北上川夜窓抄 その11  作:左馬遼 

北上川に因む世界遺産と言えば、まず平泉であろう。
行政的所在地では、岩手県西磐井郡平泉町となる。
達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂など,非日常の景観が突如現れるかと思えば。毛越寺(もうつうじ)のように、何度訪れても現実世界からの離脱を味わわせる不思議な無常観が溢れる浄土庭園があるなど。平泉の異界観は、奥深い。
郡名には「い」を含み・町名には「いずみ」を含む。
この重なりに着眼した人が、果してどれだけいただろうか?
井戸や噴水の有難さが忘れ去られようとている現代では、気がつきにくい。
だがしかし、本稿は、『川』がテーマだし。
川の源流は、「井戸」であり・「泉」である。
世に4大文明とか5大文明とか称して、特集を打ち上げる某官営放送があるが。筆者には文明の大・小は、何を以て計るのか?文明の大・小を論ずることに何の意味があるか?すら,疑わしく。不思議ですらある。
ジャレド・ダイヤモンド氏によれば、地球上に判明している文明の”型”は、17だそうだが。
それだけの多様性を踏まえて考えると、文明間相互の”大・小”や”高・低”を論ずる事の次元の低さに気がつく。
更に話題は敷衍する。
高校日本史の教科書に溢れる政治臭くさい記事は、かつて臣民であった国民を国民国の構成員に仕立てる道具であろうが・・・
先進市民社会を形成する選良なる市民を養成する教材としては、まったく相応しくない・低いレベルでしかない。
大きく脱線したようだ
「井戸」・「泉」を持つ地名を列島規模で俯瞰しておこうと考えたのだが、その過程で偶然引っかかった「イワイ」なる地名から派生している。
言わば検証仮定で出逢った、森浩一氏の著書『古代史の窓』<新潮文庫・平成10年刊行>から教えられた。
森浩一(もりこういち1928〜2013日本考古学・日本文化史学)は、ヤマト政権・朝廷と大和政権・朝廷とを区分している。
用字・用語を使い分けする理由を掲げ<同書52〜3頁など>て、区分使用を徹底している。
同氏は、同志社大学の顔とも呼ばれた名物教授だったが。即物・現地のフィールドワークを徹底実践した研究姿勢であったらしい。
氏のような研究姿勢は、人類史・地球規模つまり時・空間制約なく通用する。
言わば世界で通用する学者だ。この国には圧倒的に少ない存在でもある。
このような偉材は、本邦ではキリスト教系ユニヴァーシティーに集中している感がある。
そのことは、この国の大学制度が世界の常識と大きく懸離れていて。官立系の大学が手厚い事と無関係ではなさそうである。
アト先を考えずに直言すれば、親方日の丸的な質悪く・数を誇るのみの大学風土。言わば税金を浪費する公金横領構造が見えるようだ。
とまあ、いささか脱線したが。
森浩一は、時々の政権にとって象徴とも言うべき聖なる ”井泉” 談として、4つの話題を掲げている。
1 三輪の磐井 三輪山奈良県桜井市>の麓で、雄略大王に敗れた御馬皇子の呪言
2  筑紫の磐井 高良玉垂命神社<福岡県久留米市=旧・筑紫国御井郡>の泉=岩井川源流
3 東国の岩井 平将門・石井の営所(根拠地)=現・国王神社<茨城県岩井市=旧・下総国猿島郡石井郷>
4 奥州の平泉 藤原清衡が拓いた柳の御所=律令期に磐井郡があったかは不明。現行の行政区分は頭書のとおり
”井泉”は、要するに飲料水だが。蛇口を捻るだけで容易に喉を潤せる我々現代文化人にとって、前代における井泉の基本的重要性を体感的に理解することは難しいようだ。
さて、雄略大王は、記紀史料上の第21代天皇に相当するが。文献批判の面から在位該当年次を割出す事は難しい。
水野祐が戦後提唱した,古墳時代の3王朝交替説に立てば。御馬皇子は、古王朝の支配層に属し。
中王朝に属する雄略大王とは,異なる血族系の皇統で。両人の間に、王朝の断絶があるとされる。
筑紫の磐井とは、井泉の名でもあるが、歴史上の人物名でもある。527年筑紫国御井郡を主戦場として行われた戦乱の当事者だが、ここでも森浩一は、通称=磐井の乱を退けて。継体大王磐井戦争と呼んで、科学的歴史観による中立性を貫いている。
因みに継体大王は、記紀史料上の第26代天皇。水野祐の3王朝交替説による新王朝の創始者に当る。磐井は、九州地域に根ざす独立国・領邦王の一人にして朝鮮半島勢力と交流ある最大勢力。敗戦後も一族は存続したらしい。
九州を論じる事は、現代でも固有の難しさがあるが。上代・古代は、ヤマト王権の成立や東遷の有・無をも含めて。多様な見解が輻輳する。
倭国の所在や邪馬台国の本拠についても,諸説簇生だが。対韓半島問題は、1910〜45年の日韓併合の厳しい現実もあって、正確な理解が難しい。
しかし、近・現代の国政観をそのまま上代・古代に遡らせる理解は、明らかに歴史的錯誤であり。回避されるべきである。
筑紫の磐井が存在した6世紀前半に限れば、列島統合的国政観や民族概念が確立していたとは考えられず。
対馬島を挟む対馬海峡の両岸地域の双方に、倭族と韓族が混住していたものと考えるべきであろう。
要するに、九州と後世ヤマト王権の首都を置いた奈良県域とでは、それほど地理観や大陸地域との距離観念が異なっていたに違いない。
最後に。ここに掲げた4つの”井泉”だが、いずれも歴史上のゼロスポットである。
つまり政治権力の舞台かつ軍事抗争の攻略要地を指し示す。再言すると、権力要人が口にする飲み水の噴出位置である。
後世になるとこれに、農業用灌漑施設にして物資輸送の舟運経路たる河川が加わる。
いつの時代も水を制する者が世を支配するとでも言おうか
  ・・・・・
出典 四つのイワイが示唆するもの アサヒグラフ 1991年6月14日号

古代史の窓 (新潮文庫)

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