もがみ川感走録第57 西郷南洲・続

南洲翁遺訓の創出〜刊行に、鹿児島の地から遠く離れた旧・鶴岡藩の主従が大挙して関わっていた。
何故庄内びとは、そのような振舞に出たのであろうか?その背景を知るために、西郷隆盛の詳細な行動を押さえてみた。
慶応4・1868年9月27日に庄内藩は、官軍に対して降伏した。
これを以て鳥羽・伏見の戦い江戸城無血開城〜上野彰義隊撃破に次ぐ奥羽越列藩同盟軍と官軍の戦いである東北戦争が終わった。
この時点で、何度目かの戦場への出馬を要請されて、遠く鹿児島の地から馳せ参じた西郷は、庄内の地のどこかに身を置いていた。そして11月始め頃鹿児島に戻ったと言う。
北陸道鎮撫に向かった官軍が苦戦したのは、河井継之助が統治する長岡藩地と鶴岡藩が守備する庄内戦場の両場面のみであった。
西郷の役名は、薩摩藩出征軍・総差引<北陸道派遣軍司令官>であったが。この方面には総鎮撫官軍の武家参謀として黒田清隆山県有朋が在陣していた。
東北戦争終結後、西郷はこの2人に対して、敗軍の鶴岡藩処分を指示してから、立ち去ったとされる。
旧・鶴岡藩の主従は、意外に寛大な処分に驚ろいた。
背後に西郷の配意があったことを知って鶴岡藩主従は、後の明治3・1870年、大挙して遠く鹿児島の地に西郷を訪ねて行った。
では何故?西郷は敗者=鶴岡藩兵に対し寛大な処置に出たのであろうか?
既に150年以上を経過した今日、西郷の内心を伺う事は難しいと思えるが。実はそうでもない。
先にも引用した大佛次郎が残した著作がある。
大佛は、勝てば官軍的なる偏りを持つことなく・幅広く史料を収集・掲載している。
天皇の世紀13巻・103〜122頁」に江戸・三田にあった薩摩屋敷焼討ちのことが書いてある。
そのため、今日からでも比較的容易く西郷の肚の裡を探ることができる。
焼討ち事件が起きたのは、慶応3・1867年12月25日の深夜〜早朝であった。
その頃幕府から依頼されて。江戸市中の治安取締・住民安寧の重責を担っていたのは、譜代大名鶴岡藩とその配下たる新徴組であった。
大佛はその年の10月から江戸と関東郡部の情勢推移を描いているが。
各地で刃傷・発砲・放火などの乱暴狼藉が連発していた。
その多くは、薩摩藩の中枢が企画したテロ指令を受けての組織的後方破壊行動であった。
その実働隊を束ねていたのは、薩摩藩の家中・益満休之助&郷士・伊牟田尚平であった。
加えて薩摩藩は、天障院篤姫<薩摩から公家の近衛家養女を経て第13代将軍家定の御台所に入嫁>の警護を掲げて浪人を募集増徴し、ピーク500人超の悪党集団を三田の藩邸内に抱えた。
その浪人組頭目の名を紹介しておくとしよう。いずれも悪名高い面々だ
   相楽総三 = 元・旗本家臣
   落合直亮 = 武蔵の浪人
   権田直助 = 武蔵の浪人
   更にその中には土佐藩板垣退助から西郷が依頼されて引受けた
   筑波山屯集浪士の残党も含まれていた。
彼等の仕事は、市中各所での破壊行動で。市中取締隊が駆けつけると薩摩藩邸に逃込むのを常態としていた。
江戸城二の丸放火と庄内藩詰所への発砲など、相次ぐ異常事態続発に激高した幕府側約3千人の市中取締隊は、下手人が逃げ込んだ薩摩藩邸を取囲んだ。
鶴岡藩兵を中核とし大砲を備えており、幕府との打合せを踏まえて、薩摩藩邸に対し犯人の引渡を求めた。
その時、突然薩摩藩邸が炎上した。
幕府を統括する将軍慶喜は既に上京して久しく。長期間の将軍江戸不在でもあり、本来たる幕閣は、軍事組織でありながら、意思決定機能が麻痺していた。
当夜の宿直当番であった幕閣・若年寄役は、直後自死を遂げたので真相不明だが。幕府決定として攻撃命令が発せられたとの確証はない。
或いは、薩摩屋敷側が自ら火を放った可能性なしとしない。
何故なら、薩摩・西郷の本意は、ありとあらゆる手段を講じて幕府を挑発し、軍事的紛争に牽きずりだすことにあった。とにかく幕府を刺激し・戦闘に引込み・幕軍を軍事的に粉砕して・幕府を倒壊させ、関ヶ原以来の雪辱を図ることにあった。
真相不明ながら。薩摩江戸三田藩邸炎上の情報は、12月28日慶喜以下幕府勢が蝟集する大阪城に伝わった。しかも、情報が歪められており、江戸留守居の幕閣が判然たる意志をもって起した快挙であると伝わった。
大佛は、これがキッカケとなって、鳥羽・伏見の戦いへと幕府軍を駆立てたとみている。
となれば。西郷が構想した謀略は、鶴岡藩の主導が契機となって、見事にヒットしたわけである。
鳥羽・伏見の戦いは、翌・慶応4・1868年1月2日京都の南郊において勃発した。薩摩・会津の間で、戦端が開かれた。
明治政変を概観した時、この戦いは本来的に必要性が認められない軍事対決でしかない。
西郷の筋書きどおり、後方撹乱の異常テロ行動が大規模内戦の口火となった。
西郷の肚の裡を知っている者は、その当時居らなかったことであろう。
筆者がここで展開した妄想たくましい推定もまた的を外していることであろう。
かくも西郷は、茫洋とした多義性を備えた複雑・不可解な人物であった。
西郷は、各方面の戦闘が終わったノチも、その都度ごと律儀に鹿児島に戻っている。
後世、明治新政府の重鎮に据えられ、陸軍のトップに就くが。彼に立身出世の意欲乏しく、恬淡としていたらしい。
最後に、彼の言を紹介して筆を置くこととする
  児孫のために美田を買わず
これは、西郷が親友の大久保利通に寄せた「偶成の詩」にある一句だと言う。
いかにも西郷の人柄を示しているようでもある。
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〔参考図書・文献〕
マニフェスト・ディステイニィは、増田義郎著「太平洋ー開かれた海の歴史」集英社新書2004刊行に拠った
明治政変に係る歴史事象は、大佛次郎著「天皇の世紀・全17巻未完結」朝日文庫1977〜刊行に拠った
国史は、「小学館大百科全書」第1巻648頁以下の年表から筆者において抜書きした
その他の個々件名については、ウイキペディアを随時参照した

もがみ川感走録第56 西郷南洲

この冬は、雪の降りようも大気の寒さも、例年になく厳しい。本格的な冬であった。
しかし、ついに節分だ。
待焦がれた春は、暦の上ながらも、もうそこに迫っている。
この過ぎようとする冬の間、吾が身は何をしていたかと問えば、身を動かすとも怠り。
ひたすらTVの前に、惰眠を貪る朝・昼・夕であった。
年が明けてから、世を挙げて?官営放送は、とかく西郷の名を吹聴している。
この2018年は、明治150年に当たる。
その手始めに採上げる人物が、果して「西郷どん」で良いのだろうか?
