高尾山独呟百句 No.13 by左馬遼嶺

空に月  かおり添えたる  キンモクセイ
〔駄足呟語〕
吾が家から月を眺めた。
過ぎた9月は7日の夕べであった。
その日は、運よいタイミングで月の出を見た。
日本海に面した北陸の地、晴れの日に出会うことが難しい。
望月(満月=月齢15。十五夜の月)は、前日の6日であった。
満月の月の出を,つい失念したか?雲が隠して見落としたか?は、今では定かでない。
実際にみれた月は,十六夜<いざよい>であった。
キンモクセイは、吾が家の隣家の庭にある。月を隠せるくらいの大木ですらある。
つまり、隣家の庭園は、吾が家から見下ろす位置にある”借景の和風庭園”だ。
閑話休題
因みに,吾が下駄履き長屋のブロイラー・ハウスには、西側の壁がある。通路ではない。
しかし、落陽を眺めるほどの空間は無いに等しい。
しかも、四六時中朝となく夜となく、犬のバウ(=こじつけて字を当てると”暴”かも)声が満ちている。東側とは様変わりの興醒め壁景観である。
この際、与謝蕪村を踏まえても
  キンモクセイ  月は東に  陽は西に
とはならない。
さて、残るテーマは、”かおり”
駄足の中の駄足は、『かおり』とした背景である。
実を言うと,初めは『におい』としていた。
だがしかし、現代人は、嗅覚に等級をつけているらしい。
筆者の勘違いであろうが
 ○ かおりの方は、良い匂い
 × においの方は、その反対
とする見解が存在する事である。
どうも、漢字文化も21世紀に及ぶと,言語本来の伝統的変遷が抜け落ちてしまうのであろうか?
漢字は、日本語つまり列島固有言語が無文字ワールドであったから、隣邦・大陸中国漢王朝時代のそれを借字として導入したに過ぎない。よって、音声言語に拠るべきであって・当てた字面が持つ意味に捉われるべきでないのだ。
ここで「漢」なるワールドにワープしよう。
漢王朝をひらいた初代皇帝の劉邦は、楚人であった。
その「楚人(そのひと)」は、列島に稲作をもたらし,そのまま列島に土着したらしい。
「楚」の地を出奔すると決めた時点で、自らを「楚人」と名乗る事を辞めたはずだ。
直接列島に渡来して、倭人の祖先となったか?
それとも、一度朝鮮半島に着地して、倭人と韓人の混住地域を経た後に列島を目ざしたか?はっきりしないが。おそらくその双方ともあったであろう。
倭・韓の中間に対馬<つしま>なる島がある。
この島の北も南もクロシオの分流が流れ、この島のどちらにも倭人と韓人が混住していたらしい。
「楚」の地は、現代の大陸中国の”蘇”つまり、ざっと長江の河口・北岸〜沿海部に当たる。
劉邦は、成祖として。その宮都を黄河に近い内陸奥地である長安<現・陝西省西安市>に置いた。
その背景は、前王朝である統一国たる『秦』の王都=咸陽<かんよう>の位置を踏襲する必要があったためであろう。
つまり楚人たる劉邦は、我が田に都を引っ張ってくる愚を犯さなかった。
漢は、既にして抜きん出た国際センスを備えた開放性の政治を掲げていたらしい。
とまあそのような国際情勢から、我が国には古代〜律令時代の間に、漢字が導入された。
その流れは、現代にも深く底流を這っていると言えよう。
ここからいささか脱線だが。
列島の仏教界は、通史的に漢字・漢音ではなく・呉字・呉音を多用している。
漢王朝とほぼ同じ時期の大陸中国・長江流域は、「呉人<ごのひと>」の領邦<=くに>であった。
呉人の地と楚人の地は、ごく近い。しかも同じ長江稲作文明圏内にあった。
あの広大な大陸中国を単一文化圏と括るべきでない。南船北馬なる成語がそうである。
列島からの遣唐使は、 {注=唐は漢の次の王朝の名} 呉の領域の港に入った後、陸路または内陸運河経由で遠く内陸奥地・北方の都・長安を目ざした。
官人の外交使命は、いつの時代もそこに行く事にある。
その点、同船した入唐僧たちは、行動的に自由であったから、無駄に遠路に達することが無かったであろう。おそらく最寄の呉字と呉音で用が足りたことであろう。
長い脱線だった。辞書を牽いてみた。
 ○ かおりは、香り&薫りとある。
    香水のもたらす嗅覚刺激か?
 × においは、匂い&臭いとある。
    鼻を背けたいような嗅覚印象か?
