北上川夜窓抄 その12  作:左馬遼 

北上川が、岩手県の境界南端に位置する一関市を離れると、もう大崎平野だ。そこは宮城県つまり下流域である。
大崎平野は、仙北平野とも呼ばれる。
稲穂うな垂れる穀倉地帯だが、そうなったのは、厳密に言えばごく最近である。
水田と言う言い方があるとおり、本来水稲の育つ環境は氾濫原か遊水池のうちにあった。中には舟に乗って、舟から手を差伸べて。田植えしたり・稲刈りしたりの湿田がある。
ひところそれが日本国中のごく当たり前の風景でもあった。
この地にも、三年一作なるコトバがあるらしい。
それほどに、この地もまた、豪雨の年に洪水が襲って来て、生き残りをかけるほどに、日常化した低湿耕作地であった。
その大崎平野も近年圃場整備事業が進んで、乾田化が成り。トラクターの導入によるササニシキの栽培が一世を風靡したことがあった。つい先日成就したばかりだ。
過去はさておき現在はまだ良いとしておこう。
近未来には、新たな懸念が焦眉の急に迫っている。
迫る明日は、高齢化と少子化による地域過疎化の更なる進行と農業放棄地の拡大による地域の衰滅を畏れるばかりである。
我が身に限ろう。
「一里四方」、「身土不二」、「地産地消」などの箴言が浮かんでくるが、エネルギー&食・衣・住などを総括して『五里内自給』を貫徹したいものである。
エネルギー欠乏と言えば。過ぎた2011.3.11、地震津波被災地のガソリンスタンドに、長蛇の車列が張付いた、あの悪夢の映像を思い出す。
さて今日の話題は、蓖岳山<ののだけ山 標高236m。遠田郡涌谷町>である。
高名かつ話題豊富な地域であるから、件名タイトルを概説してみよう。
まず、産金地。次に、坂上田村麻呂。アトは、観音信仰の霊山聖地・涌谷(わくや)要害の主が寛文事件の主役?など。盛沢山にある。
現代から時間を遡るとして、簡略記載に努めよう。
まずは、涌谷要害。
主の名は、伊達宗重。仙台伊達藩の要害は、他藩で言う家臣の居城だが。寛文11・1671年伊達本藩に起ったお家騒動の訴人である。彼は伊達家一門の高位者だが、江戸板倉老中邸の裁断の場で。藩執政たる伊達宗勝(幼君藩主の後見人役)の手先=奉行(他藩の家老に相当する)・原田甲斐宗輔により、いきなり惨殺された。
一般にお家騒動の黒白判定は難しい。原因のひとつに「谷地騒動」があったとされる。
谷地騒動とは、涌谷要害主とこれまた伊達家一門の登米要害主(当初白石姓。当時の当主が伊達宗倫伊達宗勝の甥に当る)との間に起った所領争いのこと。
登米は、登米登米町のことだが。同じ字を使いながら、郡は”とめ”・町は”とよま”と詠み分けるから、面白い。涌谷とは眼と鼻の至近距離である。
登米は、幹川・北上川の畔にあって、江戸期舟運の中継港として繁栄した。しかし、鉄道網との直結が無いことがネックとされる。
”わくや”は、JR石巻線の駅名で。同線は海港石巻東北本線上の”こごた”を結ぶが、その中間にある。涌谷の街も蓖岳山も、南北を流れる北上川の支流=江合川と迫川とに挟まれており。氾濫原・遊水・沼沢池が、卓越する低湿地形の中にある。
要約して概述すれば。登米涌谷も。幹川と支流の差こそあれ、ともに洪水常襲地帯の中にあるごくフツウの田園都市である。
次なる、坂上田村麻呂
蓖岳なる地名の由来に、尤もらしい逸話がある。田村麻呂<758〜811>は、奈良・平安時代の武人だが。坂上氏は、本来渡来人系=東漢(やまとあや)氏の宗家筋つまり”氏の上”に当る。
征夷大将軍に任じられて来山した際、征矢を立て戦勝を祈願した。その矢竹が根を張り・竹林になったとか。矢竹は蓖竹(のの)とも言うが、果してそんな奇跡があったろうか?
