もがみ川感走録第43  出羽路の芭蕉No.8 

もがみ川は、最上川である。
出羽路の芭蕉シリーズも、いよいよ第8稿となり。そろそろ上がりである。
出羽路の芭蕉は、陸奥路の芭蕉よりも。滞在時間が長く、各地で同門俳人に招かれ、多く歌仙を巻いた。
そのことは、当時の出羽人が遠来の客に憧れることが多く、芭蕉一行を珍しがって厚遇したと解せないこともないが。
正確に辿れば、出羽人が。京都・大阪・江戸で流行しつつあった、俳諧俳諧連歌について。適確な知識を持っており、言わば趣味・道楽と考えられる歌仙興行に参加する意欲を、より強く備えていたことを意味する。
歌仙興行と一口に言っても、時代環境も社会事情も異なる現代から想像して。場の状況を正しく解ることは、難しいが。
封建制度下の身分規制厳しかった江戸の初期、それも元禄の初め頃。戦国の荒々しい気風も、ほぼ消えつつあって。前代の遺風として、僅かに残っているくらい。
そんな中で、横割りの壁とタテ階段の固定化が落着き始めた分割藩領の中で。社会横断的に職業と身分の垣根を越えて、人々が一堂に会する場。それが俳諧宗匠の家であった。
宗匠と言えば、聞こえは良さそうだが。長唄・三味線などと同じ、遊びごとの師匠格だから。さしたる社会必要度も乏しく、浪人中の生活費稼ぎ。誤解無しで言えば、現代のサラリーマンが失業して。一時的にタクシー運転に従事するような境遇と言えようか?
浪人と言えば、武士出身者に限定する表現だが。さして厳密な要件ではない。ただ、長唄・三味線と異なり、俳諧は「ことば&文字」をベースにした遊びだから。幼少時からしっかりと漢籍を習わされる武士階級と。それが無い・武士以外の階層・職業出身者とでは、言語の蓄積において段違いに較差があった。
現実的に武士階級から出た者が、俳諧宗匠としてより相応しい。
芭蕉は松尾なる苗字を持ち・伊賀の郷士の子に生まれ、宗匠として立った。
おくのほそ道の旅に同行した曾良は、信濃国諏訪の高野家に生まれ。岩波家に引きとられ、伊勢国長島の寺に転じて育ち。やがて幕府巡検使の一員となり出張先の壱岐島<現・長崎県の離島>で亡くなるが、河合姓を名乗ったから武士であったろう。宗匠であったかどうかは不明。
同行二人を厚遇した清風は、先祖が武士であったとする家伝があり・鈴木の苗字を持っていた。尾花沢の地で、俳句宗匠を勤めていた。
次に門人だが。俳諧修行は、表向きの看板で。そこに出入りする身分階層の低い町人達が求めるニーズは、極めて多種多様であったらしい。
町方商いで小銭を貯え・資産形成を果した一応の成功者の多くは、職業外・商売外のより広い世間を知りたい・手っ取り早く漢字を読む手ほどきを受けたい。と望んで、宗匠の家に気楽に出入りした。そこでは大人ズラを晒すことなく、漢籍の知識と漢字の素養を広げる事ができた。
「ことば&文字」指導を受ける、宗匠個人からと限る必要もない。
俳諧の場で知り合った武士から教えを受けたり・町人同士で教え合う。そんな職業・身分・年齢差を越える偶然の機会が多かっただろう。
戦乱が消え平和の到来は、経済的蓄積や向学心養成などの面で、町人層にも確実に変化をもたらした。
江戸期幕藩体制は、全国68州に300超の大名が配置される分国統治体制であるから。本来、身分規制だけでなく、居住・旅行の自由もまた無かった。
しかし、尾花沢の豪商=鈴木清風にみるように、京都・大阪・江戸の3大都市に、ふんだんに出入りしていたことが知られる。この点で、土地に緊縛された奴隷同様の百姓農民の生涯1度の伊勢参りとは、段違いであった。
出羽と陸奥とでは、俳諧に向合う姿勢に大きな違いがあるが、社会のありようにも差があった。
米澤・鶴岡・新庄の大藩知行地を除けば、小さい領地が混在し・その知行主もごく短期間で頻繁に入替わる出羽地域では、換金性の高い消費性農産物の紅花・青苧が、盛んに栽培され。自立度の高い富裕な農民が散見された。
他方陸奥サイドは、伊達・南部の大藩が固定的に統治した。農民層の近代的自立は、ついぞ見られなかった。ペリーが浦賀に来た、その同じ年に。南部領最大の一揆・他領逃亡が起っている。
コメ生産に不適合な冷涼な気象の地域にコメづくりを強制した藩庁の愚かさが、度々の飢饉・大量餓死を招き。農業社会の蓄積と着実な成長を摘み取った。
