北上川夜窓抄 その20 作:左馬遼 

今日は、南部〇〇を探ってみたい。
ナンブなる呼び名が冠されるモノが世にどれほどあるか?覚束ないが・・・
ナンブ・イメージで浮かぶのは決まって、大ぶり・武骨一辺倒。そんな感じだ。
それは,何処に由来するのか? 明確にできないが。
例えば,青空の色が薄い・やや肌寒い・短い夏であったり。
圧倒される大きく・動くものから来る人間サイズを越えたスケール、馬を育て・ウマとともに暮らす日常から生じる感覚だろうか?・・・どことなく違和を感じてしまう。
さて、南部煎餅に馴染んだのは、何時からだろうか?
幼年〜少年期だったか?それとも社会に出てからだったか?記憶がはっきりしない。
1枚で十分に腹に応えるボリュウムが、圧巻だ。
味つけの方も、さして甘くないから。お菓子の感じがあまりしない。
質・量ともに、実用一点に絞り込まれているようだ。
その辺にこそ、武骨一辺倒の匂いが染込んでいるかもしれない。
げんに、未だ体験してないが。「せんべい汁」なる汁調理メニュウがあると聞く。
耳学問だから、大きな勘違いがあるかもしれないが・・・
状況はこうだ。
不意の来客来たり。飯は何とか、あるもので間に合わせたが。
あいにく、具材が切れてしまった。汁が出せない。
そこで、「せんべい汁」登場だ。
汁碗にお湯を注ぎ、塩と醤油を客の好みにあわせて増減する。
最後に具のかわり?である南部煎餅を、1枚すべり込ませる。
インスタント・ナンブスタイル・スープの完成である。
汁がない食事は寂しい。しかし「せんべい汁」は、曲がりなりでもあるにはあるのだ。
考えようによっては、変形のお雑煮だ。ソウメン入の汁よりも豪華で、感じがよい
器量も機転も、ともに女の実力のうちだが・・・「せんべい汁」のルーツは、野戦食糧にあるかもしれない。
これは、ある日。道明寺を食べていて,フト思いついたこと。よって、どれほどの根拠もない。
決着に至らない著述に、あれこれダッチロールを厭わず・やみくもに挑戦したがる。しかも独断と偏見の展開を好む。それがこの筆者にある困った傾向だ。
以下は、結論が見透せない南部と河内の関わりについての愚考である。ともに地名だが型どおり抑えておこう。
南部は、盛岡南部藩領圏域(旧・陸奥国のうち)を指し。対する河内は明治初年まで続いた旧国名河内国を言う。
先に「道明寺」を食べると書いたが。現在の道明寺は、大阪府藤井寺市にある尼寺だから食べられない。
食べられるのは、「道明寺・粉」または「道明寺・種」と呼ばれる糒<ほしいい=乾飯>。
筆者が好んで食するは、その生地で桜餅にした菓子だ。
現代ではもう忘れられたが。本来の『糒』は、糯<もち>米を蒸して乾燥させ・粗くひいたものを言う。その状態にして携行し、食べる時に水に浸すか・湯をかける。
往事は簡便な旅行用携行食・軍事用食料として利用された。
こう書いてくるとその効用において、なんとなく「せんべい汁」と繋がりそうだ。筆者だけの思い込みではないような気がする。
ここでは、道明寺が、あの菅原道真の祖族=土師<はじ>氏ゆかりの古刹であることには触れないし。その菅原道真が、加賀前田氏の遠祖であることも語らない。
残された紙数で、急ぎ語り抜けるのは、南部と河内の関わり・そしてその間を繋ぐ存在たる甲斐の国についてである。
さて、河内国藤井寺を過ぎて、更に南下すると。「近つ飛鳥」を経て、道は高野山に至る。
紀伊半島は、日本通史的神聖ゾーンなのだが。