3つ目が、観音信仰。
蓖岳山の大崎平野における宗教上の大きな影響力は、現代も失われていないらしい。
とかく、この地は、時間の流れが緩やかである。別に文化周圏論を持出さないが、悠々たる時間軸の共有は、人に備わる徳目のうちと考えたい。
蓖岳観音は、天台系の白山信仰だが。勧請時期は不明。中世そのままの古態・神仏習合を今に伝えるらしい。おそらく草創期に修験道が関与したであろう。
最後に、産金。
天平21・749年陸奥守・百済王敬福が900両(換算重量13kgとする見解あり)を献上した。
角川地名辞書の簡略図に”産金迫”なる地名が載り、産金遺品類も相応に備わるらしい。
後世ジパングと。地球規模で知れ渡った世界有数の黄金産出列島だが。
東大寺盧遮那仏(東大寺金堂本尊。聖武天皇<701〜56。第45代在位=724〜49>の発願、制作開始が天平17・745  大仏開眼会が天平勝宝4・752)の建造当時、黄金の国内産出は未だ知られていなかった。
聖武天皇は、ほぼ諦めかけていた大仏鍍金の夢が叶う事となり、有頂天になったらしい。
それで百済王敬福は、急遽中央に呼戻され。宮内卿に昇進した。
以下は余談だが、当地の産金があり得ない事を照明する=それは容易でないことであろうが、かと言って、短期間に大量の産金が可能な土地とも思えない。
当時の蓖岳山は、小田郡に属し。陸奥国の北端つまり国境地帯であった。
しかし、民族観念・領土概念が現代と異なる上古・古代には、域内・国外に混住する蝦夷相互間の物資流通・交易は容易かったことであろう。
この場合に蓖岳観音の果す役割は、神在月を標榜する出雲と同じく。有徳者が、定期に集合して、探鉱情報や掘出した金属類を交換する場でもあったか・・・そう考えれば、蓖岳観音が、蝦夷が居住する東北地域に広汎に及ぼす役割が見えてくる。
纏まった量の黄金を集積する条件は、それで備わる。しかも土地で、「のの」とは、神を示すコトバであるとの伝承もあり。古くから霊山聖地であったらしい。
百済王なる称号を持つ国守、これまた妙だ。列島の中に、他国王の称号を名乗る律令高官が、存在したとは不思議?にして、大らかではある。
宮内卿百済王敬福は、後に河内守を兼ね。その地(現・枚方市)に、百済寺<国指定特別史跡>を建立した。
彼は、続日本紀や寺伝によれば、滅亡後に百済国から亡命して来た,百済王族の末裔であった。
一族は、当時における金属知識先進地からの渡来人であり。黄金にくわしい達者な有徳層であったと考えられる。
上古・古代の有徳者に渡来人が多い。上述の坂上氏・東漢(やまとあや)氏が、朝鮮半島南部の連合小邦=加羅の出自であり。東大寺の造営を担当した僧・行基<668〜749>が百済系で、百済王敬福と半島地縁において近い。
坂上田村麻呂征夷大将軍に据えて蝦夷派遣の節刀を授けた・時の桓武天皇<737〜806。第50代在位=781〜806>は、生母・高野新笠<720?〜90>がやはり百済出自の高野朝臣氏(旧名称が和史氏=やまとふひと)である。
和史氏一族が、渡来した時期は、おそらく河内王朝が創始された5世紀の中葉頃で。百済国が滅亡に至る200年も前の時期だが、対馬海峡を挟んで、故地との連絡は長く続いた事であろう。
共通の王族末流同志としての交際が、継続的にあったと考えられる。