北上川夜窓抄 その24 作:左馬遼 

北上川阿武隈川とは、仙台湾に沿ってその内側を通る淡水人工運河=貞山堀によって、結ばれている。
この2つの大河が、形づくる国を陸奥国と。つい明治の初年まで、詠んでいた。
一括りの行政単位としては、あまりに広大で。他の国の10〜20倍相当の面積を抱える、特大規模の国であった。
果して、その原因は何故か?
おそらく、その答は。陸奥の地に列島先住民である縄文人の末裔が、集中して住んでいたからであろう。
ただ、この場合、更にその北=津軽海峡の向こうもまた、縄文人の世界だが。律令王朝の為政者の知識の外にある世界=つまりアナザー・ワールドだから、北海道は存在自体が否定されていた。
北上川は、日高見川と書くべきだとする。見解に何度か遭遇した。
そこで、しばらく立止って来たが、このシリーズも終盤になると、いつまでも回避することもできない。
筆者は、地名・音韻・記号・言語に関しては、無知なる者すなわち素人だが。真似事らしいことを述べないと、済まないような状況になってきた。
筆者的音韻記号で、表記してみよう
    北上川       日高見川
   [kitakami〕    [hitakami〕
音声の数は、どちらも4個。
音声は、頭音1音を除けば共通である。
では、音声[ki〕と[hi〕の間に、通音関係が成立つか?
ここまでに、このシリーズを始めた当初から、長い探索の時間が経過した。
春日 [kasuga〕     [harubi〕
日下 [kusaka〕     [hinoshita〕
を見つけた。
〔k行音〕と〔h行音〕との間に、通音関係は成立つものらしい。
ところで、漢字は音声・情報を表す文字・記号である。
口から音声を発し、耳で受止める言語は、自然発生的にその地域に共有される伝達作法である。
原始・上古の日本列島にも,当然言語は存在した。その種類の数は多かったことであろう。
複数の言語が併存した列島だが、言語観念の中に、文字・記号の要素は無かった。
つまり、長いこと。複数の民族?・人種?から成る無文字社会であった。
後世そこに漢字なる文字・記号が招来した。漢字を扱う他者が渡来したのである。
漢字は、当然に音声を表しつつ・意味を示すことにも特化した文字であった。その点が、世界の他の言語と大陸中国の言語文化体系が根本的に異なる点であった。
漢字の示す文字の意味が判ってしまえば。異言語間に属する個人間で、コミュニケーションが容易に可能であった。
文字を書く『紙の発明』が、大陸中国で行われ・瞬く間に周辺国地域に拡大したことは、そう言う意義と必然があった。
音声は、主として口から耳へと伝える伝達手段だから、舌が見える狭い空間域が情報範囲である。
文字・記号は、手と眼を主な媒介器官とするから、空間の制限も・時間の制約も、ともに原則的に撤廃された。
しかし、大陸中国の周辺国地域には、それぞれの固有言語もあったし・民族に伝わる英雄叙事詩なる固有の史談が存在した。
音読み・訓詠みなる単語複音のテクニックは、周辺国地域のどこにも存在する。
人工的に創造された文字=ハングルは、表音記号だが。民族の固有語を記録するために、極めて科学的な合理性を備えた発明である。
列島にも日本語の音声を記録する独創的な工夫がある。
ひらがな・カタカナの発明である。
表意系と表音系の2系統記号を同時並行して操る特異な文化を携えて来た。
陸中国と地続きの朝鮮半島に、ハングルに先行して、固有語を書き表す漢字借用があったことが判明している。文献資料として「郷歌(ヒュインガ)19首」が残されている。
筆者はこれ以上、踏込めないが。我が国の万葉集・万葉仮名に先行する・類似表記型の半島バージョンであろう。
他方、漢字の本家・足元の大陸中国にも、四声・平仄なる辞語があると聞く。中国語に疎い筆者にこれを解説する力は無いが、おそらくアクセントに関する用語であろうか?
単字でも発声を使い分けることで、複数の意味を表すことができることになるが。中国語は、単字複義の言語体系らしい。
中国人同士でも、音声が異なる旅行先では、文字を紙に書いて確認しあうと聞く。これは想像だが、単字・複音・複義の言語であるからこそ、必要なやり方であり。方言・地方属声をクリアーする方法でもあるだろう。
かくも長い迂回探索であった。
要するに、北上川と日高見川は、重なる地理名として良かったのだ。
さて、日高&[hita〕は、朝日が高く昇る土地を指す。
日高見邦・日田・肥田・飛騨などで表記される土地は、ある時期の権力所在中心から見て、東の方向に位置した在地小邦権力であったと考えられる。
対する「日向」は、日高見邦と正反対の方角である西に位置した小邦権力であったし。その統治者は”日に向かう”を冠した卑弥呼<ヒミカorひみこ>なる名であったろう。
では、日高見邦は、何処にあったか?
