もがみ川感走録第47  山形人その4 

もがみ川は,最上川である。
最上川に因む人物を繙くシリーズだが、今日は「月山」の著作者=森敦を採上げる。
森敦(もりあつし 1912〜89 小説家)は、平成元年に77歳で亡くなった。
平成も27年が暮れようとしている。彼の死後既に四半世紀を過ぎており、もう忘れ去られた存在と言えよう。
彼の実像を知ることは,今となっては難しいが。人によっては,強く印象づけられており。経歴からも・その作品からも、極めて個性的な生き方をした人物であることが知れる。
長崎市生まれだった森が、山形県庄内地方を転々と流浪したのは、彼の妻が酒田市出身であったからであろう。
彼の代表作を4つ挙げると、まず月山・鳥海山の2つがある。
この2つの著書名は,則ち庄内地方の各地を景観正面とする、庄内を代表する2つの霊山だ。
彼は、そのいずれもの麓の集落に滞在したことがある。時に妻が連添うこともあった。
妻と離れて各地を流浪した背景だが、おそらく妻が病体であったからであろう。
と言っても。彼が生涯流浪した地は、累計30ヵ所以上とされる。
常人の想像を超える頻度だが。山形県内には、1948〜62<戦後の昭和23=36歳〜オリンピック招致前の昭和37=50歳>まで、転々とした。
と言っても、この間ずっと継続して県内に居たわけでなく。東京新宿・奈良県の山村・三重県尾鷲市新潟県弥彦村などを経由しているから、概ね40歳台の14年近くを山形県内で過ごしたくらいの見当になろうか?
森敦が、世間の注目を浴びたのは、1971からの約5年間。妻と同居した東京近郊・調布滞在時代であった。
1973季刊芸術に発表した「月山」が、翌年第70回芥川賞を受賞した。
その時、年齢62歳。当時、最も遅咲きのベストセラー作家として騒がれ。TV・ラジオへの露出依頼が相次ぎ、多忙な日々を過ごした。
1974<昭和49>・3月&5月と相次いで、「月山」&「鳥海山」の2大作が、河出書房新社から単行本として刊行された。
因みに、鳥海山の名を冠した組曲が、縁故地=飽海郡遊佐町にある。作詞が森で、作曲&歌唱が新井満となっている。
この年、夫妻は、養女=富子を迎えている。
しかし、家庭の平穏は、長く続かなかった。明くる年の1975年4月妻・暘が、この世を去った。
夫63歳、妻57歳であった。
月山は、39歳の頃ほぼ1年に亘って滞在した東田川郡東村の湯殿山注連寺での暮らしを布石として著作したものと考えられる。
後にその縁で、朝日村第1号名誉村民<現・鶴岡市>を贈られた。
そうすれば、約20年以上もの懐胎期間を置いての作品化であり。その辺にこそ、異色の作家とされ、情熱的な愛読者が散見される理由があるかもしれない。
代表作の3つ目は、1984〜87の足掛け4年間、純文学雑誌の月刊『群像』(講談社刊)に連載された「われ逝くもののごとく」である。この著作は、完結後講談社から1987年5月単行本として刊行され。同年この作品で第40回野間文芸賞を受賞した。
代表作の最後は、「酩酊船(よいどれぶね)」を挙げたい。1934に弱冠22歳で、東京日々新聞に連載を持ったのだから。驚くほどの天才と言う他ない。
生涯の師と仰いだ横光利一から推挽されたことに尽きるが、受止めた森の大物ぶりが観てとれるようだ。
彼は、このデビュウ当時、檀一雄太宰治らと同人となり、同人誌「青い花」を立ち上げる。
そのことと、生来の放浪癖とが,当時どう折り合ったのか読めない。
創作意欲を刺激する面において、転々放浪する暮らしは,不可避であったかもしれない。
後に先立たれるが、妻とは、最初の奈良滞在時代に出会いを果している。昭和10・1935年当時17歳の前田暘は、奈良女高師付属高女に通う才媛であった。放浪生活が招き寄せた縁であったかもしれない