だが、俟てよ
古い時代の「におい」は、必ずしも嗅覚だけに対応していたわけではない。
視覚領域にも使われていた。
傍証として,ここに古歌をひとつ掲げる
  いにしえの  ナラの都の  八重桜  けふ九重に  においぬるかな

いかり肩ホネ五郎の病床寝惚け話No.15

前稿の執筆から既に1ヵ月半以上経過してしまった。
前稿で述べた”ワットの酷い夏”は、未だ終ってない。
下駄履きアパート内のジプシー暮らしは続いている。
自室に回帰する事は、もう秋も終り、寒さ対策が必要な時季なのだから、簡単に実現しそうだが。
未だメドすら立たない。
要するに手元資金不如意もさりながら、ワットは体調面を受けてか?実行力が乏しい。
ハンモックの入手も,当分の間見込みなしである。
そもそもハンモックの必要を,あえて説明するとこうだ。
端的に言えば、固定資産税を課税されない住環境を理想と考える体質なのだ。その結果として、ハンモックに至るのである。
おぎゃあと産まれた時、無産者であった。その後もほぼ半世紀上固定資産税と無縁だ。
家を出て、定年退職の60歳まで社宅〜退職後の10年間がまたほぼ借家暮らしであった。
自前の下駄履きアパートを所有して、もう1年経つが。格別の感慨はもちろん無い。
やはり、空中にブラ下がる「ミノムシ住まい」=つまり固定財産を持たない空中プランプラン生活を究極の理想と考えている。
それに逆らって、家を持ったから。ダニに喰われ・ダニ族に成り下がってしまった。
内外空気遮断密室型の洋風家屋である下駄履きアパートの中、そこはたとえベッドの上でも地続きだから、ダニが伝って来て、我が身を齧るのであろう。
その点、ハンモックであれば、限りなく・頼りなく空中を漂うばかりの「ミノムシ」状況だから、ダニ遮断が容易であろうと考えた。
ダニ繁殖と空気遮断密室型の洋風家屋との因果関係はよく判らないが、通気型の和風家屋と比べてどうだろうか?
徒然草の著者である吉田兼好は、『家は夏向きに造るべし』と宣言しているらしいが。彼はとうにダニ問題を見越していたかもしれない。
閑話休題
過ぎた夏の我が身に起きた課題だが、さまざまな原因が複合して、体力が弱っていたらしい。
あまりにQOL<実際の生活で感じる満足度>が低下したので、内服薬は医師と相談して服用を取りやめた。
これで当面の苦労は消えたが,体内に棲むガン細胞を撲滅する手段が失われた。やがてより大きな課題が再燃する事となろう。
たしかにこの処方薬が、苦しい夏の一因であった。
2つ目は、障碍者認定の有力な要因となった医療用酸素の方式変更に伴うトラブルであった。
この夏ほぼ1年間利用してきた酸素濃縮器に拠る酸素発生方式から、液体酸素貯蔵方式利用に切替えた。
液体酸素方式は、大病院のそれと同じ供給方法であり。おそらく外国由来の方式であって、国際的基準に則っていることであろう。
この辺の記述が曖昧なのは、ほぼ1年間利用してきた経験からである。供給業者の接触営業マンを通じて、取扱商品の全体構成を知ろうとあれこれ務めたが。実に秘密のベールが周到に係っていて、殆どなんの成果も得られなかった。
この間も複数の供給業者と接触しつつ、インターネット検索などで知見を広めようとしたが。監督官庁とその傘下にある供給業者の結束の壁は厚く、全ての入口は、主治医にあるとばかりに冷たくいなされた。
ここにもまた、ニホン的な保険システムの歪みをみる思いであった。
ここでニホン型保険なる特異に歪んだガラパゴス経済について論じてみよう。保険なる経済行為は,明治になって官主導で外国から導入された。近く江戸時代まで遡ると、この欧州由来の民間発の相互救済の仕組はこの国には存在しなかった。
官僚が鳴り物入りで,海外から招来したカタチとなって、導入され。官業システム独特の歪みを伴なって、紹介・導入されたので。あの有名な前島密がスタートさせた郵便事業と同じような変則概念が備わる。
あくまでも医療用酸素の提供は、健康保険の中の一サービスでしかないのだから、保険者である国(=厚生労働省)と医師と保険料負担者との三者が一体となって,運用されるべき私的経済事業であるべきだ。よってこの場合、保険者たる国は、行政行為でなく・すべからく私人としての立場で動くべきだ。
厚生労働省は、保険事業が本来経済行為の一端であると言う在り方に則り、一民間事業者の一員としての立場に立ち、民事法の範疇でのみ行動すべきである。
経済行為はすべからく私的活動となる=これが人類の常識である。この事の証明は、翻訳語=経済学の語源たる古代ギリシャ語の「オイコノ」の由来に遡る事で容易に判明する。
さて、窓口に指命されている吾が主治医は、医療用酸素供給体制から供給業者が扱う商品構成の全容など知る由もなかった。患者もまたそこまでを医師に求めていない。
おそらく全ては、供給業者の怠慢と驕りに由来する『酸素だけに霧のカーテン』とでも呼んでおこう。
この際、序でだから。人体要素の老化および臨床的劣化を補う介助機器全体にに話題を及ぼしておこう。具体的には、メガネ・補聴器・車椅子・歩行援助のステッキなどが浮かぶ。