これまで彼の事は、西南端のどん詰まりに生を享けた出世オトコ程度にしか位置づけて来なかった・・・
だがしかし、「南洲翁遺訓」なる、彼の言説を書き留めた文献があると聴かされた。
その成立ちが、極めて異例であり。
もがみ川と重なる事実を知って。
ここに採上げる事にした。
「南洲翁遺訓」なる今日的古典は、明治の早い時期に成立したが。
その成立に、最上川流域の鶴岡藩が関与した。
明治3・1870年。旧・鶴岡藩の元藩主から家老・藩士らほぼ百名近い大集団が大挙して、鹿児島の地に西郷隆盛を訪ね。
その地でじかに聞き出した談話43編を纏めて”遺訓”として出版した。
ごくヴォリュウムの少ない内容だが、その訴えるところはとても奥深いものがある。
そしてあの西郷は、複雑・不可解な多義性のある人物にして、軍事謀略家だったが。思想家の要素もまた備わる思索の人であると知った。
さて、一般的な日本人の日本史に対する感慨はどうか?
ここで吾が乏しい日本史観を語るのはどうかと思うが・・・・行掛かりなのでお付合いを願いたい
おそらく。年号と事象の要約と登場人物=決まりきった顛末を述べて、ハイおしまいの紋切り型に終始しているのではないだろうか?
これはつまり、能吏型官僚養成的つまり大学受験限定型の断片的知識を以て、全て完結と決めつける入試対策措置でしかないのだが。
如何せん、これが現代の経済効率最優先型の生き方であり・この程度の拙速・安易でもって対策終れりとする。
最新流行路線であり・国民的パラダイムなのだ。
反論ある方はどうぞ
とまあ、余計な前口上はこれまでとして本論に戻ろう
”明治政変”を型どおり述べるとしよう。
のっけから脱線だが。”政変”なる筆者独特のコトバ使いについて触れないわけにはゆくまい。
世間一般では、明治維新と言う。そのようなコトバを出来れば使いたくない。
たかがコトバ・されどコトバである。
では、「政変」と『維新』とは、どれほどの差があるだろうか?
実は筆者の側に、明確な回答は用意されてない。
「政変」なるコトバの出典を示しておこう。
大佛次郎著・「天皇の世紀=13巻63頁」に出てくる。
王政復古の大号令<慶応3。1867>の内容を聴いて、アーネスト・サトウ<英国外交官・この時は公使館付通訳>が「政変」の内容を理解したと書いてある。
彼の発したコトバの訳語か?著者大佛が要約したコトバか?は、不明だが。ものごとの始まりを等身大の大きさで捉えた適確な表現語であると考えたい。
他方の『維新』は、権力側が意図を以てつまり大いなるイデオロギー性を込めて造り出した政治的プロパガンダである。
明治維新と言うボワッとした用語を使うのであれば、この歴史事象が、何時始まり・何時終ったか?を、明確に決めてもらいたいものである。
範囲を限定せずにコトバを使う=その曖昧さがこの国の有力なイデオロギーでもあるのだが・・・
「政変」であれ・『維新』であれ。この時の歴史事象に関与した人物は、実に多彩であった。
テロで失われた人命の多さを思い・不要なのに勃発した内戦のムダを思うと暗澹たる気持になる。
その最大の仕掛人は、西郷であったから。彼の第一の属性は、暴力性に富む軍事謀略家であったと決まる。
しかも彼が築いた日本陸軍は、昭和20・8・15<1945の日本人的敗戦の日>に終る大戦争の引き金を引く事になる国民全層を束ねる大暴力集団となり。後世、今日まで引きずる国民規模の悲劇の元凶となった。
『維新』なる人騙しのスローガンは、前政権を全否定するようなアンチ方策しか持たない明治新政府の貧困な為政をカムフラージュするために必要なだけであった。
『維新』なるコトバにおどらされた大多数の末端に位置する国民=否、苛酷を背負わされた酷民(こくみん)=にとって、その政治深層を究めないままに、ただ踊らされ続けたことから取返しのつかない不幸が始まった。
何時どんな状況でも、過ぎた事に対して市民一人ひとりがキチンと総括しておくべきである。
さて、明治政変だが。時計は嘉永6・1853年6月のペリー来航に始まる。
165年前に始まったグローバリズムと初めての出会い、それが現在まで続く列島規模の混乱の始まりであった。
仮に。この国の政治姿勢が、対米従属に傾き過ぎているとしたら。その原因の一つは、USAの意志の固さと準備の周到さに比べて、当方にそれを凌駕する程度の海賊根性が欠けているからだとも言える。
ペリーの砲艦外交は、軍事と外交とは表裏一体であることを示しており。開国を迫る動機は、太平洋を航行する捕鯨船の薪水食糧の補給と天候被災時の救難防備にあるとする見解がある。それは判りやすい一面の真理だ。
しかも、捕鯨活動は、18世紀の中頃イギリスに始まった産業革命に起因しており、鯨油がエディソンの電球発明・普及まで、繊維工場が夜間操業に使う照明用燃料であった。
だがしかし、開国を迫る背景は、もっと根が深かった。
国史を貫く、大きな一本の柱がある。
マニフェスト・ディステニィである。
ここで下手な邦訳をしておくと
     アメリカ市民に下された明白なる神からの使命
一神教世界の作法を持たない我々には、何かピンと来ない”ディステニィ”感覚である。
マニフェスト・ディステニィなるコトバを最初に文字化したのは、1845年のこと。ジャーナリストで英国生まれのJ・L・オサリヴァンとされる。