因みに森敦が滞在した湯殿山注連寺は、鉄門海上人の即身物があることで知られる真言宗名刹だが。境内に森敦月山文学碑がある。
以上が,かなり端折った森敦出世一代記である。
つづめて言えば。一高中退<在・東京。戦前の学制>のナガサキ男が日本列島のほぼ中央に当る奈良市で、サカタ女と出会い。ショウナイの地に一時流れて来ながら、やがて都(終焉の地は東京新宿区)で大きく花を咲かせた。
イッスン小僧の放浪記にして・開運一代記である。
出羽三山は、羽黒山湯殿山・月山から成るが。森は湯殿山<寺坊の山号>に住んで、出世大作「月山」を書いた。だがしかし、羽黒山を書かず浮気した。視界の対局にある出羽の富士=独立峰の美姿を持つ「鳥海山」を書いたのだ。
これは言わば。戦後の現代噺だが、上古の昔にも似通うストーリィがあった。
出羽三山を開山した蜂子皇子である。
こちらの出世噺は、6世紀の昔。戦乱の都=奈良は飛鳥・斑鳩〜大阪の河内・難波津を逃れて、遠く庄内の地に山岳信仰修験道場の一大ワールドを築いた。
遂に都に戻らなかった、都落ち貴種流離譚である。
さて、蜂子皇子(はちこのみこ 562?〜641? 伝承による生歿年)の父は、崇峻天皇<すしゅん なお6世紀は天皇称号が使われる以前の時代だ、よって大王号を付けて呼ばれるべきだ>である。その第3王子に当る。とされる
その母は、大伴糠手連の娘=小手子だ<ともに出典は崇峻紀>
崇峻大王は、587年。先帝=用明大王の没後に起った蘇我物部戦争の後、時の実力者=蘇我馬子によって擁立され大王位に就くが、592その馬子によって暗殺された。
生命の危機を逃れるべく蜂子皇子は、丹後国由良(現・京都府宮津市)から海上に逃れた。
上陸地もまた由良と言う。現在鶴岡市にある由良温泉がそれだ。
皇子がその八乙女浦の沖を通過しようとした時、渚の上に聳える岩の上で、8人の美女が音曲に合せて舞う姿に見とれて接岸。その後、3本足のカラスに導かれて羽黒山に達したと言う。
皇子の肖像画なるものが残る。はっきり言って異様な表情であり、とても人間に見えないと言う。
さて6世紀末年頃の開山だが、列島の山岳信仰・修験開基としては、かなり早い時期に属する。しかも、蘇我物部戦争の直後だから。中央権力が仏教受容と権力争奪抗争で、沸騰した時期でもある。
しかもこの時期は、聖徳太子が生きた時代とほぼ重なる。
その聖徳太子が実在しなかったとする最新の科学的歴史研究がある。その詳細なレポートは、大山誠一編「聖徳太子の真実」(平凡社2014刊)を参照されたい。
その研究書の中には、蜂子皇子らしき人物と詠める『波知乃古王』の名がある<141頁の系図。出典は、上宮記下巻注云>。
しかし、その父は、長谷部王となっており。生母が、大伴糠手連の娘=小手子(但し同音異字)と詠める。
さて、いよいよ最終コーナーだ。話題は,極めて複雑に入組んでいる。
結論を先に述べると、上述の『波知乃古王』は、崇峻大王の子でなく・聖徳太子の孫に当る人物となる。
ここのセンテンスは,筆者のものであって。著作者大山誠一は、明文表記してないが。
上掲書の146頁の記述から、当然に導き出されるセンテンスとなる。
著作者は、「古事記」の記事を受けて。崇峻大王に妃無く・子孫無く。「延喜諸陵式」を引いて陵地も陵戸もまた無いと。大王としての実在性を否定している。
次いで。では「書紀」の記事は、何を以て編集されたか?と設問したうえで、著作者の結論を披瀝している。
同名異人である聖徳太子の子である長谷部王の記事をそっくり借りて<「上宮記下巻注云」から>、崇峻大王にあたかも妃・子女があるように取り繕ったのであろう。と結語している。
聖徳太子の完全無欠性を信じ込まされて来た者の一人として、容易に納得しがたい結論だが。
聖人としての実在性の否定とその自然人たる存在とは別物であると考えれば、蜂子皇子は私人=聖徳太子の孫に当る人物として生を享けた事実は容認さるべきであろう。