もがみ川感走録第40  出羽路の芭蕉No.5 

もがみ川は、最上川である。
芭蕉は、おくのほそ道の旅を終えてから、「おくのほそ道」の本文を確定するために、5年を要したと言う。
本文確定に至る推敲の過程ごとに、その原稿が門人によって写しが作られたのであろうか?
各地に伝わった異本が発見される度に、現代に残る資料として、その都度後世の世間を騒がせて来た。
5年間と言う、念入りな推敲時間の長さから生じた ある意味人騒がせな事件の発端は、おそらくその辺にあるものと考えられる。
脇道にやや逸れるが、蕉門系の俳諧人にとって。「おくのほそ道」は、聖典のように扱われていた事が伺える。
さて、最上川芭蕉の関係だが。岩波文庫<出典=掲載の頁>によれば
  五月雨を  あつめて早し  最上川  
      <本 文         47頁>
  五月雨を  あつめて涼し  最上川 
      <曾良旅日記・俳諧書留 140頁>
17音=文字のうち,僅か2音=文字が異なるだけである。
これを1句とみるか?
それともよく似た2句とみるか?
実は筆者は、未だ答に達してない。
作者は、芭蕉であるから。答は芭蕉の胸の裡にある。
1句とみる見解は、おそらくこうであろうか?
後者が原句(=推敲する前の句)であり・前者が推敲後の完成句とするもの。
ここで原句が記録され現在に伝わった経緯を推定しておこう。
曾良旅日記・俳諧書留は、旅に同行(出立3/27千住 → 中間地8/4山中温泉まで。日付は旧暦。太陽暦では5/16 → 9/17)し。
各地で興業された歌仙の場に一座して句作に参加し、記録係を努めている。
曾良旅日記が、おくのほそ道の旅における曾良の旅行メモ部分。
俳諧書留は、同じ旅における曾良俳諧メモ部分。
序でに、このメモを芭蕉が知っていたかどうかだが。
存在を漠然と知っていても、その内容まで踏込んでなかったもの。と考えたい。
2つの句とする立場。
極めて似るが。作句事情が異なるから別の句と解するもの。
後世の我々は、後者が大石田歌仙の初句であることを、曾良旅日記・俳諧書留の前書文から知った。なぜなら、「おくのほそ道」本文には、大石田歌仙の事について、全く記述がないからだ。
あったことを書かないのは、芭蕉が狙った文芸上の創作であろう。
重複記事を省いたり・あえて虚構的事件をねつ造して、話題性をあれこれ繰出すことに腐心した背景が伺える。
これは余談だが。最上川舟下りの乗船地も、本文からは大石田と読めるのに対して・曾良旅日記には、本合海と明文があり。大石田 → 本合海間は、馬に乗っていることが判る。
極論すれば、虚飾こそ文芸性の高さであると思える程に、両者の差は大きい。
さて、本論に戻ろう。この2つの句の作句事情だが。
後者は、旅の途上の大石田歌仙の場での初句として、詠まれたもの。
メインゲストは、歌仙を催してくれたホストに対して、まず謝辞を述べるしきたりがあり。それで、初句は挨拶句とも呼ばれるらしい。夏の季節、その場が涼しいと表明することは、最上の褒め言葉であったらしい。
なお、大石田歌仙の段階では、同行二人は未だ最上川舟下りの船に乗っていない。
前者は、旅を終えた後、文芸上の完成型を残す作品に掲げる句である。
本文に大石田歌仙の記事がないのだから、後者の存在に捉われる必要は全く無い。
しかも、乗船を終え,旅を終えて帰国した後に。まず思い出す最上川のイメージを訴えるに相応しい句を、新たに捻り出す必要を感じたことであろう。
さて、1つか?・それとも2つか?
作者である芭蕉は、後世かくも高く評価され・細かい事情まで詮索されることになろうとは。おそらく考えてなかったことであろう
だがしかし、文芸作品まして,主に情動・精神作興に関わる俳諧紀行文などは、あまり講釈に耽ることなく。ひたすら心の感ずるままに・ただ味わうべきものであろう。
まして、設問し回答を求める発想自体が歪んでいる。と言えよう。仮に設問が許されるとしても、答を1つに絞り込む意味は皆無であろうと考えたい。
余談だが、俳句に臨む時 必らず上古・古代の無文字詩歌の時代に想いが及ぶ。
数年前、インドネシア・バリ島にいた。ウブドのクチャ・ダンスをみた夕べの情景を思い出す。
焚き火を囲んで一堂に会した人の数は、約百人くらいだったろうか。時に掛合い・そして全員で唱和する、リズムが一致することの意味は、観客よりもむしろ輪の中にいる当人たちが共有する感動であったに違いない。
その時、聴衆として。輪の外にいた筆者は、稲作農耕民であることの共通性を再確認しつつ、古代歌謡を思い出していた。
  浪速津に  咲くや此花  冬ごもり
      今は春べと  咲くやこの花
  八雲立つ  出雲八重垣  妻籠みに
      八重垣作る  その八重垣を
おそらく日本詩歌史上最も古い歌であろう。
その背景は、同じ言葉の繰返しが目立つからだ。
多くの人が、リズムを合せて唱和するためには。歌が示す意味よりも、簡単に覚えて音が揃う方が。全員の感動が、より大きいに違いない。
バリ島の宿に還る道すがら、その事を何度も繰返していたことを思い出す
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(注) 出典は、「おくのほそ道」岩波文庫版とした。
本文記載のとおりだが、コストパーフォーアンスと信頼性に基づく