このマニフェスト・ディステニィに基づき、米国は一貫不変の国策を掲げて日本に開国を迫っていた。
ここで米国の国策がどのように推移したかを概観しておこう。
 ◎ 1823  モンロウ主義宣言=旧大陸からの不介入と
       再植民地化への反対を表明
       これはまた、民主的な共和制的自由社会を実現した
       自らを高く評価する対外的発言でもあった
 ◎ 1836  アラモの戦い=テキサス州独立戦争(対メキ
       シコ戦争)で米側が守る砦は13日間で陥落した
       J・ウエインが西部劇映画2作=同名&リオブラボー
       で好演した土台の事件
 ◎ 1845  テキサス併合なる
 1846〜48 メキシコVSアメリカ戦争
       勝利してカリフォルニア州を割譲させるが、
        1849年その地(サンフランシスコ)から金鉱が
        発見されゴールドラッシュとなる
 ◎ 1853  ガズデン購入なる
       アリゾナ州南部とニュウメキシコ州の地をメキシ
コから買い取る
 ・・・ここには先住民虐殺の歴史を掲げてないが。
     1620年のボストン上陸以来一貫してネイティブアメリ
     カン=インディアンとも=を抹殺し・居留地へ追落した。
    1776年の独立以前に存在した史的過去に立向かわない・
     隠された白人至高思潮=WASP独尊主義は差別強行・民族
    浄化の点からも非難されるべきである・・・
 ◎ 1858 日米通商条約なる
 ◎ 1867 アラスカをロシアから購入
 ◎ 1887 ハワイ王国よりオアフ島ホノルル真珠湾を租借
 ◎ 1894 ハワイ王朝最後の女王リリオカラウニを退位させ、
       共和国制とする
 ◎ 1898 ハワイを併合する
       アメリカ太平洋艦隊の寄港拠点を確保する
 ◎ 1898 スペインVSアメリカ戦争
       勝利してグァム島&フィリピンを割譲させる
 ◎ 1899 トゥトゥイル島=米領サモアをドイツから獲得する
       南太平洋の寄港拠点
 ◎ 1914 パナマ運河を開通させる
ここに掲げた米国の新大陸討伐平定と太平洋進攻の経過を一覧すると。彼等のフロンティア拡大の狂信的行動は、必らずしも陸上に限定しておらず・海上にも及んでいる。
今日では遥か太平洋を越えてユウラシア大陸をも解放の対象と考えているフシがある。
紙面の都合で、今日はこれまでとします。
アメリカは、我らが東に位置する隣人であるが。彼・我の差は、一神教的狂信者と茫洋たる多神教信仰者と抜出せるが、互いの距離は遠い。
しかも彼等の歴史観は、100年〜200年スケールで一気通貫しており。強固かつ盤石だ。
その点我らが歴史時間軸は、明治・大正・昭和などと極めてショートスパンで区切られ、近視眼的かつ従人的な理不尽さしか備えてない。 

高尾山独吟百句 No.15 by左馬遼嶺

寒の夜  家で味わう  きりたんぽ
〔駄足呟語〕
今は寒<かん>、北半球が一年で最も寒い時季である。
生物が生き残るため最も厳しいこの最悪寒冷期を無難に過ごし、やがて来る暖かい春を待ちたい。
さて、きりたんぽ
吾が故郷は、あきたの郷土料理である。
と言っても、身に備わった「おふくろの味」ではないので、ここに書き連ねる事に対して、いささか不安なしとしない。
生まれてから18歳になるまで、秋田県の南つまり出羽富士と称される鳥海山の北に位置する土地で暮らした。
この東北有数の高い山は、豪雪をもたらすが。このすぐ麓の矢島<現・由利本荘市>なる土地から、吾が母は河口の街である『古雪(ふるゆき)』の吾が実家に嫁いできた。
江戸時代矢島は、遠く瀬戸内海に面した温暖の地から、急遽遠島に処せられるがごとく転封させられた生駒藩の支配地となった。
遠来の大名がもたらした上方的風俗は、土着の百姓の娘でしかなかった吾が母にも気風なり所作なりに何らかの異文化的情緒を与えたことであろう。
つまり、あきたの郷土料理たる「きりたんぽ」は、吾が少年期の生活周囲の中には存在しなかった。
つまり、38年間の転勤生活の中で、吾が妻が発見し・習得した家庭料理のレパートリーである。
よって、今棲む北陸のスーパーに、遠く北の彼方600kmも離れた秋田のきりたんぽ具材を販売していることに正直驚ろかされた。と言っても、セリや比内鶏までは置いてない。
セリは正月市で目にする程度だから、雑煮としての需要に応えた当地としては格別の品揃えかもしれない。
その時期を外すと当地でフツウに売れる野菜ではないようだ。時々見つけるが、その値段の高さに驚ろく、手は出せない。
これは私見だが。セリの根っ子まで食べてしまう、あの野性味溢れる豪快な食べ方が、百万石好みの気取った華奢な文化風土と相容れないのかもしれない。
比内鶏<ひない・どり>だが、これは秋田県北の地名を冠したニワトリ。地域の特産品である。この地のスーパーで入手できよう筈もない。よって、手近な鶏肉で済ませる。
北陸の地は、幸いなことに霊峰=白山の向こう側が,国産鶏肉の本場である東海ブロックである。
いささか手前味噌だが、とても良いダシを味わえているのではないだろうか?
