北上川夜窓抄 その16  作:左馬遼 

北上川に因む人物を語るシリーズの第3編。
今日は、詩人にして近代の早い時期に国民的な人気小説家として知られた島崎藤村を採上げる。
一時期教職にありながら,反道徳とも言うべき男女の問題を起こし。
後日それを題材とした私小説的作品を発表している。
これ等は広く知られた,古い常識だし。その後新しい事実の発見も無い。
よって、以下に型どおり略歴を記載し、読者の検索の煩いを除く事としたい。
島崎藤村(しまざきとうそん 1872〜1943 詩人・小説家)
旧・中山道・馬籠宿で、本陣・庄屋・問屋などを営む旧家の四男に生まれる。
10歳の頃、上京し。泰明小学校に編入・卒業<1881〜86>。
明治学院高校に入学し・卒業<1887〜91>。
第1期生であった。校歌を作詞している。
因みに、現・明治学院大学(在・都内港区)。創立者は、近代医学の導入に貢献した一人として知られるアメリカ人医師ヘボン(=J.C.ヘップバーン)。
在学中に、キリスト教に入信するが、後に棄教した。
1892〜93 明治女学校の教師
1893 「文学界」(月刊文学雑誌)の創刊に参画した(〜98に休刊)。
1896〜97 東北学院の教師・・・赴任先は仙台市
1897 処女詩集「若菜集」刊行
1899〜1905 いわゆる小諸時代=英語教師として長野県小諸市に約6年赴任
  この頃、写生文「千曲川のスケッチ」を書く・・・出版は、1912
1905〜13 東京に戻り、本格的作家活動に入る。新聞連載などで活躍
      この間=1913〜16フランスへ渡航 
1929 「夜明け前」発表
1935 日本ペンクラブ結成に参画、初代会長を務める
1943 執筆中に倒れ、永眠へ
以上が、簡略に徹した略歴だが。2〜3補足しておきたい。
若い頃は、詩人としての活躍が目立つ。「若菜集」は、ロマン主義を代表する詩集。
当時の国民に広く受入れられた。
『椰子の実』は、1936国民歌謡としてNHKから発表され。多くの人の口に上った。
この唄の成立事情は、よく知られるが。
詩人として親交あった、後の民俗学者柳田国男が、1899夏に滞在した愛知県伊良湖岬での体験を語った。
その話をベースにして、藤村が詩を作り。詩集「落梅集」(1901刊行)に収録。
その詩に着眼したNHKが、大中寅二に作曲してもらい。1936国民歌謡として発表した。
さて、彼の作品と彼の実人生とは、重なるものが多いと考えられるが。そのことと長野人としてのイメージもまた、強く重なるものがあるとする見解がある。
では、出身地とは、どのような根拠とプロセスをもって決まるのであろうか?
と言うのは、木曽・馬籠は、2005年2月までが長野県木曽郡山口村のうちであったが。現在は岐阜県中津川市となっているからだ。
いわゆる平成の大合併において、最も合理的な選択をしたことにより。越境併合が成立し、所属県の名が変ったものである。
国民的人気作家が、信州人である=過去の事実は変えようもないが。長年月が経過した時点で将来どう変っている事であろうか?
以上をもって、予定した原稿ネタは尽きているが、、、、、
島崎藤村が、北上川に因む人物としてよいかどうか?となると、これまた明快な根拠があるようで。いささか心もとない。
上述の略歴によれば、仙台時代なる1年ほどの短期滞在の事実はある。
だがしかし、その仙台が、北上川の流域と呼べるかどうか?これが課題である。
佐藤宗之が作った「青葉城恋歌」には、広瀬川は名を出すが。
北上川仙台市内から遠望することができようか?
あえて、強弁すると。
阿武隈川北上川とは、連結河川であるとする見解があるらしい。
その結節点は、仙台湾=海域ではなく。仙台平野の内水面=貞山堀である。
明快と言えるかどうかは別にして、これが根拠である。
因みに、貞山堀は、人工運河の連続。
貞山(ていざん)は、伊達政宗の出家号である。
最後に言わんとする事は、正しい答は1つしかないとする=いかにも日本的な拘りから解放されるべし。としておこう