これ等の補助具を買替える度毎に、主治医の診断を受け、診断書の交付を受ける。そんな面倒な手続きを踏むケースがあるだろうか?寡聞にしてワットは知らない。
だがしかし、医療用酸素の提供に限れば、供給業者の変更の都度・供給機器の変更の都度、全てコト細かに医師から診断書を給付されねばならない。何とも煩わしく、しかも手間倒れ・金食い虫である。
霧のカーテンに閉ざされたわれわれ障碍者は、日本列島の中に住みながら。生涯を瀬戸内海の孤島に幽閉状態に遇されたハンセン氏病菌保持者と大差の無い扱いをされている。
さて、話を戻そう。
液体酸素貯蔵方式に切替えた夏の半ばの頃に戻ろう。
この方式を使ったのは,ほぼ1ヵ月半であった。今は元の酸素濃縮器方式(主に在宅時の据え付け型。外出時は酸素ボトルを携行)に戻っている。
この2方式の優劣を単純かつ早計に論ずべきではないが、それぞれに一短一長がある。
液体酸素を選択した理由は、リハビリに毎週2回通っている。小さい容器に分蔵して携行する点で優れていた。ほぼ1日分だが、在宅の据え付け容器から小分けして、コンパクトな分蔵容器に収容することが毎日の日課となった。こっちの小型容器は、1kg強の重さしかなく、腰の高さに吊るしたまま、リハビリの運動器材を操作することができた。傍目からみて、酸素吸入の仰々しさを消しやすかった。しかも、供給不良時のアラーム音が備わってなかったこともメリットであった。
デメリットは、過冷却呼気の吸入とワットの健康維持との関係にあった。
酸素<元素記号=O。原子番号=6 原子量16 非金属元素>は、大気中に体積で約21%、質量で約23%含まれる。化学活性度は高く、他の元素と結びついて容易に化合物を生成する。なお、大気中の大宗は,窒素ガスで化学的に不活性である。
液体酸素にしてハンドリングする理由は、気体酸素比(観念的容積比)800分の1に圧縮できるからだが、沸点約183℃以下を保つために使われるエナジーもまた膨大なので、環境維持の面を考えれば痛し痒しである。
因みに、地球大気に気体酸素が混じり始めたのは、約30億年前からである(但し炭酸ガス状態での存在を除く)。
液体酸素方式でも病院や在宅据付容器から放出される呼気は、常温水が封入された容器を経由してから吸込むので何の課題も招かなかいが、外出先で使う小型分蔵容器の方は、それが無く直接放出されるのでとても冷たい。
日々鼻の下に鼻水が溜った。
ところで、幼児期ハナブサ・ヒサシ君は、青鼻汁が垂れ下がる事が多く、周囲からハナミズ・タレルと度々からかわれた。齢い70歳を過ぎて,再びそのような危機に遭遇する事態になったが、傍からの見えようはさておき、冷たい呼気は、我が身の健康にとって深刻であった。
ワットがこの夏ダニに悩まされたことと関係した主因と今では考えている。
生来寒冷アレルギー症の体質であり、成長期の青鼻汁もまた、慢性副鼻腔炎の一症状であった。
この小型分蔵容器に、液体酸素固有の過冷却呼気の課題を解決するであろうヒーター機能が備わっていれば、課題は回避できたかもしれない。
よって、今のリハビリ業は、元の酸素ボトル携行に戻った。デメリットはもちろんある。
手持ちの登山用リュックに最小タイプのボトルを収めて、背中に担ぐ。
ボトルが円筒形なので、どこであれ収まりが悪い。リハビリ時も在宅時もうっかり屈み込むと背中から首筋・後頭部を直撃せんとリュックともどもボトルが走る。外観がせめて楕円形など,人の体型に馴染むように変更してもらいたいものだ。
デメリットは、まだある。こっちのタイプは、呼気を間歇供給モードにしておくと、吸込みを感知しない時アラーム音を発する。ボトルシステムには警告音を消すためのスイッチが備わらない。
広いリハビリ室や公開講座の教室一杯にけたたましく鳴り響き、満座の厳しい眼差しを浴びる事になる。
この酸素ボトル専用コントローラーの設計不備及び設計改良に拠るON・OFFスイッチの配備については、医療用酸素供給業者の接触営業マンを通じて、メーカーに対して、何度も要求を伝えたが。これまで具体的なリスポンスは無い。
これもまた、供給業者と監督官庁の関係に由来する怠慢と驕りに由来する『霧のカーテン』が隠してしまうようだ。

北上川夜窓抄 その38=古川古松軒 作:左馬遼 

今を去ること約230年前、北上川流域を江戸に向けて南下して行く集団があった。
幕府巡検使の一行である。
そもそも幕府巡検使とは何か?だが。
天明8・1788年その随員として一行に加わって、蝦夷・東北を旅した古川古松軒が残した旅日記=「東遊雑記」により、その概要を窺い知る事が出来る。
ここでは、1964年平凡社から東洋文庫として刊行された現代語訳に拠り。
その編纂者=大藤時彦民俗学成城大学教授)が解き明かした解説などを引用し、型どおり紹介してみたい。
幕府巡検使は、第3代将軍徳川家光が始めた。以後将軍の代替わり毎に、派遣され、制度化を見た。
予め、巡回ルートも・立寄先も決っていて。以後先例として忠実に履行された。その目的は、諸国の藩政や民情を視察することにあったから、受入側の諸藩は相当に緊張して迎えている。
言わば、招かざる客の典型だが。他方でほぼ同時代に行われた朝鮮通信使の送迎とほぼ似たような風情があったかもしれない。