閑話休題
きりたんぽと言えば、聞こえは良いが。吾が家のそれは、一つの鍋とめいめいの小皿があれば、一食フィニッシュだから。まあ、「鍋」料理風の縄文料理的ごった煮と言うべきであろう。
白ネギやらシラタキも入れるから、ちゃんこ鍋の様相でもある。
メインは、名称の由来たるきりたんぽだが。
これはコメの加工品、素人がトライして簡単に造れるものでもないようだ。
鍋の中に他の具材と放り込んで、かなり加熱しても、型くずれしない。
おそらく焼きおにぎりの類いであろうか?その独特のカタチが、秋田県的民俗では梵天であって、正月の頃、神社に担ぎ込んで奉納するカミシロの一種だが。男性器の象形とみるべきであろう。
よって、命名の由来がいま一つピンと来ない。
蒲鉾の焼きちくわに似た、中空にして細長いカタチが、武器の槍を連想させるから。槍に由来するので良いとする説が有力だ。
だがしかし、きりたんぽは、武士の食べ物ではない。あくまでも百姓の食べ物だ。
戦国戦乱期に、戦略用道路の構築や戦場後方での物資輸送などに駆出された地域農民は、時に粗製濫造の竹槍などを持たされて、俄か仕立ての歩兵に充当されたかもしれない。その時、手持ちの槍にしのばせる個人消費のための携行保存食糧として、あの独特の形態を備えた「焼きおにぎり」が、創意工夫されたのかもしれない。
だがしかし、ただの百姓には、コメの飯はどんな用途であれ、どんな時代であれ、ほぼ無縁な食糧であった。
それほど、食糧生産の現場における身分差による摂食強制は厳しかった事であろう。
よって、百姓が携行するコメは、万一武士階級に見つかっても、申し開きできる類いのコメ周辺物である必要があった。
刈取り後の田んぼの地面から拾い上げる「落ち穂拾いのコメ」
精米の時に、こぼれ落ちる”砕米”つまりコメとして纏まった形状を欠く「屑コメ」・時に作業床から拾い上げるゴミのようなコメ。
落ち穂拾いと言えば、ミレーの絵画。
ただ、あっちの方は、コメでなくムギだが。
刈取り後に落ち穂拾いの目的で農地に入れるのは、寡婦とか孤児とか社会的弱者であったらしい。

北上川夜窓抄 その40=三浦命助 作:左馬遼 

北上川の上流域は、南部藩領である。
三浦めいすけは、百姓・命助(or盟助とも書く)として知られる。
盛岡南部藩領の栗林村<現・釜石市>に、文政2?・1819年頃に生まれ、文久4・1864年盛岡城下の牢内で死亡した。
因みに、百姓とは、かなり尊大ぶった肩書のようだが。おそらく「只の人」の意味であろう。
脱線して脇道に逸れる。四姓<源・平・藤・橘=賜姓>以外の者。つまり誕生時普通の出自であった者との意味になろうか?
脱線ついでに更なる断わりを。
冒頭の南部藩とは、則ち江戸時代と言う意味である。藩と書く事で、江戸期幕藩時代の南部氏に限定する。
南部氏の出自は判然しないが。奥州藤原氏源頼朝が滅亡させた(文治5・1189年7〜10月)直後に、藤原氏の遺領となった空白地帯に進出した武門武士の末裔であろう。血統連続したと仮定してざっと700年間続いた。
その本拠地も八戸〜遠野〜盛岡と移動したが。城下の南下につれ・子孫継嗣につれて、家運が下降した例と言えよう。
”なんぶ”なる呼び名からして、本貫の地は、甲斐国であろう。山梨県岩手県も馬産の地である。その共通性からして、おそらく気質の面で相似通うものがあったろう。
既に二つ脱線したが、三つ目の脱線。
百姓・命助の出生地である釜石市は、太平洋沿岸の大都市だ。飛躍の基となった製鉄産業の勃興は、比較的後世のことである。
9・11による大地震・大津波以後に訪れてないので、更なるコメントを控えるが。江戸期における当地は、仙台伊達藩領との境界地であったことを肝に銘じておく必要がある。
ここで何を言いたいか?だが、北上川の畔を行きつ戻りつしていると、何をもって県境としたかが判らないうちに通過している事に気づく。
現在の岩手・宮城の間の県境とその昔の南部・伊達の間の藩境は、難しく入組んでいて、混乱を招きやすい。藩境は、内陸部で約20km・沿海部で約40kmほど現在の県境より北方にあった。仙台藩宮城県になる際に、南に後退(=面積縮小)させられたのである。
明治新政の地域行政区分は、奥羽列藩同盟の盟主に対して、そのような意趣返しまたは悪意を孕んでいたかもしれない。
明治政変後約150年も経過し、ややもすれば、県域レベルで空間軸を描きがちだが。過去の歴史事象を後世的予断をもって理解することは、誤解を招きやすいのであえて断わりを置いた。
閑話休題
ただの百姓が後世に名を残すことになったのは、命助が百姓一揆のリーダーであったからだ。
しかも彼が未決囚状態のまま7年間も獄に捉われ45歳の若さで牢死したことは、藩権力が恣意に任せて私人の自由を束縛しながら・個別具体的に裁判権を行使する事をためらったことを意味している。
一事不再理を回避したとも解せるが、そうなると7年間の獄中放置の理由が不明となる。そこに藩庁権力の思考水準低下と藩主家の家運没落を読み取るべきであろう。
その一揆の名は、三閉伊一揆<さんへい・いっき>と言う。
嘉永6・1853年に起きた南部藩最大の一揆である。
三閉伊とは、この時期の当地を指す呼び名で。三陸海岸の北部を指している。
南部藩は、寛文頃(1661〜1673or1684)に「通」制を採用し、藩領全域の行政区分として33通を設けた。
則ち三閉伊とは、野田通・宮古通・大槌通のことである。
次に一揆について概説したい。
百姓一揆と言えば、盛岡藩南部氏の統治領が本場である。
一揆は則ち飢饉なる生存の危機とセットであるが、列島最大の集中発生頻度とその都度の被害の深刻さにおいて、ここは他地域をしのぐ本場だ。
慶長5・1600〜明治2・1869年までの270年間に133回<下欄・注>の多発である。
南部四大飢饉を以下に掲げておく
  元禄8・1695年<奥羽・北陸で天候不順>
  宝暦5〜6・1755〜56年<奥羽で凶作>
  天明1〜7・1781〜87年
     <多雨洪水と日照不測から列島規模の凶作へ。
      特に東北など寒冷地が被害甚大>
  天保1〜8・1830〜37年
     <多雨洪水と日照不測から列島規模の凶作へ。
      特に東北など寒冷地が被害甚大>
飢饉発生の原因は、何に由来するか?その原因解明だが、太陽活動や全地球規模の日照不足を招来する大規模な火山噴火など色々考えられる。
列島規模で長期化した天明天保の2つの大飢饉は、小氷期であったかもしれない。
さて、133回と多発した南部藩領の飢饉・一揆だが、その内98回は、和賀・稗貫の2郡下で起っている。
この2郡は,盛岡以南に位置する内陸部であり、おそらく水田農耕が主産業であろう。水利灌漑は備わっていたとしても、前面海域に三陸なる世界有数の巨大漁場があり。その暖流と寒流が衝突する海域から生ずる海霧に由来するヤマセの吹き出す風下域でコメ作りをすることは、気象合理性を欠いていると言えよう。
水田の上級所有者ともくされる藩庁は、おそらくコメ作りを強制した事であろう。
何故なら,参勤交代(大名家臣の江戸滞在)など大名格に相応しい体裁を維持するには、織豊政権が樹立し・全国公準となった石高制に慣らい。兵糧米なる軍需物資を保持する必要があったし、当時の事実上の現物貨幣でもあったコメを持つ必然性があった。
食糧生産は、荒天時に備えつつ気候風土に則した植物種を選択すべきである。
いわゆる地域特産物だが、阿波鳴門の藍玉生産などに例を見るように。必ずしも穀物種に拘らない智慧もまた発揮されるべきであった。
例えば、アワとヒエとか、ハナマメ・ソバなど、必ずしも日照性を前提としない五穀に着目していれば、飢饉による被害は、軽減されたことであろう。
宝暦5・1755年には、死者数が50,000〜60,000人に達し、損耗高19万石と概算された。因みに、南部藩のこの時の石高<軍役表高>は、10万石であった。
この時の飢饉は、南部藩政史に残るおそらく最大の被害であったろうが、藩庁為政者が猛省したような様子も再発防止策を検討することもまたおそらく無かったであろう。
この頃の飢饉対策で無能無策ぶりを露呈した背景は何であったろうか?
