もがみ川感走録第42  出羽路の芭蕉No.7 

もがみ川は、最上川である。
直前の稿で。芭蕉は「おくのほそ道」本文で俳聖の名を受ける程の文芸的虚構を駆使した。と述べた。
そのひとつが、須賀川と尾花沢大石田との『対比』による記述技法の展開であるとも書いた。
尾花沢大石田なる言い方は、筆者の造語であり。1つに括ることで、須賀川と1対1で対比しやすい存在に仕立てた。
”ニュウカップル街区”と呼び・1個の地域であると認識してもらいたいが、芭蕉が訪れた江戸時代初期の終り頃は、ツイン・タウンとして一層相互補完の関係にあったと考えたい。
とまあ、高尚な文芸作品を、このように分解?アプローチする理解の仕方は、文化的に邪道なのかもしれないと不安を抱きつつ、今日の稿を始めたい。
今日は、『対比』の道に更に踏込む。
出典は、前稿に引続き岩波文庫に拠る。
「おくのほそ道」本文&曾良旅日記&同・俳諧書留の3本を引用し。以下に抜書き並書する方法とする。
  <>内の数字は該当頁である。
  〔〕内は、太陽暦による暦日である。
但し、俳諧書留に欠落している「歌仙」についての別資料出典は、後段に略述することとした。

 本文   曾良旅日記    俳諧書留より「歌仙の発句」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
須賀川  4月22〜29日  俳1=「風流の」三吟歌仙
発句2句 〔6月9〜16日〕 会1=「かくれが家」七吟歌仙
歌仙3巻   7泊8日    三つ物ども=三つ物2?・四句1
<22頁>   <94頁>    <135頁>
尾花沢   5月17〜27日    無し。*別資料より2歌仙判明
発句4句 〔7月3〜13日〕  「すずしさを」五吟歌仙
大石田   28〜6月1日     「おきふしの」四吟歌仙
舟下り後  〔7月14〜17日〕   大石田につき、
の発句1句  累計13泊14日  「五月雨を」四吟歌仙
<44&46頁>  <108頁>   <140頁>