古川古松軒<1726〜1809>が、参加した時は、江戸期も後期で。第11代征夷大将軍家斉<いえなり>が、前年に将軍職に就任しており。それに伴い派遣された幕府巡検使であった。
旧暦5月6日に江戸を発って、10月17日に帰着したから。約5ヵ月超の日程であった。
日程の概要は、陸奥国の南端である白河の関まで5日間、そこから会津越後街道を西進して会津地方を巡歴し、言わば福島県域の最西端の布沢に達し、そこから東の方へ折返して、郡山・福島を経た後に、板谷峠から出羽国南半部=山形県域に入った。よって、福島県域を旅したのは概ね1ヵ月弱であった。
次いで、山形県域に約4週間。
かの有名な有耶無耶の関を越えて、出羽国北半部=秋田県域に約2週間滞在。
そこから矢立峠を通過して、陸奥国の最北端に位置する津軽藩領に入る。約1週間、藩領内に留まる。
津軽半島の先端部三厩から津軽海峡を渡海して、蝦夷地へ。
渡海地の三厩へ再び戻ったのは,ほぼ1ヵ月後だから。蝦夷地滞在期間は、ほぼ1ヵ月強だが、そのうち10日間は、対岸松前で海峡越えのため日和待ちしている。
因みに蝦夷地巡歴先は、渡海起点たる松前からほぼ北方方向へ半径60kmに位置する日本海沿いの乙部まで進出した後、海岸沿いに松前まで折り返し。
今度は、東の方に当る函館方面に向かった。
最も遠い到達地点は、黒岩岬(松前からほぼ東の方向へ半径80kmの位置)。津軽海峡に面した沿海部で、そこから折返して松前まで戻った。
松前で日和待ちに10日間を費やした後、どうにか海峡対岸の三厩に達した。
当時は帆船時代だから、対岸は望見の範囲にあっても、風待ちのために想定を越える日数をとられるのは已むをえなかった。
三厩上陸後約1週間で本州最北端訪問地の田名部<現・青森県むつ市。旧・南部藩領>に達した。
そこから太平洋岸に沿い南下。八戸からは、内陸を向けて西に進路を取り、花輪盆地を目ざした。
因みに花輪盆地とは、現在の秋田県鹿角郡&鹿角市に当り、古代から希婦細布<けふのせばぬの>で知られる細布・紫染め・茜染めなどの産地である。
中世以降から現代までは、日本有数の金・銀・銅・鉛に恵まれた鉱山地帯であった。しかも地理的に奥羽山脈の脊梁を跨ぐように立地する。しかも日本海に注ぐ米代川の最上流部に当る。
行政的には陸奥国(後に南部藩領)に属しながら、上古の蝦夷反乱時には出羽国庁と並存した秋田城制<いわゆる軍政管轄のこと>の下に置かれることもあった。
そんな内陸奥地特有の事情もあって、藩領境界をめぐる対立・抗争は、中世から近世まで通史的に見られた。
対立抗争の当事者は、終始支配を維持した南部氏・古からの名族である安藤氏(十三湖〜檜山<現・秋田県能代市>〜土崎湊<現・秋田市>=後の秋田氏)・津軽氏の3勢力であった。
明治4年以降は秋田県に所属している。
花輪盆地についていささか脱線した。
幕府巡検使の巡歴行路に戻る。
むつ湾の田名部から太平洋岸を八戸まで行き、そこから内陸の花輪盆地に向かってほぼ西方へと進路を取り。奥羽脊梁山脈を東から越え、尾去沢で折返して,今度は同じ山脈を西から東へと越えた。北上川の源流付近に達したのは、田名部出立から約10日後であった。
ここで言う源流とは、古川古松軒が訪れた弓弭の泉である。源頼朝が行なった不思議な事象について古川は否定的な見解を述べており、現代人に通ずる合理性を備えていたようだ。
因みに、北上川の源流は、複数説があり対立する。本稿で既に採上げたので再論しない。
北上川に沿って南下し、南部氏城下の盛岡を経て、水沢まで下った。
水沢からコースを変えて東に向かう。北上高地を越えて、太平洋岸を目ざす。
気仙川の河口都市=陸前高田で、広田湾を望見した。弓弭の泉を離れてからほぼ1週間が経過。
左手に太平洋を眺めながら、気仙沼を通過して、津谷<本吉>まで海沿いに南下。そこから海を離れて、内陸に分け入り再び北上高地に踏込む。千厩を経て、中尊寺に至る。
ここで北上川に何度目かのコンタクトをするが。最後に北上川と分れたのは、水沢だったから。まっすぐ川沿いに南下していれば、ほぼ1日の行程で水沢から中尊寺に達していただろう。
しかし現実の経路は、時に海めがけて山越えするなど、大きく行きつ戻りつした。約1週間を要している。
巡検使の旅そのものが、各地巡歴にあって、さして急ぐ旅でない事の証でもある。
中尊寺の後も、達谷・一の関・有壁姉歯・若柳など迫川<はざま・川>沿いに進み、北上川を離れつつ、北上川河口の石巻に達した。
石巻からは再び内陸に向かい、涌谷・古川・中新田を迂回したように行き、仙台湾の中の松島にほぼ戻るように達したのは、中尊寺を出てから既に1週間強が経っていた。
松島を発って、塩竈多賀城跡・仙台を経由して、仙台湾阿武隈川河口の町=岩沼に達し。この川に沿って遡行し、白石まで。
白石を発ち、越河<こすごう>まで南下し。そこからまた白石に戻っている。今日で言う国道4号を僅か往復(片道10km程度)しただけだが、巡検使の旅としては、比較的郡界を究めている例が多いのだ。よって今日では真意を解しにくいが、郡界や藩境辺など兎角争乱が起きやすい地域を巡回したのであろう?