大河内圏域<古く凡河内=おおしこうち1国であったものを分けて摂津・和泉・河内の3国とした>に限れば、四天王寺大阪市天王寺区>から始まって、百舌鳥(もず)古墳群<大阪府堺市>を経て、近つ飛鳥<大阪府南河内郡河南町>に至り。そこから国(県)境を越えて、紀伊国和歌山県)に入り高野山、更にその南に熊野神域がある。
気になるのは、近つ飛鳥<ちかつアスカ>。
その地の大阪府立・近つ飛鳥博物館は、正式名称として採用するが。「近つ飛鳥」・「遠つ飛鳥」は、ともに実在しない地名で。古事記履中記事の中つまり文献中に、2つ並んで唯一登場するのみだ。
遠つ飛鳥の方は、奈良県高市郡明日香村である。1976年公布・施行の古都保存法により、村域全体が歴史的風土特別保存地区に指定されたが、本稿での採上はここまで。
近つ飛鳥の地は、奈良・大阪の府県境を成す二上山葛城山の西側斜面であり。聖徳太子に連なる一族の墳墓が集中することから、”王家の谷”なる呼び方もされる。
王家の谷に眠るのは、敏達帝・用明帝・廐戸王の3名<河内磯長陵(後世の改葬を含む)に>と推古女帝<河内磯長山田陵に改葬された>の都合4名だ。
いずれも日本書紀の記述だが、全員実在性が疑わしい。
他方、河内源氏なる辞がある。
武家の棟梁を成す家系を誇る考えだが、源家に限らず多くの名門武士は、系図をねつ造して?家系上の始祖を多く特定の天皇に帰している。結論を急げば、いずれのケースも史実と認めがたい。
征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、河内源氏三代〔頼信・頼義・八幡太郎義家〕を彼の直系家祖に据えた。権力中心である都と離れた土地=鎌倉に活動拠点を置いた頼朝の新規な工夫は、それなりに評価できるが。にもかかわらず、鎌倉源氏は三代(頼朝・頼家・実朝)で血脈が途絶えた。
武家は、実力行使に拠る中世アジールを前面に押し立てる実存型の集団であって、形式的な家系などを誇る存在ではないし、征夷大将軍職もまた源家が独占すべき役職でもない。
倭漢氏(やまとあや)の宗家筋である坂上(さかのうえ)家の田村麻呂の職位もまた征夷大将軍であり、時代がより早い。
さて、この羅列は何のためか?
古代王朝権力ファミリーと中世に飛躍する武家集団との間に、どんな繋がりが?
その答は、末尾に一括して述べることとしたい
古代王朝の最有力権力集団は、「遠つ飛鳥」に存在した飛鳥王朝である(仮の呼名だが)。蘇我氏や倭漢氏や坂上氏などは、そのグループに連なる戦略構想・武力行使を担う集団であった。
対する聖徳太子ファミリー(敏達大王・用明大王・推古大王・廐戸王・山背大兄王などから成る)は、河内王朝としておこう。
上古でも更に一時代遡れば。継体大王を初代とする越前・近江王朝の存在が指摘される。
王朝の前に固有の地名を冠する呼び方は、果して許される考え方だろうか?これまで有力だった記紀神話に立つ「万世一系」王朝では、一切の修飾表現は無駄なのだが・・・
中世は鎌倉政権崩壊後に。南北二王朝の並存期間が長かった時代がある。と言う具合に「万世一系」のタワゴトは一挙に覆る。
律令体制を完成させた天武・持統王朝は、天孫降臨天照大神伊勢神宮などの功妙な神話まで創造して。傍系血筋を排除し・祖母から男孫へと苦労して、直系血脈を繋いだが。称徳天皇女性天皇聖武天皇の娘)に全く嗣子が無く、あえなく断絶した。
修飾表現を冠した王朝は、男女を問わず直系血族が絶えることで断絶する。それこそが洋の東西を問わず共通の認識である。
