もがみ川感走録第38  出羽路の芭蕉No.3 

もがみ川は、最上川である。
出羽路に踏込んだ芭蕉に降り掛かったハプニングが、果してどんなものであったか?
それを推測する事が、前稿に引続く本日のテーマである。
このテーマは高度に困難な解明作業だが、例によって独断と偏見を駆使し説得力を深めたい。
頼りとする資料は、芭蕉の傑作「おくのほそ道」本文と同行門人河合曾良が残した「曾良旅日記/元禄二年日記・俳諧書留」のみだが。他に頼るは、感性と想像である。
さて、尿前の関(しとまえのせき)を越えて、陸奥国から出羽国に入り、最初に出会い・宿りをしたのが、尾花沢・紅花大尽・鈴木清風であった。
清風は、かつてから懇意の俳諧仲間である。
出会ってすぐ芭蕉は、続く出羽路の旅をどうするか?清風に相談した事であろう。
旅の企画となれば、芭蕉も清風も旅慣れた・ともに旅巧者であったが、清風には地の利があった。
結果的に、清風プランどおりに出羽路の旅をこなす事になった。と理解しよう。
実際の日程・行路がどうであったかは、上述の同行二人の旅日記に明らかである。
その概略が、立石寺に立寄り・最上川渡し船に乗り・信仰の山である出羽三山に登り。と、知られたとおりの旅であり、各地で名句を残した。
ありていに言えば、これら出羽路での新発見が、そのままハプニングなのだが・・・
もっと芭蕉の内心に踏込んで、ハプニングのハプニングたる要素部を抜出してみよう。
まず第1のハプニング。
歌仙興行が6つの土地で行われ都合7巻の歌仙が巻かれた。
 1、 尾花沢   ここのみ2巻
 2、 大石田
 3、 新庄
 4、 羽黒山
 5、 鶴岡
 6、 酒田
すべての歌仙をセッティングしたのは、おそらく鈴木清風であろう。
遠来江戸・深川の俳諧宗匠である芭蕉は、各地で大歓待を受け。意想外な歌仙の盛行ぶりに驚ろきかつ喜んだ。
日本詩歌史を総覧した場合、在来の俳諧に大改革をもたらして、現代俳句に連なる太いパイプを築いた。それが芭蕉の功績である。
それにはまず。芭蕉の打出した在来俳諧の否定・破壊を、まず理解し・受容してくれる仲間が居。次に芭蕉が打出した新手法=蕉風に立った句作に賛同し・同調行動してくれる同志の結集が要る。
それが繰返されて、新運動が更に拡大・定着する。
芭蕉は、「おくのほそ道」の旅で出羽路に来て。はじめて自ら提唱した改革運動が大きく開花していることを体験した。面的な広がりを出羽路の旅で、身を以て味わった。
後世になるが、加賀・金沢もほぼ同様であった。これに3都=江戸・京・大阪。尾張・近江の地を加え、都合7地域が蕉風句作の拠点となった。
出羽路蕉風発句の隆盛のために種を巻いた功労者を捜せば、清風・曾良芭蕉の3人の名を挙げる事ができる。
次なる第2のハプニング。
最上川流域に溢れる活力を目の当たりにして、芭蕉はこれほどかと意外な感に打たれた。
活力とは、金銭獲得に前向きな。営農姿勢において、あたかも近代に通ずる農民の姿を言う。
それが先進農業に変貌した最上川流域平野部では,ごく当たり前の風景であった。
しかし、同行二人は尿前の関を越えるまで,連続23日間も陸奥国を通過して来ていた。
彼の地は、南部・伊達両家の藩領で、封建制度にドップリ浸かったコメ主体の単作農業地帯である。
しかも、両藩領では戦国期以前の一円知行制がそのまま維持され、武士のゆとりはさておき農民は開放されず。参勤交代で外の風に当る事ができた武士層とは異なり、視野見識の上でも遥かに置き去りにされていた。
”三年一作”の言葉が示すとおり、洪水の常襲から身を守るのが精一杯。疲弊に近い姿、それが太平洋側農民の姿であった。
こちら日本海側に来て、出羽路もまた。コメの単作農業であり・封建体制の中にあった。
だが、異なる点を探せば。
最上川流域は,置賜と庄内を除いて大藩が無かった。幕府直轄・旗本・近隣大名預かりなどの小さい所領が複雑に混在し、ほぼ数年の短さで支配者の割替えが繁雑に行われていた。
このような場合、農民側は結束し。支配領主の区分を越えて近隣の豪農が寄集まり、一丸となって申合せを行い。農業経営の安定化のため、地域慣行と称して。支配領主による過度の徴求を殺ぐための防衛策を打ち立てるようになっていた。