白石から角田・金山を経て坂元に達し、太平洋岸を南下するルートを採り。駒ケ嶺・相馬<中村藩城下>・原の町・小高・富岡・四ツ倉・平<現・いわき市>と海岸沿いに南行した。
鮫川河口の植田で太平洋岸を離れて、内陸部を鮫川沿いに遡行し、石住・竹貫・棚倉・東館を経て、茨城街道に沿い陸奥国界を離れたのは、白石出立から11日目であった。
都合,帰路の陸奥国滞在期間は、約1ヵ月半であった。
陸奥出国後は、水戸を目ざして南下し。石岡・牛久・松戸を経て、5日目に出発地の江戸に戻り。全行程約5ヵ月超の幕府巡検使の旅は終った。
冒頭にも問題提起したが、そもそも幕府巡検使の狙いは何だったろうか?
第3代将軍家光が初めて以来、制度化し。将軍の代替わり毎に、各地に派遣された。
同じ時期に始められた参勤交代とバランスを採るために創案されたとも考えられる。
どちらも軍事行政の必要から生じた軍役の一部との見方が成立つ。他方で民政に及ぼす影響を考えると,その波及効果は実に大きい。
参勤交代は、地方から江戸への移住者を急増させ、小判使いの金本位制が全国規模に格上げされる経済・金融効果を招いた。江戸は消費経済において、自給能力をほぼ欠いていたから。コメはもちろんとして、酒からミカンまでほぼあらゆる生活物資を列島各地から集めた。
そこで、近代国内海運が一挙に起ち上がった。
その中でも名高いのが、檜垣廻船・樽廻船・バックアップ的かつ全国商圏の北前船<厳密な造船学に従えば、弁才船>である。
今日はこれまでとします。

高尾山独呟百句 No.12 by左馬遼嶺

瞼には  ハイビスカスに  ザワワあり
〔駄足呟語〕
過ぎた6月沖縄を訪ねた。
その背景を述べると、いささか厄介だが。
要するに、前回の沖縄の旅での帰路、那覇空港のカウンターで、医療用酸素を航空機内に持込もうとして、トンデモナイ苦労を味わったことを、ブログ日誌に書いた事があった。
それを読んで。健常者が、障碍者とは思わぬ辛酸を舐めさせられるものだなあと、思ってくれる事を期待して、あえて記事にしたつもりだが・・・・
世の読者は様々だ。同じ苦心をもう一度味わうべしと思ったか?わざと同期会の会場を沖縄にセットした,酷い同期生が居たものだ。
と言っても、会への参加は自由なのだから、欠席する手もあったが。参加状況を伺うと,皆が出ると言うではないか。そこでワットも行くこととなった。
ただちに旅の目的が追加された。
前回の旅で酸素ボンベの手配が洩れていて、そのリカヴァリーを見事にこなしたホテル・モントレのホソカワ君を訪ね、再びお礼を言上しようと言う事になり、当地金沢ゆかりの銘品を厳選して手交した。
快く面会に応じて戴いた事にあらためて感謝を思い、口にした。
年齢を増すごとに,感動は薄れるが。若い人の活躍にはおおいに期するものがあり、帰路のレンタカーで、沖縄の産業を少し知りたいと思い直して、わざわざ製糖工場に立寄った。
しかし、道路沿いに立地する工場では、サトウキビを絞る工程のデモンストレーションは、午前中だけとの事で、見学する事は出来なかった。
パックされた黒糖をほんの少しだけ買い求めて来た。
途中、トラックの荷台に,溢れんばかりのススキ様の植物を満載して行く軽四と、繁くすれ違った。それがザワワを収穫してから処理工場に運び込む車両であった。
閑話休題
沖縄の花は、温帯降雪地のそれとは趣きが異なり、派手にして豪勢だ。
まず憶い出すのは、色鮮やかなハイビスカスの赤い花だ。
ブーゲンビレアなどと同系であろうとガンを付けてみたが、外れた。
アオイ科フヨウ属と言うから、オクラの花に近い系統らしい。
オクラは、その昔。自家菜園で,自分の口に入るものは何でも自分で育てようとばかりに、無知の突っ張りで、俄百姓を始めた時に,選んだ食材の一つであった。
春の早い時期に、苗を購入して定植したが、寒い日があると自然消滅してしまい。慌てて苗を買替えに行った事があった。当地ではカッコウの啼くまで、寒波の襲来を畏れよとする金言がある。
さすれば、オクラはやはり暖系の植物で、吾が温帯では一年草扱いとならざるをえない。
オクラを自ら植えたから、オクラの花の美しさを知りえた。淡い薄黄か・上品な薄色の淡緑だが、朝の農園では一番の美人だった。
サトウキビだが、熱帯圏ニュウギニア辺では、相当早い時期に栽培されていたとする見方がある。
陸中国は,唐時代にもう、この甘蔗<かんしょ>なるものを利用していたらしい。
詳しい事は不明だが。落語に「附子<ぶし>」がある。寺の中での砂糖貯蔵をめぐる笑い話だ。
漢方薬でもあった背景も含め、一部の留学僧が知り、彼等の身の回りにあった事情を語る逸話であろう?