その答を史的合理性をもって実証的に解明する事はとても難しいが。筆者なりに想像をたくましくすると、藩財政の破綻が最大の背景と考えられる。
南部の地は,古代から黄金・馬・鷹の羽・鷹の幼鳥を産出したが、天然資源としての鉱山は、鉱脈が枯渇したら急速に衰亡に向かい再開はあり得ない。
北上川以東の高山地帯は,我が国有数の金脈が存在した。おそらく18世紀の半ばに掘尽くし。連れて藩財政も急速に破綻したことであろう。金売吉次の故事や東大寺大仏開眼供養に先立つ産金の故事など、遠い過去の栄光になってしまっていた。
馬も鷹の羽・鷹の幼鳥も。18世紀の半ば頃には,国内平和が長期安定化し、鷹狩りなどが準スポーツ化し・贈答的限定需要に堕して先細りしていた。
騎馬軍団を備え軍事的に高名だった鎌倉草創期以来の雄藩は、民政面統治能力を欠き、財政失陥で縛られ。みすぼらしさが目立った。
藩政時代の列島全域には、領地を支配する藩主が総数270乃至300人ほど存在した。各藩が各個に独立して政治統治する地域分権性だから、他藩に対して救援措置を要請するようなこともまた無かったらしい。
江戸幕府もまた,征夷大将軍として軍事統括する立場から、各藩の内部事情を把握していても、自ら各藩に対して働きかける事も無かったようだ。
序でながら、封建前期・後期を通じて、領地替えつまり転勤をしなかったのは、この南部と遠く九州南端の島津氏薩摩藩だけだったようだ。
封建の思想では、土地に固縛されるのは百姓領民。領主・武士層は移動させられる原則だった。
さて、三閉伊一揆だが。弘化4・1847と嘉永6・1853の2度に亘って史料に登場するが、実質において1個の一揆と解される。
先の方は、幕府御用金6万両を藩内の町人・百姓にそのまま割付け賦課させようとした事に端を発した。藩政改革を訴えて領民12,000人が遠野に強訴した。無能なる藩庁は何らの対応を示さなかったので、後の年に一揆=動員総数1万数千人が再発した。
今度は課税重過・藩政改革を訴えて,隣の伊達藩領に逃散した。石塚峠には南部藩の平田番所<現・釜石市>と伊達藩の唐丹番所<とうに 現・釜石市>が並んでおり、総勢2,996人の領民が越境した。
石高62万石の大藩である伊達藩の対応は,まだましだったようだ。
三浦命助を含む首謀者45人を仙台城下に連行し、他の者は説諭して帰郷させた。
結果、一揆側の要求は、かなりの点で聞き届けられ。只の一人も処罰者を出さないカタチで終息した。
この三閉伊一揆の指導層・中核機動主軸は、三陸漁民であった。
かつての一揆の中心多発地域であった和賀・稗貫の2郡下のような耕作農民層とは、領民気質や藩庁との交渉作法すらおおいに異なった。
三陸海岸は,コンブの産出もあり、蝦夷松前藩に次ぐ輸出用俵物を特産物として産出・出荷する特異な海産域であった。この頃幕府は輸出の大宗を占める俵物を確保するため,産出地での直接集荷に関与し始めており。その点でも、南部藩庁は,江戸幕府政庁との接触機会も多かったらしい。そのような背景と機微は、一揆側領民も察知し、藩に対して強く出る遠因になったかもしれない。
だがしかし、藩庁役人は、一揆終息後も長く、三閉伊一揆の指導層に対して、根深い屈辱感を抱いていた。
一揆終息し帰村した後の命助は、間もなく村を出奔した。
故郷を逃れて一時的に留まった地は、隣の仙台藩領内であった。彼はそこで里山伏として暮らし、修験日記を残した。当時の村の生活ぶりや里に定住した修験者の役割などを知る事ができる民俗史料である。
そこで彼は、次に僧になろうと決意して,京都に向かった。
当山派に属す里修験であった彼は、その本山筋に当る京都・醍醐寺三宝院に向かった。
修験宗は、明治5・1872年に明治新政府により一方的に廃止されたが。最近刊行された岩鼻通明の著書=出羽三山によれば、修験者には妻帯修験<有髪・妻子あり>と清僧修験<髪は問わず・妻子なし>の2流があり。
前者は宿坊等を経営して参詣客を受け容れる兼業実業者像だが。
後者は修行と布教に専念する暮らしだったらしい。
命助が求めたものは、正式な出家僧の身分であったかもしれない。しかし、学僧・読経僧の道に進むことは,年齢的にも険しかったのではないだろうか?
