠に立った自発的な食事の方策である。
世に言う「糖質制限の食事」である。
甘いものは、幼少時から好きであったが。いまお世話になり始めたDr.に言わせると、当人以上にガン細胞が欣喜雀躍すると言う。
実を言うと、もっと好きなものがあった。
日本酒だ。
別れてもう久しい。年に2回ほど、それも杯に半分ほどの付合いにおとした。
まだある。   川柳にある。
「目はメガネ 歯は入れ歯にて コト足れど  ・・・・」
・・・・は、映倫カットで伏せ字にされる箇所である。
ずばり男性能力の発揮がテーマであろう。
前立腺は、膀胱やピストルと一体で、個体維持や種族維持の複数機能を果すらしいが。ワットの場合、外見は別にして、もうこの10年超遥かに生殖機能は停止した。
いまや”・・・・”は、遥か恩讐の彼方である。
困ったことはないか?と、尋ねられると。
ウンあるなあ!
若い娘の顔と名前が一致しない。不便と言えば、不便ではある

高尾山独吟百句 No.16 by左馬遼嶺

ゴミ出しも  少しラクなり  雨水ころ
〔駄足独語〕
ゴミ出しは、ゴキブリ亭主ならぬはみ出し男がこの数年超も、否、気が遠くなるほど長いこと担当している家事分担である。
持病が悪化したことをもって、70歳も過ぎてから不慮の転居となり。今の下駄履き長屋に住んでからは、共用の入口からざっと10mほどの位置に専用の一時集積場所がある。
この北陸の雨がちの土地、とにかく近いのは助かる。
雨水とは、二十四節気による。
雨水(うすい)は、暦に書いてはいないが。概ね2月18乃至19日頃で。雪が雨に変る頃の意味らしい。
立春啓蟄の中間に位置する15日間くらいと理解しているが、確信はない。
旧暦による暮らしでは、もうそこに雪融けの春が迫っている感じである。
閑話休題
亭主のゴミ出しは、TVのシーンなどでやってみせるからだろう。ほぼ、固定化した日常業務とみなされていて、抗い難いものがある。まして、ゴキブリなどと修飾語が付く我が輩では致し方ないものがある
さて、今日ただ今の時点で、冬を語るべきかどうか?実は迷っている。
過ぎた冬をなどと、書くと。冬将軍の怒りを買って、この冬何度目かの猛威がまたまた襲ってくる懸念なしとしないからだ。
過ぎようとしている冬は、例年になく大雪だった。
北陸は、京都から下って、愛発ノ関(あらち 古代3関の1だが、考古学的には所在地未確定で、敦賀付近の広大な同地名のうちに所在したであろう)が、言わば南の端であり。敦賀の港<福井県>に至る。
これとは別ルートに、木ノ芽峠越えなる山がちの街道があり。これを越えれば、まさしく『越』=北陸となろう。
以上が南の端、ついでに反対の端も触れておこう。
こっちは、松尾芭蕉の「奥の細道」にも出てくる親不知・小不知の懸崖である。
よって、この間に挟まれる福井県の一部と石川県(能登半島を含む特異な地形)と富山県が北陸となる。
古代の『越(こし)』は、もっと広い空間概念であったろう。
この地域の気候は、言わば盆から先は雨がちとなり、その雨が雪に変り。春まで悪天候に閉ざされる。
現実にこの冬も連続66時間国道上に立ち往生した長距離トラックがメディア報道された。
近年にない”Oh雪”だった。この数年のゲリラ豪雨の降雪ヴァージョンまたはクラスター爆弾型豪雪と呼ぶタイプかもしれない。
言わば、北国はどこも雪が降るゾーンだが、豪雪なる降りかたは、北陸固有のものかもしれないと思っている。
かつて、38<サンパチ>とか56<ゴウロク>などの昭和年号を冠した豪雪の記憶が北陸人にはあるらしい。
さてはて、そのような呼び方が、北陸以外の降雪地帯にあるだろうか?
寡聞にして覚えがない。
忘れた頃にやって来るから、備えがない。
従って、次に向けての備えも考えないし・対策もまた講じない。
そのような地域の住民気質が、豪雪の土壌でもあると言えないこともない。
宗教に対して熱心な風土と重なる、基調的精神風土であるかもしれない。
さて、この冬の豪雪は、どう呼ばれるだろうか?
年号は平成になっている。西暦では2018だ。
イチハチ豪雪とでも記憶されるのだろうか?
数字の8は、横に倒すと無限大の記号『∞』である。
・・・これからも果てしなく降るとは考えたくないぞ・・・
実は変ったのは、年号だけではない。
北陸新幹線が開通してから最初の豪雪だった。
北陸新幹線は、東京〜金沢間であるが、雪の影響を克服して、ほぼ平常運転を維持した。
新幹線以外の在来線=特に京都・大阪・名古屋方面への在来線の特急は、相当長期間継続して運休した。
航空便もまたほぼ全航路運航しなかった。
豪雪にも関わらず、外部との連絡が途絶えなかった。
いわゆる新幹線開通効果だ。
しかし、それを利用してやって来る観光客に対する備えの方は、残念ながら旧来のまま”豪雪下の居眠り状態”であった。
スーパー&コンビニも数日間に亘って片肺の品揃え状態であった。加えて観光客への気配りなど出来る状況ではなかったというべきであろう。
ホクリクの夜明けはこれからとなろうか?
否・豪雪の朝はもう来ないことを祈ろう