中国は、この栽培法や砂糖の製法を、長い間,門外不出として来たらしい。
ザワワの国内産地は、主に奄美と沖縄だが。奄美大島には、慶長15・1610年福建省に漂着したことを奇禍として、彼の地からサトウキビの苗と製糖法を密かに学んで還って来たとの伝承があると言う。
この地域の特産品を藩財政立て直しの踏み台にして、農民収奪を強化したのが、薩摩藩であった。
一説に,砂糖の販売益が薩摩藩に幕府転覆の軍事的成功をもたらしたとする見方がある。
ただ、砂糖の流通は、幕府の独占した長崎出島口での貿易との抵触もあり、その痕跡を辿る事は難しい。
シュガーロードなる勇ましい話題は,各地に残るが、いま一つ具体的に掴めないのが、海運史の実態である。砂糖の消費が増大するのは,文化文政時代以降であろうか?
以下は全く机上の空論だが。幕府の奢侈禁令の対象品に組込まれることもあったから、北前船なども、おおっぴらに積込めなかった事情があったかもしれない。
更に、砂糖は高価でも、どこでも捌けた。しかし、その商品特性から取扱注意であり、バラスト扱いとされたかもしれない。そのため海運記録文書を以て追跡しにくいとする見方もあろうか?
なお、バラストとは、型どおりに説明しておくと。
船舶の操船を安定させるため,舟底に積込む材料類を言う。
現代の海外運航船では、バラスト水として、どこでも調達し・いつでも放棄できる海水が一般的だが、生物環境汚染や外来生物の侵入などの諸問題から、その処分は厳しく規制されている。
北前船の時代は、石や瓦などが一般的なバラストであった。出港地で積荷が少ない時に、安価に入手できる・嵩張らない・重量物が選ばれた。そして積荷が増えてきたら、何処でも直ちに手放された。
最も有名なバラストの例は、越前国福井県三国港から積み出された釈谷石である。
最終運航地である北海道の日本海沿岸各地に下ろされ、その地の建造物礎石や神社の灯籠石・階段葺き石などに有効活用された。

いかり肩ホネ五郎の病床寝惚け話No.14

この夏はどうにか過ぎた。
暦の上での夏は、ふつう6・7・8の3ヵ月である。
もう9月だから、もう秋である。
遡ってみたら、8月中この稿を全く執筆しなかった。
何故か?回顧して背景が判った。
ブロイラー・ハウスの住人がダニ族であることが判明するまで、執筆意欲が殺がれたからだ。
人生を70年以上やっているが、ひと月のうちに、異なる皮膚科を2度受診したのは、吾が生涯をもってして、初めての珍事であった。
全身が満身創痍となる悲惨さを想像されたい。
関東圏の住人は、毎日の雨に辟易したと聴いたが、これもまた異常の事態ではある。
彼の地のO-157の発生なども、吾がダニ事件と大同小異の状況であろうか?