彼の意図したものは、おそらく地域権力の司直の手を逃れる便法にあったであろう。
安心立命の道は、域外に根拠を構える巨大宗教権威の一画に身を起くことにあった。軍事力とは異なる権威に護られたいとする彼の願望は、結局叶えられなかった。
次に京都にある公家の家来になる道を目ざし,五摂家の一つ=二条家の家来になった。
格式どおりの衣装・装束に身を固め・供を連れて、公の立場で堂々越境できる筈であった。
しかし、南部藩庁は、身柄を拘束した。
上述したとおり、7年間獄舎に繋がれ・裁きを受けないまま獄死した。
彼が導いた一揆の年は、日本史上有名なペリー来航の同年であり・かつ直前であった。
その頃藩庁の獄に繋がれた者は多数あったし、運よく明治まで存命した者もいた。版籍奉還により藩が消滅した際に放免出獄を果した例もあった。
彼の奇異に満ちた生涯を辿っても、彼の考えが何処にあったか?それを知る事は難しい。
勝手な想像は浮かぶ。
彼は我が国の古い基層にある思潮である儒教の「仁政」・「政道」に関する漢籍知識を備え。他方で”底辺にある民衆を基礎に置く民本主義”とでも呼ぶべき現代人と変らぬ思潮を抱く教養人であったかもしれない。
語るべき草稿はもう無い。
以下は余談である。
 ○ 文化5・1808年南部藩は、石高20万石に改まった。しかし、当然にその前提となるべき所領の増加は全く無かった。幕府の決定は,藩庁の意向に添ったものとしても一挙倍増だ。飢饉の本場に立つ藩主として自らの立つスタンスに対して無知であり・藩庁もまた愚の骨頂である。
飢饉・一揆の相次ぐ寒冷地域にして、このような民政に臨む姿勢は到底許されない。
文化5・1808年は、天明天保の2つの大飢饉の中間に位置する時だ。
馬科な藩主は,江戸城内で家格が進級して、悦に入ったであろうか?
理解困難である。
追って、すぐに幕府から蝦夷警衛の任務が発せられた。馬科(?ばか?)な藩主に仕える役人ほど哀れな者は居ない。
 ○ 三閉伊一揆の発火点もまた幕府御用金を領民に丸投げした事にあった。俵物など海産物を産出する三閉伊地区により重く課税したことが、動員数1万数千人の規模に拡大した主因であったろう。
しかもすぐそこに幕末の動乱と開国の時期が迫っていた。
倒幕で主役を務めた薩摩は、俵物を琉球口を通じて中国大陸に運んで,軍資金を造成した。
一方の薩摩は、国内流通の最後端に位置して、新しい時代を拓く主役になりえた。
他方の南部は、俵物の生産と流通の端口に位置したが、何の働きもしなかった。
あえて、述べよう。
薩摩人の西郷隆盛は、陸軍創設の功労第1位である。
対する南部人は東条英機。陸軍解体の基を為した事実上の首班であった。
 ○ 三浦命助から彷彿される南部人を挙げておこう。新渡戸一族と原敬が咄嗟に浮かんだ。
    <注=飢饉や一揆のカウント数は一定でない。ここでは平凡社刊の歴史地名大辞典より引用した>
・・・・・・・・・・・
早稲田大学名誉教授・深谷克己の著書に「南部百姓命助の生涯」がある
   朝日新聞社1983刊行
   岩波現代文庫2016刊行
本文で紹介した〔出羽三山〕は、2017年10月岩波新書より刊行された

高尾山独吟百句 No.14 by左馬遼嶺

 もくもくと  そこにもここにも  雪落ちる
〔駄足呟語〕
昨日は日曜日の朝のことだ。
朝起きて驚いた。静かな白い世界
その前夜から,静かにしずかに、雪は降り続けていたらしい。
大雪警報が出ていたらしいが、ニュウスを見ないまま知らずに寝込んでしまっていた。
いつもと異なる外界の気配に,カーテンを引いて、事情を理解した。
音もなく,ただただ黙々と天から白いものが落ちてきていた。
上空は、ただ淡い雲の中のような、見えるものが無い,よく掴めない世界であった。
そこから、とめどなく、湧くようにコムギのように白いものがとめどなく落ちてくる。
見渡す限り,世界は白い。そして音が消えていて,何も聞こえない。
かつて、何度も味わったようでもあるが、はっきり憶い出せない不思議な体験であり
おそらく年に一度味わうような世界だ
閑話休題
これほど無尽蔵に雪が天からひたすら落ちて来るのは、何とも妙であり・不思議だ。
この地北陸にはあまり無い事だが、この数年あちこちで集中豪雨とかゲリラ豪雨とかを聞く。
昨日の大雪は、その変形だと思うと,ありえない天象事象とも言えない。
ただ、ひとつ判りやすい違いと言えば、全く風が止み。どこまでも無音の静寂な世界であることだ。
その音を消すのは、おそらく雪の質量であり。空気と少しの水蒸気を含んだ特異な塊のせいであろう。
雨も雪も空中の雲からもたらされる同じものだが、少しの生成条件の差が,一方は音を消し去り・他方の雨は音=強い風の存在を消しえないらしい。
雨となるか・雪に変わるか、それは実は、とても大きな地域差と言うべきであろう。
この大きな気象差は、下界に棲む人々の生活状況を規定している。
北陸が、そこに住む人に温和な性質を与え、コメドコロであり、かつては繊維産業が立地するに適した湿度に富んだ土地柄であることの根底には,この雪が大いに貢献していることであろう。
山の奥に降り積もった雪が、夏に向けて、ゆっくりと融け。悠々たる時間をかけて河川に流れ出し、そうして夏の暑さと乾燥を和らげる事が、下流域の人情と産業立地を形成したと考えたい。
コメの生産規模に比べて,地域人口が少ないのは、雪の厳しさが人の定住を阻んでいるのかもしれない。
北陸が通史的にコメの移出ゾーンであったのは、雨でなく雪が降ってくる事に大きな意味があるようだ。
最後に冬の雪をもたらす時空間メカニズムを型どおり述べておく。
我らが棲む花綵<はなづな>列島は、大陸の東に存在する。その西は大洋である。
ユウラシア大陸の中心には、ゴビなどの大きな砂漠があって、大気を乾燥させ冷たくする。
冬期の卓越風は、偏西風とも呼ぶ、西の砂漠から太平洋に向けて吹き出す。
我ら日本人は,風下にあって、風の吹き出す源流を選びとる自由選択権は無い。
身近な風上に,日本海がある。そこにはクロシオの分流が北に向かって流れている。