否定さるべきはまだある。
父系原理だけで血脈・親族の正統性を論ずる考え方は、近代的理解の産物でしか無く。上古から今日まで不変の価値観ではない。
男女同系原理こそがグローバル原理である。
天武・持統王朝の断絶により、天皇の位に復活した家系は。天武・持統によって武闘・流血で滅ぼされた、天智大王と大友皇子(=父と息子)の血族末裔であった。
とまあ、長い脱線だが。本筋に戻ろう、先に河内王朝の面々は、いずれも歴史的実在性を疑われる人物だ。と、述べたが。
詳しくは、下記の著作を参照されたい。
大山誠一編の『聖徳太子の真実』(2014平凡社刊)
この著作から、聖徳太子の実在性を抽出すると。3つある。
1 日本の王権を象徴する存在として・・・奈良時代まで、疑いもない絶大な権威であった
2 観音菩薩の化現として日本に垂迹した
3 日本仏教の開祖として   
 2と3は、浄土真宗における太子信仰。著者は脊古伸哉
さて、この稿は北上川に絡めて盛岡南部氏を論ずる事がテーマであるから。聖徳太子の実在を否定する立場に立ちつつ・ここで一挙にまとめに移る。
聖徳太子ファミリーと武家集団とを繋ぐ回路または地縁的脈絡としての河内〜甲斐〜陸奥南部を指摘し・許容性を疎明したい。
この前提にある考えは、万世一系を反史実として否定する立場であることは言うまでもない。
連繋回路疎明の第1証拠は、なんとウマである。
太子神話とも言うべき、伝承の中に。甲斐の国から献上された「黒駒」愛馬説話がある。
このウマは、太子を乗せて富士山頂まで飛翔しており。天馬ペガサスのような奇跡を起こす存在であった。しかもこのウマは太子の死去に際し殉死した。そのため中宮寺の近くに駒塚古墳<大和名所図会・所収>が造営され、太子の舎人(従者)であった調子麻呂が、墓守になったと言う。
なんと、その調子麻呂の子孫から顕真なる名僧が出たと言う。顕真は、鎌倉期の法隆寺学侶僧だが。「聖徳太子伝私記」なる法隆寺に伝わる秘伝書を筆録し、法隆寺の再興に寄与している。
さて、太子の墓所が河内に・その活躍の場は大和・愛馬の埋葬された古墳が大和に・そのウマの産地は甲斐の国で。と、並列すると。馬産地の甲斐とこれまた馬産地の陸奥南部を支配する盛岡南部氏との地縁関係が浮かんでくる。
その南部氏だが、甲斐源氏の末流であり。甲斐源氏の祖とされる源義光河内源氏三代の子に当る頼義の3男、新羅三郎とも言う。実兄義家の八幡太郎になぞる通称?)は、河内と連なることに着眼したい。甲斐の地を仲立ちにして河内の地と陸奥の地とが結びつく。
実を言うと、河内の地と陸奥の地とが結びつく例は、他にもある。詳しくはこの北上川夜窓抄・その12を参照されたい。
聖武天皇の治世、我が国最初の産金に関与した時の陸奥国守・百済王敬福は、他国の王の名を自らの名乗りに使う妙な氏名を持つ特異な技能者だったらしい。後に彼は宮内卿河内国守に就任しており、ここでも百済〜河内〜陸奥の間に何らか深い繋がりがあったことが伺える。
最後に、青森県三戸郡などにある「せんべいおこわ」なる地方色豊かな食べ物を紹介しておこう。
赤飯を南部煎餅でくるんだものだが、かつては田植えや稲刈りの農事繁忙期の「こびる」として。つまり、手伝いに農場に出た多数の人に提供された、昼食まがいのインスタント的食品であったらしい。
ここにも陸奥と道明寺を繋ぐような当為・即座の工夫、河内と陸奥に共通する風土のような何かを見る気がする。