でもダニで、生命を盗られる事は無いかも。でも正気は失う事態だった。それが証拠に、この稿の執筆が1ヵ月飛んでしまった。
原因の特定に悩んだし、医師の判定を受けて、ほぼ原因が決まっても、それに対応した対策まではドクターの守備範囲ではなく。まさに吾が事なので、実は今だ対策は完了しておらず、ジプシー暮らしをしている。
対策なるアクションには費用支弁の課題が伴うため、資金計画と発注行動が必要だからだ。
年内に対策が完了し、来夏に再発しないことを確認したら、ジプシーの漂白生活を打ち切りたいものである。
当面の願望としては、一日も早い自室での就寝に復帰することを目ざし、ジプシーの流浪生活から脱出したいのだが。その前提たる簡易組み立て式木製ハンモックが入手できる事如何である。
ネックは、おそらく木製にあって。注文生産となると,製作者との遭遇や予算交渉が大きな課題となろう。
さて、ほぼ1ヵ月の原因探求をめぐるダッチロールを詳細に論じてみよう
 ◎ 昨年9月に今の住まいに移って来た。よって、現居室での本格的夏は初めてだ。
 ◎ 旧居は木造一戸建てに対し、現室はブロイラー・ハウス。
     世の人が言う中古マンションだが、コンクリート外壁の気密度は、築
     25年経過といえ、比較にならず高い。しかも高熱密室だ
 ◎ 旧居では6畳間に簡易の木製ベッド1個を置いて寝ていたのに対し、現室は間取りの都合もあって、ベッドの周囲に蔵書を胸高くらいに積んどくだ。本はダニの住まいだと聞く
 ◎ この夏は,北陸もまた他の例にならって,雨がちであった。
 ◎ 更に加えて,運悪く。医療用酸素の供給業者を切替えた。
     従来は、酸素濃縮型のため、運転中の騒音を嫌って,遠く廊下に置き、
     延長パイプにより自室で酸素吸入を受けながら睡眠をとった。
     この8月の始めから、液体酸素型を採用したが、延長パイプの長さ制限
     もあって、自室のベッドサイドに置いた。
     この酸素発生機は、約70kgの重さがあり、ラグビー用のサンドバッグく
     らいに図体が大きい。
     その器材が供用開始以前に、どのような環境に置かれているか?迂闊に
     も想像しなかった。こっちの原因追求・究明には制約があるが、工場内
     においてそのままそこで就寝する事例は少ない事であろう
 ◎ 病状だが。変化ないが、採血データは少し悪化傾向。
     この8月の始め頃に、内服薬が変った。
     それに伴う副作用。格別の説明無く,何かあったら顔を出せのご託宣。
 ◎ 皮膚に赤い斑点があちこち、痒くて耐えられない。そこで、付近の開業医・皮膚科へ。
     ダニなどの医動物に喰われたか・食物アレルギーか・薬疹か??
     初診患者に接しての無難な決まり文句らしいご託宣。
     もらった塗りクスリは、ほぼ効果なし
 ◎ 素人の看たてでも、上半身と下半身とでは、斑点のデザインが異なってみえた。
     数年前にも抗ガン剤の副作用があった。あまり正直な性格ではないが、
     持たされた副読本の記載例にある副作用が網羅して全部発症した。
     その中でも上半身の痒さを訴えた赤い斑点は、当時の皮膚科医が帯状疱
     疹と判定した。入院加療となったが、この女医とは仲違いして翌日退院
     した。そのまま放置したが、何事も無かった。
 ◎ その後の経過を見たが、症状も主訴も収まらないので。主治医を訪ねた。
     性格上、緊急外来扱いだが、運悪く主治医は不在。
     泌尿器科の代行医師は、皮膚科に判定を委ねた。
     右体側の後面に、手の掌に匹敵する大きさの赤い斑点=6つくらい噴火
     口が集積していた。帯状疱疹らしくもあったが、これの発症は生涯
     1度きりとかで、原因はダニとされた。こっちの塗クスリは効いた。
ここまで書いてきて,やや大仰だが。未だダッチロールの前半である。
まだ対策は未着手である。
対策のためのお宝の支出は慎重であらねばならない。
若い時に買い揃えた蔵書を運び出す作業は,老体に応える。
1年前の転居の際は、マイカーを10回ほど駆使して約500冊ほど払い下げたが、それを再現するつもりだ。その後でも身の回りにまだ2000冊くらい残るであろう。
この秋かけて、ジプシー暮らしを打切り・自室に復帰するブーメラン作戦を敢行することとしよう

北上川夜窓抄 その37=菅江真澄・番外 作:左馬遼 

北上川の川面を眺めつつ舟を浮かべ、川の畔を辿り歩いた人たちの評伝を探るシリーズ。菅江真澄編の第4編だが、前稿までに本筋は述べ終わったので、本稿は番外編である。
江戸中期、三河人が東北・北海道までやって来て、遂には秋田の地で最期を迎え、一度も故郷の地を踏まなかった。
この数奇な生涯を過ごした一奇人の心境に迫ってみたいものである。
菅江の残した業績については、既に多言したので再述しないが。地誌の作成など実に先駆的でもあり、ユニークである事は言うまでもない。
他の何人も成し得ないことを成し遂げる事にこそ、自らの存在意義があると確信したのは、おそらく津軽〜秋田の地においてであったろう。
当初菅江が、旅日記の形で作成したものは、擬古文で徒らに難解で意味が採りにくく現代語訳の必要な文章主体の旅行記であった。
しかし、津軽の地を立去った頃からは、訪問した各地の景勝・景観を絵図にすることに主体が移るようになっていた。菅江なりに学習し修正を図っていたのである。
では。その力は、どこで身につけたか?