クロシオは、暖かく湿潤であるから、日本海を通過する偏西風に多量の水蒸気を含ませる。
日本海を通過しながら水蒸気を孕んだニシカゼは、花綵列島を南北に走る脊梁山脈にぶつかり、水蒸気はたちまち雲に変る。
そこで発生した雲が、日本海岸に雪を降らせる。
脊梁山脈で水蒸気を手放したニシカゼは、関東の空っ風に代表される乾燥した強風となって,太平洋側に流れ下る。

川歩きの物語 穇

2017年の11月である。何も書けないまま一ヵ月が過ぎようとしている。
そんなことで、約1年半ぶりに 〔 川歩きの物語 穇 〕を書いている。
〔 川歩きの物語 〕を書いた2016年4月は、入院中であったが。実はただ今も入院している。
ここはインターネット環境が備わった大病院。
石川県ひいては金沢市の医療水準とIot環境のレベルを物語るようでもある。
簡単に入院事情を披瀝すると、今月初めに実家で法要があり。例によって,過疎地の交通インフラは最近とみに後退感が募っており,体験上からもマイカー出動となった。
そのついでに、取材地の歴訪をと思い立ち、奥入瀬などを含めて約1週間ほど連続して移動した。
折から東北は寒冷に向かって、気候変動もあり。白いものが散らつくような日もあった。
医療用の酸素ボンベを常時携行し、酸素の補給を受けながらの取材地訪問だから。
格別体力に訴えるような活動ではないが、本州北限地である下北半島の突端である大間を訪れた頃から,やや微熱を催していた。
そこで、次なる訪問予定の計画も未練もあったが、背に肚をと取って返す事にした。
主治医の見解は、体力の低下と持病のデータ悪化をもって、入院治療しましょうであった。
体力の方は、2〜3日の自宅休養でもって,ほぼ回復しつつあったが・・・・
月央から当面3週間程度の臨床サービス付き禁足刑に服す事とした。
さて、下北半島だが、全くもって観光地ではなかった。
最初の訪問であった。
狙いは、この川歩きの物語シリーズで,次に採上げるべき青森県の下見だ。
例によって予備知識=事前情報なしの行脚第一歩だった。
ざっとしたイメージだが、彼の地は全く農業には向かない風土のように感じた。
しかし、近年はあらゆる農産品目で成功している北海道の農業振興ぶりも見せつけられているので、
単に寒冷地である事をもって、ムゲに農業不適と斥けるべきではない。
しかし、南部藩政時代以来の馬産地であるから、栽培型農業には無縁と考えるローカル・パラダイムが存在するかもしれない。
その直前に訪れた奥入瀬下流にある三本木原は、かの有名な新渡戸家<にとべファミリー>が開拓に乗出し、その後国営直轄事業ともなった大規模農地開発である。
しかし、その名を冠した記念館は、既に休館表示があるのみで、何の得るものもなく,空しかった。
最近の社会的価値基準の変動は、著しいものがあり。旧態然とした先人の業績を評価する事もなく・先哲の忘却は激しいものがある。
地方素封家の財団組織が発展的に市町村に寄贈されると、一挙に「市蔵・文化財」でなく『死蔵・文化財』の憂き目を見る例が目立つ。
これもまた平和惚け現象同様の本末転倒後退化事象と思うと、この国の国民性のへたり具合に暗然とするばかりである。
その下北半島だが、北前船の盛んだった江戸期には、林産資源の積み出し地として、北陸に拠点があった銭屋五兵衛などが盛んに進出したように記憶している。
しかし、林業や鉱山業などは,資源が枯渇すると,たちまち火が消えたように、地域の産業が衰え,急激に人口減少に向かう。
林業の場合は、植樹など気の長い事業継続のための再投資が前提となるが、下北のケースは果してどうだったろうか?
海運と造船は,明治の政変をもって、木造帆船から鋼製動力船へと大きく様相を変えた。
かつて、江戸の初期に幕府天領産のコメを列島全国規模で輸送する企画が始まった時に、弁才船<べざいせん>なる乗組員節約型の効率追求タイプの船形が新造された。
その土地が、大湊周辺とする見解がある。
下北半島の地は、北上川のシリーズで採上げた古川古松軒が巡行した地でもあった。
その北上川シリーズだが、2015年春から起ち上げており、もうそろそろ終りにしたいと考えている。
更にその前の年=2014年春から始めた「もがみ川」だが、こっちも最終コーナーにしようと考えている。
NHKの朝ドラマと言えば、国民規模で人気を博した「おしん」がある。
もっとも中核になった舞台が最上川であり、基幹たる人生の礎を形成した町が、その河口なる街=酒田であった。
筆者は放映当時勤務の都合で、朝ドラとは無縁であった。そこで、現在DVD化された完全版ものを再生して観賞している。
最後に。次なるシリーズの予告だが、青森県の川=岩木川を予定している。
反時計回りの東北ブロックも残るは2つの県域となった。

北上川夜窓抄 その39=続・古川古松軒 作:左馬遼 

北上川を行きつ・戻りつした古川古松軒についての続稿である。
古松軒は、幕府巡検使の随行員として天明8・1788年陸奥・出羽を巡歴しつつ蝦夷地までを往復した。
ほぼ230年ほどの昔だが、時は東北地域が大飢饉の苦境に喘いでいる時期であったから。ある意味において、現代に通底するものがありそうだ。
前稿では、巡検使なる制度が創設され<寛永10・1633年>た事情を中心に述べたが。
その頃は、江戸幕府の創業期から脱して。次なるバージョンとなる平和の時代=全国統治の存続安定化へと向かうタイミングであった。
第3代征夷大将軍徳川家光(在世1604〜1651。在位1623〜51)が、打出した新機軸である海禁政策寛永10・1633〜16・1639年の間。順次5回発令された鎖国の措置のこと>・参勤交代<寛永12・1635年>・巡検使などは、いずれも戦国動乱が再開しないことを見透した平和恒久路線に立つ措置であった。
その結果。江戸が大消費地に躍り出て、関西地圏に並ぶ経済集積都市に成長する革命的新事象を招いた。
言わば,江戸の大都市としての急成長は、想定外の社会変化であった。
では、古松軒が巡検使として旅に発った天明8・1788年は、江戸幕府にとってどんなタイミングであったろうか?
