北上川夜窓抄 その21 作:左馬遼 

北上川は、陸奥国の最も重要な第1番の要素であること。それはいつまでも変ることの無い基礎認識であるが、川の持つ無数に存在する機能が忘れ去られようとしている現代では、往々にして失念してしまっている。
物流媒体が、鉄道や自動車に移行したため。その経済的機能は、確実に低下したが。川がもつ地域のシンボル性や地域圏の一体化を象徴する精神的バックボーンの意味は、おそらく通史的に永続することであろう。
前稿では、陸奥国河内国との上古における深い繋がりを略述したが。説得に成功した感じが、あまりしない。
筆者自ら、本文の中で述べているとおり。ダッチロールの中で、独断と偏見に畏れつつ、結論らしきものを打出せない、もどかしさを打ち消すことができない。
とまあ、ことほど左様に。陸奥国河内国の空間距離は,遠い。遠いのは、時間軸の方も同じであり。こっちの方は、この国の歴史の中で希有な存在である天才政治家=藤原不比等により、造り上げられ・捩じ曲げられた、架空の歴史像の方が。あたかも史実であるかのごとく、我々の基礎知識に刷込まれてしまっているからだ。
ここで言う架空の歴史像とは、具体的には古事記日本書紀が描き出す”偶像化した日本史”イメージのことだが。この2つの官選史書の記述から、虚像部分をはぎ取り。その下から現れ出るところの、極めて貧弱に近い実像たる日本史を暴き出す作業は、気が遠くなるような困難がともなう。
前稿でも触れたが。史実に迫る成果の一部として、公やけに示された例として。
 大山誠一編 「聖徳太子の真実」 2014平凡社
を紹介した。
この最新の科学的歴史学を踏まえた著作の全貌を理解することは、とても難しい。その理由はいろいろあるが、筆者の場合。こども絵本で少年時代に、ファースト・ベーシック・プリントされた聖徳太子像が、まずあって。それを追い出すことがとても難しいからである。
多くの日本人が共有する理想化された聖人である聖徳太子像を、容易に再現・追認することができる著作として。念のため下記を示しておく。
 坂本太郎著 「「聖徳太子」 1979吉川弘文館人物叢書)刊
この2つの歴史研究書の間に流れる時間は、僅か30年超だが。導き出される結論が、これほど乖離することに驚かされる。
筆者なりにその背景を探れば、史料に対する文献評価の差であると考えたい。そこにある時代変化は、大きく2つあるようだ。
まず。最新の科学的歴史学は、考古学など歴史の周辺にある・いわゆる学際的研究の成果を以て総合的検証が行われている。
次に、最新の科学的歴史学は、一国史としての時空軸に閉じこもることなく・より広く東アジア規模の視野を保って、合理的に周辺世界との比較検証を徹底している。
さて、冒頭に述べたとおり。川がもつ通史的重要性は、河内国にも当然適用される。
河内の場合は、ハナから地名の中に”川”が織込まれている。その古名は、凡河内(おおしこうち)である。大和の都に近い大国であったから、3国に分割され・摂・河・泉となった。
因みに、地名をそのまま背負った、凡河内躬恒なる人物が居る。
平安時代前期の官人・古今和歌集の撰者。36歌仙の1、小倉山百人一首に”こころあてに〜白菊の花”が採られている。
河内の川とは、淀川が第1・第2は大和川であろう。
有史時代の初期、陸地が圧倒的に少なく。
川と湿地帯の中に、僅かな人の拠り所が見つかる程度の水郷状態から徐々に乾土地を広げて行った土地柄であったらしい。
聖徳太子ゆかりの四天王寺は、上町台地の延長に位置する古刹だ。
開創当時、寺の西門のすぐ外に瀬戸内海の東端・渚が迫っていたと言う。そのような立地で、参詣した信者が味わった観相は。まさに寺域と西方阿弥陀浄土とが隣接している、と思ったことであろう。
そのことが、聖徳太子を我が国における仏教開祖とするに至る最大の要因とも考えられる。後に浄土真宗の一教団に組込まれることになるが、技術系労務集団が支える太子信仰は、この四天王寺を中核拠点寺院として形成された。
その四天王寺は、日本書紀によれば推古帝の元・593年に造立が始まったとある。その造立経緯は、かの飛鳥寺(在・奈良県高市郡明日香村)と共通しており。物部氏の滅亡を契機として,ほぼ同時期<日本書紀によれば588〜593年頃>に着工されたらしい。この2寺がおそらく日本最初の仏教寺院であることは、まず間違いない。