答は、陸奥国のうちである。
後の東北地方であるが、そこは機構として国の構えを備えていたかどうか、判明しないが。列島先住民たる縄文人の末裔が集団居住していた。
列島中央政権は、当初「倭」であった。それがある時期から「日本」を名乗るように変った。
漢字に精通し・その理解が深まるに連れて、倭の文字をヒガシと詠んでみたり・大和と書き換えてみても。表意文字が示す本来の意味=コメ・ムギを作るチビで女々しい奴ら=を、払拭することは難しいと考えて、倭の表記を投捨てたに違いない。
因みに倭族は、対馬海峡の北と南の両側に住んでいた。しかも両側とも韓族との混住であった。
日本の文字が示す意味は、『ひのもと』。つまり陽が昇る東・東方である。
これ等のことから、かつて東北に生を享けた歴史学者が、倭が地域小邦=日本の国号を奪ったと主張することがあった。
高橋富雄&古田武彦の両氏とも、今では故人となってしまい。直裁に確認する方法は失われたが、筆者は万世一系など幻想的神話史観などに捉われない立場なので。一理ある見解であると考えている
さて、そろそろ終盤である。
日高を冠した文献上の歴史地名&現代地名は、圧倒的に現・茨城県に多い。つまり旧・常陸国は、陸奥国に接し・すぐ南にある。
常陸陸奥の間に、かの有名な「勿来関(なこそのせき)」があった。
この関の存在から、窺い知ることができることがある。かつての常陸は、倭民族と蝦夷の民との混住地域であった事実である。
ところで、過行こうとする2015年は、難民が急増し。人類史規模の困難が目立つ年となってしまった。産業革命以来の大矛盾が、一挙に表面化する事態と化しているらしい。
この場合、どちらか一方を難民視しているわけでないことを確認しておきたい。
それが証拠に、芭蕉の「おくのほそ道」から1句紹介したい
  笠島は  いづこ・さ月の  ぬかり道
笠島にある藤の中将・実方の墓所を訪ねたが、豪雨のせいで捜索を断念した。その断わりの句である
藤原実方(?〜999 平安貴族)は、小倉百人一首にも採られた・中古36歌仙の1人である。
彼は、時の一条天皇の前で、藤原行成と論争し・暴力沙汰に及んだ。そして、天皇から「歌枕を見て参れ」と申し渡されて陸奥に旅立った。
目的地に到着することなく、途次の名取郡笠島村<現・宮城県名取市愛島>付近で事故死したと言う。
この逸話は、左遷と見る見解がある一方で。経済的に貧しい実方に荒稼ぎの機会を与えた人事と見ることができる。
「歌枕」の地は、和歌が生まれる景勝地だが。一説に、砂鉄精錬のため自然林を皆伐したアトに生じた二次林相であるとする環境考古学の見解がある。
平安の頃、より経済的に豊かな陸奥に入って、物産を持帰ろうとする風潮が。平安の都に伝わっていたのであろう。
さすれば、勿来(なこそ=来てくれるな)のメッセージは、南から来て・北の物産を運び出す、定住しようとしない海賊行為の倭人に対して、蝦夷の民側から発せられたかもしれない。
現代の日本は、同化を果したので。コメづくり経済側がマジョリティーを制したものと、漠然に解しがちだが。今日北海道まで水稲栽培が可能となりながら、三陸沿岸から青森湾に抜ける北部岩手〜西部青森の地域は、コメづくりが未だにマイノリティーだ。
縄文的多様生物の恵みがもたらす、この地域の自然本来の豊かさは、現代ではひたすら想像するのみであって、格別の説得材料は乏しいのだが・・・
筆者は、後世的人口規模的結末をもって、事象の優劣判定を過ぎた時代にまで及ぼす見解に与しない。いわゆる勝てば官軍式偏見史観もまた持あわせない。
文化人類学では、多民族間に人種的優劣差を認めず・異文化集団間の文化高低を否定すると聞いた。
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この稿を書くにあたり、下記の著作を参向とした
人麻呂の暗号 藤村由加 1989新潮社刊
倭国伝 藤堂・竹田・影山3氏訳注 2010講談社学術文庫