この時期は江戸期も後期であり、第11代征夷大将軍徳川家斉の長期在位の初期に当たる。
この頃注目すべきは、筆者の曲見であるが、いよいよ幕府財政が破綻し始めたことである。
しかし、財政破綻なる”御家の大事”は、ごく一部の幕閣中枢部のみが極秘に知っていたに過ぎない。
幕府が軍事政体であるから、組織として安定存続するため。そのことは厳しく秘匿される必要があった。
その事実は、権力の中核たる将軍家斉(在世1773〜1841。在位1787〜1837)にも知らされなかったようである。
彼は前任将軍の誰にもまして放埒かつ豪奢な生活態度であった。
その時に、豪腕な経済家=老中・田沼意次(たぬまおきつぐ。在世1719〜88。老中在職1769or1772〜1786)が登場する。
彼は、幕府の基本策として、伝統的な重農政策に加えて、新たに重商政策を追求する。
しかしその新機軸は、財政再建の成果をみないまま潰えた。
当時のパラダイムから遠く・おおかたの賛同を得るまでに至らず。彼は失脚。打出した新機軸もまた評価されず放棄された。
田沼が打出した新機軸の一つが,蝦夷地開発政策であった。
この時期の幕府による対蝦夷地政策は、短期間のうちに二転三転し。幕府の命運を財政面から縮める遠因となった。
幕府が現実に倒壊するのは、この時からほぼ80年後の明治政変の時だが・・・
欧米列強による軍事的脅威を伴う強制開国は、世界経済の中に日本を組込もうとするだけの狙いであった。
手始めは、捕鯨船の出没なるカタチを以て。大陸のある西からではなく・大洋のある東の方から、日本列島に迫った。
それは、後世的に考えれば、当時における「産業革命」体制の余波であった。
その大きな人類史的大ウエーブの意味する処を、当時の幕閣は十分に把握していなかった。
オランダ商館からもたらされる西洋情報では,限界があったからであろう。
江戸期日本は、端的に言えば、「産業革命」への対処を誤まったが。
産業革命」は、筆者の曲見では、人類史の中では負の記号<=マイナス価値>を以て論じられるべきだ。
そう切捨てる背景なり根拠なりを手短かに述べれば。経済奴隷主義が世界規模<=いわゆるグローバル事象>に拡大しただけでしかなく、本来そのような反道徳的慣行は葬り去られるべきだからだ。
冒頭の脱線としてはいささか長過ぎた。
本稿では、古川古松軒を中心に述べるとしよう
彼が何故?幕府巡検使の随員として選抜されたか?
どのような立場だったか?は、あまりはっきりしない。
官費支給による物見巡行だから、一県気楽なようだが。当時既に世に知られた在野出身の地理学者であったから、決ったルートを外れたいと思っても。公式巡行行事のため全く叶わず、その気苦労を嘆いた。
まさしく、すまじきものは宮仕えであろうか?
古松軒(ふるかわこしょうけん、1726〜1807)は、備中国<現・岡山県総社市>に生まれた。生家の家業は、薬種業・医家であったらしい。
ここまで書いてくると、先の稿で採上げた菅江真澄の境遇とかなり重なることに驚ろく。
菅江真澄=本名・白井秀雄(1754〜1829)は、三河国岡崎または豊橋のおそらく薬種業の家に生まれ、医家の修業を積む一方で,各地を巡歴し。30歳の時に家族に見送られて東北・蝦夷地へと旅立ち。ついに旅先で還らぬ人となった。
この二人の違いと言えば、年齢差と出生地くらいでしかない。古松軒のほうが、28歳ほど年長だ。
この二人は、江戸のほぼ同じ時期を生き。ともに前後して蝦夷・東北を訪ね、ほぼ同じ場所に居合わせることもあった。
菅江は、著書=「岩手の山」や「外が浜づたひ」に、巡検使を迎えるための道路整備補修作業に駆出された地元農民の苦しい姿を描写している。よって、互いに見知る関係には無かったとしても、共に東北に前後して居た事が判る。
ただ、旅行家としての両者の目線は、大違いであったように思われる。
この点について、柳田国男も前述の大藤時彦もあまり際立って採上げてないように思える。
要約して言えば、古松軒は、高い位置に身を置いて、東北の文物を低く見下している。
そのことは、彼がより先進的文物を産する山陽路に生まれ育ったことや、57歳の頃修験者に身をやつして九州地方を独り旅し「西遊雑記 天明3・1783年刊行」を著したことと無関係ではないだろう。
しかもこの「西遊雑記」の著書をもって地理研究者として世に名を知られるようになり、ひいては時の権力者老中松平定信が知るところとなった。巡検使の随行員に選ばれたのも、この著述によるかもしれない。
更に70歳を過ぎた頃故郷の備中国・岡田藩より苗字帯刀を許され、士分に取り立てられており。境遇的に菅江とは、対極に置かれる、いわゆる成功者だったようだ。
ところで、蝦夷地域を探訪した民俗学者として菅江真澄松浦武四郎(1818〜1888 幕末・維新期の北方探検家。一時幕府&新政府の官員となるが、権力批判の立場から辞職し、紀行文を公刊した)が知られるが。
彼等の蝦夷アイヌ生活様式を捉える視点には、おのずから科学合理性が備わり、文化人類学に通ずる現代的水準にあったようだ。
古松軒の属した幕府巡検使は、総勢約120名ほどで江戸を発着したが。
訪問先では、これに案内役の地元藩随行員が加わり、時に10倍以上の1,000名超の事もあった。
北上川の上流域は南部藩、衣川合流点から下流は概ね仙台伊達藩に交替するが。幕府巡検使に付添う諸藩接待員を含めた移動人員の総数だから、大飢饉直後の地元にとっては,まさに招かざる来客にして、大迷惑であった。