上記のとおり表にしてみたが。疑問が多々ある。
まず、2つの地域の滞在日数が、ほぼ倍ほど差があることに着目したい。歌仙1巻を巻くのに概ね2日間を要する例があるので、内訳滞在日数が最大の尾花沢において俳諧書留の中に歌仙記事が全く無いことが不思議だが。この欠落については 後段に略述する。
次に、須賀川において、本文に歌仙3巻と明記しながら。俳諧書留では2であるから、歌仙1が不足となる。
しかも、 「かくれが家」の七吟歌仙は、終った旨と連衆の表示がある。36句成就したであろうが・初句から4句のみ抜出し・他は『略ス』とあり。残り32句を欠く。興行日の表示もない。
更に、須賀川での俳諧と”しら河”・“白河関”と前書きされた単吟句=複数が、入組んで乱雑に書かれていることから、俳諧書留が曾良のメモ帳であった事情が知れる。
もっと細かい疑問もあるが、この程度に留める。
さて、実在した尾花沢歌仙が何故?俳諧書留では欠落したか?の謎もまた後段に略述する。
尾花沢歌仙2巻<仮称>は存在し、後世発見された。
その2巻の中に、芭蕉作とされる長句・短句がそれぞれ9句づつ登場するが。芭蕉全句集=2010年初版発行には掲載されてない。この本の訳注は、雲英末雄・佐藤勝明の両氏である。
筆者は、尾花沢歌仙2巻<仮称>の資料を、芭蕉俳諧学・尾花沢学派<仮称>から、ごく最近提供されて、その存在を知った。
尾花沢で興行された「すずしさを」の五吟歌仙だが。
初句は、本文に出現する発句4句の冒頭掲載句と同じで。参加メンバーは、芭蕉曾良・清風・素英・風流の5人
同じく尾花沢で興行された「おきふしの」の四吟歌仙だが。初句は、
  おきふしの  麻にあらはす  小家かな     清風
参加メンバーは、芭蕉曾良・清風・素英の4人となっている
ここで新登場の俳諧家2人=素英は村川氏・伊勢国武家・大淀三千風の甥。
風流(ふうりゅう)の方は、前出”全句集”人名一覧に見出しがあり。新庄の富商・渋谷甚兵衛。実兄に同地富豪・渋谷九郎兵衛。俳号・盛信(せいしん)との記述がある。
以上が、別資料により判明した尾花沢2歌仙の概要だが、都合全72句は、紙数制約上ここでは紹介できない。
この別資料のタイトルは、繋橋(つなぎはし)の名で、文政2・1819年頃刊行されたらしい。
しかも発見から刊行までの経緯が、また興味津々たるものがあるようだ。
須賀川で同行二人が宿にした等躬の家=相楽家に伝来したものを同地の石井雨考が発見し・幽嘯が写し取り・”繋橋”に収録し・刊行した。
ここでの疑問は。
まず、尾花沢で興行された尾花沢歌仙2巻<仮称>が、地元尾花沢に残らず。須賀川の相楽家になぜ伝来したか?と言う謎である。
次に、”繋橋”に掲載された芭蕉作の長句・短句各9句が、芭蕉全句集に掲載されないのは何故であろうか?と言う、現代の謎である。
これほど大きな謎となると、筆者には答えようがないが・・・・手がかりは指摘しておこう
○ 尾花沢歌仙に詠み手として参加した曾良が、俳諧書留に書き残さなかった背景は、曾良が記録係を務めなかったからであろう。
では、記録係を務めたのは誰か?だが。2歌仙に連衆として参加しつつ・現代中央の俳諧研究界では素性不明扱いの俳諧家素英であったかもしれない。
○ 尾花沢歌仙2巻が、尾花沢に未発見にして・須賀川の相楽家に伝来したことの背景は、下記のとおりである。
  * 清風の鈴木家と相楽家とは、共通要素が多い・・・
    俳諧熱心な地元素封家・養蚕家
  * 曾良が詠句が、2つの土地を繋ぐヒントとなっている
    蚕飼する  人は古代の  すがた哉 尾花沢=本文45頁
    蚕する  姿に残る  古代かな   須賀川俳諧書留135頁
  *  鈴木家と相楽家とは同業にして。ともに俳諧
    家としての交流もあったから、尾花沢2歌仙
    の記録写しが、相楽家に提供された可能性は
    大いにあったことであろう。
  * 最も残るべき尾花沢の地元鈴木家から未発見である
    背景は、同行二人滞在の時期、事業多忙であったと
    考えられる。
    それは、清風宅よりも養泉寺の宿泊数が多いこと
    5月25日大石田から俳人・川水(同地の大庄屋、
    高桑氏)が来るも、”連衆故障ありて俳なし”
    ・・・ともに曾良旅日記107頁
○ 資料”繋橋”の存在について、現代中央の俳諧研究界が
  知識がないと考えられないこともないが。
  フツウに考えて、あり得ない。
  無視しているとしたら、その背景が何なのか?
 ・・・・・・・・・・・・・・・
注:本文中の仮称は、筆者が提唱したものだが。尾花沢歌仙2巻<仮称>の資料は、芭蕉俳諧学・尾花沢学派<仮称>の主柱的研究者である梅津保一氏から本年7月送付され、併せて遠隔地間指導を受けたことを。ここに記して感謝の言辞とする。
注2:芭蕉俳諧学の現勢についての基礎資料を、酒田在住の朱鷺先杖氏から送付され、併せて遠隔地間指導を受けた。記して感謝の言辞とする。

芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)

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芭蕉全句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

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おくのほそ道―現代語訳/曽良随行日記付き (角川ソフィア文庫)

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