北上川夜窓抄 その14  作:左馬遼 

北上川に因む人物編に入る。
北上川の最上流部に当る旧南部藩領からは、多くの政治家を輩出している。
軍人からスライドした行政府のトップ経験者であり、政治家の範疇に含めるべきか?大いに疑わしいが。旧憲法下の一特徴であり、恥ずべき史実の一端と見る立場もあろう。
しかも敗戦の責任を問われたのは、総理大臣・陸軍大臣・陸軍参謀総長を兼任した一人だけだった。それも戦勝国連合軍が行なった極東裁判の場での事であって、過ぎた戦争に対して日本サイドが自主的に”総括した”事実はない。
君主密着軍事統帥独裁制度とも言うべき無謀な暴走を抑止できない統治構造を一度も総括の場に引出す事も無く。悲惨な戦争が再発する事を防止するための見直しもまた怠ったままだ。
破廉恥ながらひたすら経済面の復興に邁進した。その結果、地域なり民族なりの柱となるべき道徳を持たない。つまり秩序らしきものを欠く変則的な戦後時代が続いて来ている。
その結果、自立した権利義務観念に立つ健全な市民が主権者意識を持って参画する市民社会が未形成のままである。
憲法は、主権者意識を持たない政治的に未熟な時期に、ごく短期間をもって制定・施行されたが。掲げられた平和の理想は、道徳的にも理念上も世界をリードする先進性を持っていた。
そのことが作用して。ごく短期間をもって奇跡の戦後復興を果し、憲法に護られる日本人は安全に海外旅行ができた。
しかし、他方、まともな憲法理解に達する事がないまま、徒らに時間のみが経過した。
護憲に見合った実質行動が欠落する社会に、全うな民主主義は育たなかった。
憲法の権能は多々あるが、民主主義との関係で重要なのは、行政府の権力行使を規制することである。
戦後憲法を踏まえて下部法が制定され・旧憲法下の法規が改定施行されたことになっているが、それはタテマエの事に過ぎない。
個々の条文チェックに携わったのは、戦前・戦中の君主密着軍事統帥独裁制度を謳歌した実務官吏であった。軍部と結託して横暴を振い統制強権を体験した彼等官僚が、自らの権限を狭めるような手直しする事はなかった。
上位法にして基本法たる憲法憲法の下部に立つ多くの個別法規との間に、秩序の矛盾・対立が温存されたままの奇妙な法体系が固定化した。
それは不道徳の固定化・非効率の放置を醸成した。結果として戦後70年経ってしまっている。
民主主義とは、文字どおり、法治主義に立って民意を先に扱い。行政を劣後的・補完的機能と考える政治・社会ルールだが。現実は官先民劣の人治主義が横行する低たらくだ。
明治政変にその根源を持つ現今の選挙制度・首班選出の仕組は、間接選出方式であって、国民の意志が直接に反映されない、いわゆる戦前から続く・古い・時代錯誤の・欠陥ある選出ルールだ。
市民の政治参加が、選挙と公道でのデモしかない=そのみすぼらしい現状こそが、まず見直されるべきであろう。
とまあ、やや長い脱線から立戻るとしよう。
さて、北上川に因む人物として、誰を採上げようか?悩んだ。
政治が頼れない今こそ、頼りたいのが”金”。 そうだ「お札」にしよう
よって、今日採上げる人物は、新渡戸稲造である。
1984年11月彼の肖像画を描いた新五千円札<D号>が発行された。
その後肖像画に初めて女性(日本史に実在した)を採用する企画が提案され。2004年4月新五千円札<E号>と交代した。
新渡戸稲造を描いた日銀券が新発された当初、あまり歓迎されなかった。
どうして,そうなったか?その背景を究める事は難しいが。一応トライしてみよう。
結論を要約して言えば。彼の経歴を短かく表現しにくい事。ドラマ性が乏しい人間像。この2点に尽きる。
歴史小説やテレビドラマに多出する人間像こそが、庶民レベル国民感情に訴える歴史人物であり。英雄物語を歴史と混同している、その低俗さから脱却できない処に極東列島社会の未熟さがあるとしておこう。
つまり新渡戸稲造・像が無名であったから、不評であった。のだ
残り紙数も少ないが、以下に型どおり。彼の履歴を略述する。
新渡戸稲造(にとべいなぞう 1862〜1933 教育者・思想家)
江戸幕末期岩手郡盛岡<現・盛岡市>、南部藩主の用人を勤める父の三男として生まれた。
幼少の頃から英語に馴染み、札幌・江戸=東京・京都・北米USA・欧州ドイツで留学・講義するなど研究領域に主軸を置いた経歴だが、思想家とされる背景もあった。
識見高く・交流範囲も国境を越えて広く・シマグニには希有な才幹と言えよう。
最も有名な事績は、「武士道」を著したことである。
1900年静養先の北米において英文で刊行された。
時代と情勢は。極東の小国が、遅れて自由貿易の世界にデビュウしてからほぼ50年が経過し。隣国の大国清国と戦争して植民地=台湾の割譲を勝取った直後にして・日露戦争の直前であった。この頃の事を国内では、国としての成長過程と捉えて前向きに評価する姿勢が圧倒的だが、果たしてどうであろうか?