なお、日本書紀の記述によると。この時期の権力在位者は、用明帝・崇峻帝の同父異母兄弟となる。
上述した最新学説書では、この2者の実在を否定している。用明・崇峻2帝の権力在位期間は、合計しても僅か4〜5年でしかなく。崇峻帝に至っては、大臣蘇我馬子によって暗殺されたと日本書紀は明記している。
このアトを継ぐと記述される推古帝<女性>を含めた3帝時代は、ねつ造された記事でしかなく。実権(=大王と呼ぶべき者)は、蘇我馬子にあった。とするのが、上述最新学説書による見解でもある。筆者もそれに従いたい。
先に太子信仰と技術系労務者とが、重なる人脈集団であるとしたが。ここにもまた、陸奥と河内を繋ぐ脈絡がある。
『舟の上に生涯を浮かべ・ウマの口とらえて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。』
この名文は、「おくのほそ道」の冒頭部分である。
この名調子の文章の中に、土地なる基本財を持たず・定住せず・移動を常態とする生活ぶり。が活写されている。
そしてそれは「山の民」・「川の民」・「ワタリ」・「タイシ」などと呼ばれ、通史的に社会から卑賤の者と蔑視された被差別集団の日常の姿でもあった。
しかもこの者たちは、神・仏を司る既成の宗教教団から閉め出され。魂の救済からも全く見放された「信仰上の悪人」とされる存在であった。つまり、彼等には現世の幸福も・来世の名誉回復(=救済)の道すらも無かった。
中世末期に浄土真宗の中興とされる蓮如が、聖徳太子浄土教とを結びつける教義を開発?させ。「信仰上の悪人」とされたこの者たちに救済の手を差出した。
その結果。このとき浄土真宗門徒は爆発的に拡大し。今日でも列島最大の信者数を誇る大教団に飛躍した。
現世はさておき・せめて来世に希望があるぞ。との道を示すことで、多数の信者を吸収したのであった。
世上、浄土真宗門徒は、格別のニュアンスを含ませつつ”一向衆”と呼ばれる。
この教団の初期拡大期の記録類から、門徒の中核を形成した技術系労務者の職業を摘記してみると、以下のとおりとなる。
 ○ 鋳物師 研屋 ・・・ 金属生産集団。源流人脈は渡来系
 ○ 桶屋 風呂屋 クズ屋 ・・・ 地域民の生活サービスを担う
 ○ 伊勢屋 大黒や ゑびすや ・・・ 商業・物資流通に従事
 ○ 唐人座 軽物座 紺屋 ・・・ 衣料生産集団。源流が渡来系人脈
           *  軽物とは、絹織物である
この職業およびその周辺産業の中に、山の民・川の民・ワタリ・タイシのすべてが包含されている。
あえて,注記すれば。ワタリだが、彼等は、海を”渡る”技能を備えた専門家集団であった。
淀川の西岸河口に拠点を持つ「渡辺党」などが、その典型氏族だが。公私の渡海物資交易・外交・翻訳の業務などを遂行する必要から、特に仏僧との交際が常態的であった。
多くは海人族に属する職業だが。そこから生じたと思われる地名が、列島のほぼ全域にみられる。
例えば、宮城県亘理(わたり)郡・各地の海部(あま)郡、泉(いずみ=白水郎)、熱海・温海・安曇など宗像氏・安曇氏が拠点を置いた有徳地を指摘することができる。
北上川に因んで広く話題を探索するのが、本稿のテーマだが。馬産地で有名な南部盛岡藩領もまた、列島有数の長い物資輸送のための水路と陸路の双方を併せ持つ広大な圏域であった。
河川輸送は「フナカタ」が担い・陸上輸送は荷駄とも言うごとく「バクロウ」・「馬方」の活動分野であった。後者の方は、ちゃぐちゃぐウマッ子など民俗行事として保存されている。
南船北馬は、大陸中国故事成語だが。陸奥・南部には南北に拘らず、船と馬が同時共存した。
最後に、『寒立馬』を紹介して、この南部馬のテーマを閉じることとしたい
立馬<かんだちめ>は、青森県下北郡東通村にある尻屋崎に放牧された野牧馬のことである。
足が短く・胴が長く・いわゆるズングリ・ムックリだが、農用馬としては理想の体型でもある。
それが”かんだちめ”などと、詩的な呼び方をされるようになったのは、戦後のことらしい。
粗食に甘んじつつ・想像を絶する寒さとも言うべき下北地方の寒気に耐えて、悠然と立ち尽くす姿は。県指定・天然記念物の名に価する感動を惹起するものであるらしい。

山の民・川の民―日本中世の生活と信仰 (ちくま学芸文庫)

山の民・川の民―日本中世の生活と信仰 (ちくま学芸文庫)