もがみ川感走録第41  出羽路の芭蕉No.6 

もがみ川は、最上川である。
出羽路で芭蕉は、最上川船乗りの旅を味わっている。
同行二人は、スムーズに乗船するためか?俳諧仲間の地元大石田の豪商たちに、乗船を斡旋してもらっている。曾良が日記に書いていることだ。
しかし、「おくのほそ道」本文には、細かい?ことは一切書いてない。
前稿でも触れたとおり、乗船地は大石田としてある。が、曾良の申告どおり、本合海から乗ったとするのが事実であろう。
とまあ、例によって。「おくのほそ道」本文は、文芸的虚飾が多過ぎる。
その典型例が、大石田で歌仙を巻いたとする。本文記事であろう。
そこで本文記事をなぞりつつ、虚構が設定された裏事情?を探ってみよう。
”歌仙とは何ぞや?”をここで講釈するのもなんだから末尾に型どおり掲げておく。
ついでに出典と引用だが。前稿と同じく岩波文庫とし・該当の頁も添えた。
さて、最上川の河岸・大石田で、舟待ちをしていたら。思わぬ出会いとなってしまい、
『わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり』
<『 』内は、本文より引用した部分・・・46頁>
文庫版サイズで,僅か5行。大石田の記事の全てであり、短い。
にもかかわらず、”この地で「おくのほそ道」の旅の”風流は極まった”との感懐を述べている。
つまり意味するところは、おくのほそ道の旅の事実上の終了宣言である。
俳諧紀行文としての「おくのほそ道」は、このアトも新庄〜出羽三山〜酒田の各地 → 越後、越中、加賀、越前、近江の各国〜美濃国・終着地の大垣と続くが。
陸奥の旅が終わったことを、陸奥と出羽の境=中山峠から4つ目の出羽国内の地に当る大石田で、表明している。
それほど、陸奥の旅は、芭蕉にとって深い想いのあるものであったことが知られる。
ここで問題になるのは、出羽国入国後4つ目の土地で何故?と言う、懐疑である。
タイミングとして間延びし過ぎじゃないか?との疑念である。
しかし、想像たくましく考察すれば、尾花沢と大石田は本来1ヵ所とカウントさるべきであり・ともに事実上の出羽国最初の地であることが判明する。
残り2ヵ所、堺田<42頁>と立石寺<45頁>は想定外のハプニングから偶発的に生じた滞在地であるから、芭蕉の構想による旅の記録からは捨象できる場所だった。のであり。おそらく芭蕉もこの提言に理解を示すであろう。
しかし、捨象できるのは、あくまでも旅の記録においてのみのこと。封人の宿での視覚無しの聴覚と皮膚感覚で構成されるユニークな発句。それに山寺の聴覚が岩を貫く名句中の名句。
この2つの独吟句は、「おくのほそ道」の中の絶句であり。絶句を産み出すための土台をセットしたのが、旅のハプニングであると考えてよい。
その土台とは。
尿前の関では、「出手形」を持参せずに関所を通過しようとしたことが咎められた。加えて、人通りの少ない・中山峠越え険路で・大雨に見舞われた。
人災に天災が重なる疲労困憊から、同行二人は精神的に相当消耗したらしい。
そこで封人の宿にあえて2泊、ゆっくり滞在し、心身の立ち直りを図った。ユニークな発句は、ゆとりから生まれた“感性の新発見”であった。
立石寺への立寄りは、尾花沢から大石田へと直行するはずの予定行程から全く外れている。
尾花沢<44頁>での情報収集と関係者の強い勧めを受入れた結果のルート変更であろう。
松尾芭蕉・おくのほそ道文学館”の学芸員は、尾花沢の宿泊先・養泉寺が立石寺と同じ天台宗であると指摘している。
尾花沢人の勧告を聞き入れた芭蕉の柔軟さが、山寺に導き、最高傑作と評される絶句をもたらした。
尾花沢と大石田で計1ヵ所とする恭謙附会の理論構成?は、なおさら長たらしい。
一方は羽前街道の宿場として陸路の窓口であり。他方は最上川の河岸として水路の窓口。つまり、ともに交通の要衝にして隣り合う立地かつ相互補完の機能関係にある。
これに仙台・盛岡方面に抜ける3つ目の山越え街道を重ねることもできるが、「おくのほそ道」本文でデビュウしたあの”山刀伐峠<なたぎり峠>は、堺田 → 尾花沢直行のためショートカットした脇道であって、本来の街道ルートではないのだ。
以上が、ニュウカップル尾花沢大石田を立ち上げる根拠である。
さて、最後に芭蕉が展開する対比の文芸修飾術を紹介しよう。
キィーワードは、風流と歌仙である。
〔風流の初め〕と詠み上げて、「歌仙」を3巻も巻いた土地が、須賀川<22頁>である。
”風流は極まった”として、併せて3巻の「歌仙」を巻いた土地が、尾花沢大石田<44&46頁>である。
この対比に相応しい2つの宿場町には、もっと象徴的な共通の地勢事由がある。
それはともに、関所越えの麓にある大きい宿場町であることだ。
須賀川は、陸奥に入る白河の関のそれ。
尾花沢大石田が、陸奥から出羽に入る中山峠尿前の関のそれに当る。
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歌仙とは何ぞや?
複数の人物が一座して、交互に句を作り。一巻きの俳諧連歌とすることを言う。
その後明治になって、俳諧連歌連句と言うようになる。
歌仙を行うことを興行と言う。
5・7・5の17音<=長句>を以て1句とカウントし。第1句を初句と言う、興行主に対する挨拶句とすることになるが、このようなルールのことを式目と言う。
第1句に続く第2句=7・7の14音<=短句>を以て1句とカウントする。
長句/短句と連続し、36句をもって1巻とするのが「歌仙」で。五十韻・百韻まで詠み進む例もある。
歌仙の三吟・五吟は、句を作って歌仙形成に参画した人数がそれぞれ3人・5人であることを示している。
句を作る人は、前の句との関係を考え。後に出る句のことも想定して。式目に則って、自らの句を出す。
その場合、詠む対象は日常雑事を含めて何ら制限はないが、季語の重なりや季節の遡及などの制約がある。しかし、前の句と付かず離れず、全体としての調和を考慮しつつ、鮮やかな転換を狙おうと腐心する。
完成した歌仙は、参加者全員による恊働詩作たる文化資産となる。個性の表出と全体の調和が評価される。
詩歌史との関係で言えば。江戸時代の俳諧連歌に先立つものとして、宗祇に代表される俳諧連歌<=中世>。
更にその前史的先例に当る歌合わせ<=平安時代、公家社会の和歌競技>がある。