大きな傾向を言えば、農地のうち田は領主主導の生産財であり。畑と家に備わる宅地は、農民個々に裁量が許された再生産用地であった。
最上川流域を大きく変貌させ・未来を先取りするような近代農民に育てたのは、紅花・青苧・タバコであるが。これ等栽培品目は,畑地の産品である。
最上川流域では、僅かな金銭得失差を踏まえて、近隣農家への出稼ぎ働きを含め、自発的に行動する積極的な近代型営農が定着していた。
旅慣れている同行二人は、この意想外の田園風景と農民層の活力を見逃す事は無かったであろう。ともに誹諧師だけに、蕉風発句を支える句会盛行の原因が、農業経済の先進ぶりにあることを見抜いていた。
畑地で作る消費財向け換金作物=紅花・青苧・タバコは、外界と短絡的に最上川舟運で結ばれていた。
最上川河口の酒田から先は、日本海舟運によって。更なる外界と繋がっていた。
開放された・京風都ぶりに近い・出羽路の活力の源泉は、そこにあったのだ。
ここで同行二人の素性を概観してみよう。
芭蕉は、伊賀の人。先進農業地ながら、京・大阪と伊勢神宮の間に位置することで経済的には潤いやすい土地であったらしい。
曾良の方は、信濃国諏訪の生まれだが、肉親に先立たれて、遠く伊勢国長島に預けられた。東海道から伊勢参宮に向かう特需にあやかる事の多い先進経済地で育った。
2人とも松尾・河合と苗字を持つ武士階層の境遇だが、とうに禄を離れて。流浪する”ろくでなしの世界”に身を置く苦労者、江戸在住の俳諧師となっていた。
同行二人と呼ぶにふさわしい”はみ出し者”だが。時代の大勢は、定住・固業”に取込まれるが。まず喰えるその他大勢と異なり、流浪する身は時に喰えない日もあったようだ。   
俳諧とは、世間の雑事から世情風俗を題材とする全般文芸だから、農村風景であっても、見落とす事は無かった筈である。
再言しよう。紅花・青苧・タバコなる換金性の高い消費材原料の生産が、最上川流域で格別盛んであった理由は、最上川日本海を連続させていた舟運の存在が大きい。
舟運の成長と安定化は、輸送される特産物の存在や産地形成と一体であり。まさにニワトリとタマゴの関係だが、最上川の場合は,それがうまく行った。
最上川の流域に幕府直轄領が存在した事が、飛躍の契機をもたらした。
世情名高い、河村瑞軒の列島周回航路<東廻り=1671 西廻り=1672>の整備事業が、海港酒田を育てる契機となった。
芭蕉が出羽路に入る元禄2年から未だ20年が経過しないつい昔だから、同行二人が見た商都酒田は、未だたくましい勃興期であったろう。
御城米<幕府直轄領の産米>輸送網を整備することで、海難処理の行政・司法が安定した。その環境整備が、商業輸送に波及し。海運事業が並行・拡大したが、酒田港の舟運上の地理的ポジションは、東・西のどちらを選ぶにしても理想的な位置であった。
東廻りは、津軽海峡の東進潮流と太平洋沿岸の黒潮強流と航行難所がネックであった。
西廻り航路は、京・大阪の人口重心の先に江戸が存在するダブル・ターゲットがメリット。
当時江戸は金本位貨幣であるに対して京・大阪は銀本位制であった。しかし、大阪〜江戸間に為替送金の仕組が早くに備わったので、複本位貨幣制度による両替ネックも為替利用で回避できた。
ただ、日本海出身の船頭・水夫は、瀬戸内航路の激変する大潮位差と方向が変わる潮流変化をネックと感じていた。
最上川日本海を結ぶ舟運は、草深い東北の一画にあたかも隣接する近さに、京風俗を招き寄せていた。
それは、清風宅での調度しつらえ・料理雑器・家人の衣装やしぐさなどから、具体的に感じる事ができた。
最上川流域に広域に、京の香りを植付けたものは、最上川流域の特産物である紅花・青苧と最上川日本海を連結する舟運であった。
他地域と異なる独特の最上流域文化。それがハプニングである。
しかし出羽で見聞きした事すべてが、ハプニングではない。
唯一の例外 それは塩越へのショート・トリップである。
江戸深川出立前から予定していた訪問地=象潟の奇勝は、松島と対比されて一層際立ち・全国的に知られた歌枕の地であった。
酒田滞在の途中、巻いていた歌仙が一段落する前に3日ほど中座して出かけている。
塩越・象潟は、現・秋田県にかほ市のうちだが。明治になって律令以来の国界が、羽前・羽後に分割され。そのまま秋田・山形の両県になった。