同じ東北でも、日本海側と太平洋側とでは、このように農作条件の差は大きかった。
その差をつくり出す要因は、何かと言えば?容易にこれだとする答を見つけることは難しいだろうが。
「やませ」がつくり出す気象条件は、1つの答かもしれない。
太平洋側の農耕地は、世界有数の好適漁場である三陸沖に近過ぎた。その同じ「やませ」の風が、脊梁奥羽山脈を越えた日本海側・内陸奥地=田沢湖周辺の農耕地では、稲を育てる。
夏場に吹く暖かい風=それはフェーン現象の成果であろうが、この地で唄われる民謡=生保内節(おぼねぶし)では、”生保内風(おぼねだし)をタカラ風”=稲を育てる風。と讃えている。
まだある。日本海側も出羽国辺すなわち最上川河口周辺から北側になると、沖合から沿岸付近に暖流が近づいてくる。
その暖流の名は、対馬海流である。
東シナ海は九州島の西南岸の沖で、黒潮本流から分流して北上する。
日本海つまりアジア地中海には、親潮のような優勢な寒流が存在しないので。優れた漁場の形成も無いが、最上川以北の西東北に貴重な温暖気象をもたらし。冷涼が原因で起る飢饉の頻度を緩和していると考えられる。
さて、少し農業環境への脱線が長引いたが、本題の俳諧交流の場に戻ろう。
最上川日本海を結ぶ水運結節ポイントの酒田でも、芭蕉は歌仙を巻いている。
遠隔地との交易が盛んな港町もまた、俳諧が盛んに行われた土地であった。
日本海海運と言えば、最近はすぐに北前船に収束するきらいがあるが。
芭蕉が酒田を訪れた時代は、未だ北前船前夜だ。しかし、類似の商いをする近海運送に従事する船頭や商売そのものは既に存在した。
この時代、物の値段は目まぐるしく変動した。利に敏い者ほど、相場情報の収集に熱心であった。
加えて、この時代貨幣の流通は、地域差が激しく・複雑であった。
江戸経済圏は、参勤交代の始まりとともに急速に拡大し・同時に金本位制の流通する範囲を広げた。他方、人口重心に位置し。京・大阪を抱える関西経済圏は、伝統的に銀本位制であった。
つまり、基軸貨幣を金とするゾーンと銀とするゾーン。圏域別複本位制であったが、一国通貨圏に安住する現代人の我々にはついぞ納得しがたい複雑さだ。
実はまだある。藩ごとに藩の中で使用を強制された「藩札」があったし。全国に通史的な補助貨幣である「銭」もあった。3乃至4つの複式多重貨幣制度が、当時の現実であった。
更に追い討ちをかけるが。基軸貨幣と補助貨幣の「銭」との交換比率は、地域により・季節により、変動した。
こうなると、もう殆どユーロ制定前の欧州を旅行するように面倒だが。
実体経済がそんな時代だからこそ、商品情報・貨幣交換情報を仕入れする場として、各地の俳諧宗匠に出入りする遠隔交易商人は多かったようだ。
もう紙数も残り少ないので、略述に勤めるが。俳諧の席は、意外の効用をも果すことがあったらしい。
遠隔・広域の商いを行なう大商人ほど、大名が支配する狭い地域を越えて活動したから。
より上級者の権威に縋ろうとする仕掛を求めた。
公家出入り商人の看板・高札を欲しがった。
そのキッカケを作る場が、俳諧の席であったとする見解がある。
意外だが、その背景は下記のとおりだ。
俳諧の歴史的・詩歌的源流は、和歌である。
江戸期の1つ前に、俳諧連歌の宗祇が活躍した中世俳壇があった。
彼は「古今伝授」を求めた事で知られる。
和歌の雅びは、京都公家が独占する公家の家業でもあった。
その律令的権威に縋りたいと考える商人サイドは、俳諧宗匠を通じて・そのか細い伝手を頼りにしてでも、公家の窓口にどうにか辿り着きたいと考えた。
公家の家格は、武士のそれよりも確かに高かったのである。
そのような筋道を伺わせる物証が、各地の豪商遺産に散見される。
この芭蕉出羽路の旅は、出羽三山に登山参拝し・最大の景勝地象潟を訪ねることをもって、ほぼ終る。
このアトも。日本海側の沿岸を敦賀まで、南下する旅は続くが。
紀行文らしい文章は、ほぼメモ程度のヴォリュウムまで後退し、ただ多く発句を羅列する。そんな体裁に急変してしまう。
唯一例外として後に蕉風俳諧が興隆した土地として、加賀の金沢が目立つ。
ほぼ越後国以南は、早足で通り過ぎてしまった。