アジアの国が同じアジアの他国を帝国植民地主義に立ち、軍事的強権をもって支配下に置く事=則ち西欧列強の真似をし・名誉白人自画自賛する世界観がどれほど薄ら寒い事か知るべきである。
事ほどさように欧米世界は、ニホン人なるものに大いなる関心を持っていたから。この初の日本文化紹介書は、瞬く間にベストセラーとなり。ドイツ語・フランス語版が相次いで刊行された。
因みに、邦訳版が出版されたのは、1908年のこと。また、岡倉天心にも英語著作物があるが、1903年以降の刊行であり、最も著名な「茶の本」は、1906年ニュウヨークで刊行されている。
新渡戸稲造を思想家とする背景は、この辺にあるとして。
彼は幼少期から英語に馴染み、早くからキリスト教に接した。
1877年札幌農学校に入学した歳、英国系プロテスタントキリスト教に入信している。2期生同期に内村鑑三がいる。かの有名なW・クラークは、既に帰国していたが。上級生=1期生から伝わるものは大きかったことであろう。
しかし、彼の学問遍歴は、農学分野に留まらなかったし。宗教的関心のほうも南部人らしい執拗さ?をともなっていたらしい。と言うのは、札幌農学校<現・北海道大学>を卒業して一時期北海道庁に採用されるが、間もなく退職。上京して帝国大学選科<現・東京大学>に進むも、すぐに退学。
1884年渡米、ジョンズ・ホプキンス大学メリーランド州ボルチモア>に入学(私費留学)したが、その地でクエーカー教徒と出会う。後に妻となる現地女性とはこの時出会っている。
筆者は、信仰や宗教を論ずるほどの背景を持たないが、西部劇映画に登場するクエーカー教徒は、特異なキャラクターを持つ少数派として描かれやすいようである。
日本におけるクエーカー、エスペラント運動と言えば、京都府綾部市がまず思い出される。この地で根強い世界連邦と平和実現の運動は、平和が則ち反戦・反軍思想とみなされ。特高警察から妨害訴追を受けた。所謂、権力が起こした犯罪だが、詳細な言及はしない。関心ある方は、末尾注を参照されたい。
言わば、転教だが。彼の信仰心の強さを物語る。「武士道」の著作にも反映したと考えたい。
その後、母校の教員に採用され、ドイツに官費留学することとなる。その地で彼は女性教育の重要性に触発され、家庭経済学を修めている。
新渡戸稲造を教育家とする背景がまたここにあるのだが。開国初期の欧米留学帰朝者にして札幌農学校<1887〜1901>・第一高等学校<1906〜13>。京都・東京などの各帝国大学教授<京大より植民政策を以て法学博士号を取得しているが、1901から台湾総督府に勤務しつつ2帝大を兼職>を歴任したので。彼から教育された教え子は国内に広く分布する。しかし、特筆されるのは、乞われて東京女子大学・初代学長<1918>、乞われて東京女子経済専門学校・初代校長<1928年設立 現・新渡戸文化短大>に就任した事である。
以上が彼の半生である。経歴も所属も一定せず転変著しい,多様性を備えた研究者だ。その背景に健康に恵まれず、時々休職したことが指摘される。しかしそれが結果的に著作活動を豊かにさせ、経歴を多彩なものにし、幅のある人間像を培っている。
1920国際連盟の設立に際し、事務次長に就任した(〜1926に辞す)。
当時事務総長を補佐する職位は、複数存在した。エスペランチストであった彼は、公用語採用を働らきかけたり。人種差別撤廃を提唱するも、国政の方向が偏狭ナショナリズムを志向していたため、実現したものは乏しかった。
1932いわゆる舌禍事件が起り渡米(身辺に及ぶ危険を回避して国外退去したもの)。日本が主導してこの年満州国を建国した。これが国際社会の指弾を浴び、孤立する事態となり。翌1933国際連盟を脱退した。
舌禍事件とは、日本国内で軍閥批判発言をした事を指すが、国勢は偏狭ナショナリズムに大きく傾いており。彼の立場・行動とは相反する方向に国勢は傾斜して行き、大破局に向かって猪突猛進した。
1933カナダ・ビクトリアで倒れ、帰らぬ人となる。太平洋問題調査会バンフ会議に、日本代表団・団長として参加していたが、会議終了後間もなくのことであった。
彼の言葉に、「太平洋の架橋にならん」がある。
客死したヴァンクーバーの港町は、北米大陸から日本へ渡る最短寄港地だが。ここでは、彼の本望が遂げられたもの。と思いたい。
最後に、彼の祖父=伝(つとう)から実兄までの新渡戸家3代に亘る三本木原開発事業を紹介しよう。
三本木原(南部藩領)は、現在の青森県十和田市に当る。
大規模灌漑施設の建設や河川改修などを中核とする地域開発事業だが、江戸後期に着手され。その後国営事業となり、戦後の1966一応の完成を見ている。
この家族を短い言葉で表すと、直情実行型で世渡りの下手な朴訥な姿が彷彿と浮かぶ。
それが、南部人の一側面であるかもしれないし、東北人に多いキャラクターと言えない事もない。
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注 梅棹忠夫・著 日本探検 71頁以下 講談社学術文庫2014刊