もがみ川感走録第35 草木塔 

もがみ川は、最上川である。
最上川を眺めながら、あちこち行き来するようになって、もう5年になる。
最上川を知るためには、なるべく鋭い眼をもって、流域を右往左往し。より多くの人から話を聴く事であろう。
まだある。古い時代のことをよく知る事がまた、今の最上川を深く知るキッカケになる。
これもまた、間違いないアプローチ法である。
今日は、草木塔を採上げる。
草木塔との最初の出逢いは、偶然であった。
数年前、会津方面からドライブして置賜・米澤に向けて、山越えした事があった。
その途中、道の駅に立寄った際に、大きな石塔を見た。
そこに網羅的な説明が掲げてあって、この地方にしかない特異な建造物である事を知った。
その後数年かけて、断続的にフォロウしてきたが、最上川流域に生まれ育った地域の先輩に教えられたことが,最も豊かな実りに結びついている。
まさに、そのことから、山形の県民性の一特徴を垣間みる事ができた。
さて、ここに来て,何故今「草木塔」を採上げる事になったか?と言えば、あるキッカケがあったからだ。
最上川流域の他に抜きん出た特異性と言えば、江戸時代における京都文化との親密性にあることを第1に掲げたい。
それを実現させた原動力は、日本海を往く海運と結びついた最上川の舟運である。
海と川を結ぶ接点が酒田港であり、”36人衆に象徴される”酒田商人の存在である。
酒田を動かした地域特産品と言えば、まずコメと紅花である。次いで、青苧である。
紅花なる一時代を風靡した巨大商品を正確におさえるために、民俗学者竹内淳子の著作=紅花(ものと人間の文化史No.121 法政大学出版局2004刊行)をざっくり読んでいた。
その65頁に、”松木塔”なる見慣れない言葉があった。
さてここで、松木塔と草木塔の関係を概説しよう。
草木塔は、包括呼称。よって、松木塔は草木塔のうちではあるが。厳密に言えば、類似塔の領域に含まれる。つまり,狭義の草木塔は、碑文(石碑が多くかつ長年月の風雨に耐えて残りやすい。木製もあったらしい)に、「草木塔」または「草木供養塔」と刻字されたもののみを指す。
草木塔は、古くから置賜・米澤地域で、その存在が知られ。識者により、研究が行われてきた。
研究の集大成として、置賜の民俗<特集・草木塔の心をさぐる>=平成24年12月刊行・置賜民俗学会報がある。
ここでは、筆者の独断と偏見をもって、その理解した処を抽出略述する。
まず、何の目的で建立・設置されたか?だが、類似塔の中の『草木国土悉皆成仏』なる文言を刻字したものを手がかりに、樹霊の鎮魂にあったと推定したい。
この名号は、天台本覚論に連なるものだと言う。動物以外の植物や時に鉱物にまで霊性・仏性を認めるのは、日本の天台宗だけであるとする見解があると言う。
次に、誰が建立・設置したか?だが、
ここにこそ、松木塔の出番がある。
長井市五十川野際に建つ文政8・1825年建立の表面刻字「松之木供養」・裏面刻字「脂掻三拾三人」とある松木塔から、山元村<現・上山市山元>に在住した松脂掻き33人が,費用を出し合って建立した事が知れた。
因みに、当時当地では、笹の葉に松油を包んで灯火とする例が一般的であったらしい。いわゆる蝋燭の代用である。蝋燭は米澤藩では、藩が扱う領外移出品であった。同時に医薬品原料でもあった。
灯火用油脂としては、他に菜種油や紅花油もある。ともに最も高価だ。
北前船が輸送した鯡<ニシン>油は、臭いがきついので低価であった。
この松木塔の設置事情は、多くの草木塔に及ぼす事ができよう。当初は、山林業者の樹霊鎮魂思想を具象化する存在として建立・設置され。その後次第に、地域全体に広まったのであろう。
忘れてならない事は、草木塔の建立が現在進行形の事象であることだ。
現代的理解として、成長限界説提唱後の経済哲学や生態学に立つ環境保護論と、精神面において共通するものがあるようだ。
最後に、余談めいた話題を紹介しておこう
発見されている現存最古の草木供養塔は、米沢市大字入田沢塩地平地蔵尊堂にある。
安永9・1780年建立の刻字がある。
入田沢の地は、一大林業中心だが。安政元年(1772)江戸大火との関係で、一躍脚光を浴びる。
藩邸が類焼した。手元不如意の貧乏藩といえども、藩を挙げて、急ぎ復旧を計る必要が生じた。
藩政改革の途上でもあり、藩の御料林から伐り出す事となった。
入田沢を中心に、藩士600人が動員され。山林専業者と共同して大木の伐採が始まった。
伐り出された藩邸復旧用材は、列島脊梁奥羽山脈を越えて、隣藩=会津藩領に搬送された。
会津領内で、阿賀川舟運を介して新潟海港まで下ろされ。海路江戸に廻航された。
この時、最上川舟運が回避されたことに注目したい。その背景解明は今後の課題としたい。
さて、この建立年=1780年を米澤藩史と重ねて、併せよみすると。
第9代藩主・上杉治憲(1751〜1822。在位1767〜85。日向国高鍋藩秋月氏の次男として生まれ、10歳で上杉の養子に。その後前藩主=養親に実子が誕生した。隠居してその実子が藩主となる。出家号=鷹山。当藩きっての名君とされる)の藩政改革が、軌道に乗り始めた時期であるとされる。
その背景を少し抉ると、ピーク120万石時代に抱えた家臣団6千人をボトム15万石に減知された米澤時代にも召し放ちすることなく抱え続けた。
世に知られた貧乏藩ながら、鎌倉期にまで遡れる名家としてのプライド高く、言わば外部からの来訪者たる新任藩主が着手した財政再建のための藩政改革に対して、藩庁の重役が叛旗を翻す事態であった<1773年の七家騒動>。
治憲は、処罰もせず。ただ淡々と率先垂範、藩政改革を続行した。しかし、在位終期の1782〜88年頃は、世に悪名高い天明の大飢饉に見舞われる(換金作物のコメに傾いた東北諸藩が最も悲劇的な被害を受けた)など。一本調子で進むことは無く、藩の抱える対外債務が一掃されたのは、1823年であった。
皮肉にも、改革の機関車たる鷹山死没の翌年。孫の斉定(第11代藩主)の治世下、改革が完成成就した。
<注>この稿を作成するにあたり、学恩ある健沢先師から多年に及ぶ示唆・指導を頂戴した。
また、酒田在住の親友朱鷺先杖から、貴重な文献を送られた。
ここに記して、感謝を捧げる