菅江は、自身の生い立ちを明らかにしていない。
まず親の在所に関する見解だが。三河国のうちの岡崎説・豊橋説<=後述する東海道・吉田宿>と並立する。相互の距離は僅か20km内外である。
どちらも譜代大名の国許にして・代々の当主が幕閣を勤めるいわゆる三河武士の故地である。
菅江が旅に出る天明3・1783年(30歳)までの行動は、研究家・内田武志が推測しているので、それに従いたい。
菅江の本草学の師は、尾張藩医の浅井図南であったらしい。この人は、京都の人で、本業の医術の他に、文にも画にも秀でていたらしい。墨竹を描く手腕については、当時平安の四竹と呼ばれるほど上手であったそうだから、若い菅江は名古屋の地に出て、浅井から本草学を学びつつ、絵の方も手ほどきを受けたことであろう。
因みに、尾張国名古屋と三河国岡崎とは40km・豊橋だと60kmと離れていない。
ここで忘れてならないのは、江戸期の街道=東海道沿線の開放性についてである。
ここでの開放とは、情報の流通と共有を言う。
江戸幕藩体制は、列島を約300ほどの大名が分割統治し、本来的に閉鎖体制であった。
各藩の内政とは別に、外交を江戸幕府征夷大将軍の専権事項として管掌した。
その幕府政治の中核は、幕閣つまり老中そして老中首座の手元にあった。
老中や老中首座は、譜代大名から選ばれる。その領国=いわゆる国元が、概ね東海道沿線に集中していた。
東海道の開放性は、沿線が大名分国でありながら、幕閣の国許であるために江戸との情報格差がほぼ無かったばかりか。伊勢参り庶民層の出入り多い土地柄のため各層間の情報格差もまた無いに等しかった。
菅江はかなり後年まで。滞在先の東北各地からかつての国学の師である植田義方と文通しているが。その植田の居住地は、三河国の吉田<東海道吉田宿=後の豊橋>である。
ここで三河武士について、型どおり述べておく。
徳川宗家を含む十八松平氏は、家祖を共通とする親族および家臣団だが。発祥の地は、三河国加茂郡松平(現・愛知県豊田市)とされる。
岡崎藩は、その中でも家康の生誕地として江戸期を通じて重要視された。本多〜水野〜松井流・松平〜本多と5万石クラスの譜代が統治し、いずれも幕閣を占めた。
岡崎と言えば、八丁味噌が有名だ。長谷川町子の名作漫画に登場するご用聞きは、「みかわ屋でござい」と名乗っていた。徳川家の中核をなす家臣団は、江戸に移った後も、遠い故郷の豆味噌をもって手前味噌としていたようだ。
次に菅江の三河時代を考える場合、世に言う田沼時代を取り上げる必要があろう。
田沼時代とは、明和4・1767または安永元・1772〜天明6・1786までを言う。
老中・老中首座に田沼意次が着いて、重商政策などの積極策に転じた。
9代家重&10代家治の両将軍時代に当り、8代吉宗の改革を引継いでいる。
更に蝦夷地開拓などへと展開した。貿易振興策であろう。
田沼意次の国許にも触れておこう。
宝暦8・1758年から遠江国相良の城持ち大名となっている。相良<現・静岡県牧之原市>は、海岸沿いの町で街道から少し外れるが、やはり東海道である。
江戸期のキャビネットロード・メイクロード上にある。
田沼は、旗本上がりの側用人から身を起し、2代の将軍に気に入られ遂に城持ち大名に出世し、老中・老中首座に任じた。
この眼の覚めるような田沼の立身出世の事は、菅江の耳にも街道の噂<仮に岡崎在住説であれば、三州岡崎〜遠州相良間は約97km>もしくは上掲植田義方<三州吉田〜遠州相良間は約77km>経由で入った事であろう。
田沼政治のうち蝦夷地開拓が、格別に菅江を刺激したかもしれない
次に豊橋<三州吉田>藩だが。
上掲の植田義方が年寄役を勤める有力町人であった。菅江の親の在住地とする説もある。
藩主松平信明<1763〜1817 第4代藩主・大河内流松平氏第7代当主=譜代大名>は、菅江とほぼ同時代を生き。老中そして老中首座を勤めた。
この殿さまは、田沼政治にごく近いスタンスにあった人物である。
松平信明が幕閣在任中、さらに幕府財政は破綻へ向けて悪化しつつあった。
長崎・出島口がもたらす貿易の巨利は、もちろん大きいが、その成長性は頭打ちであった。
課題の外交は、四周を海に囲まれる列島の常で。新しく台頭したのが、ロシアの軍事力を伴った北方からの進出と・太平洋に出没し始めた米国系の捕鯨船であった。
いずれも異国=夷族どもで、征夷大将軍の所管事項=外交であった。
さて、田沼時代と松平信明執政時代との間に、松平定信執政時代が存在する。
将軍は11代家斉に代っており、寛政の改革が有名だ。名のみ改革と華々しいが、旧来の質素倹約を訴え、幕府草創期のパラダイムへの回帰を唱えるような内容でしかなかった。
因みに松平定信の国許は、陸奥国白河<ただし養家。定信は将軍吉宗が立てた御三卿・田安の7男>である。奥州街道筋の宿場城下だが、鉄道も自動車も無い時代だ。東海道沿線の開放性には遥かに及ばず、きわめて閉鎖的であったろう。
さて、世に田沼時代は、賄賂政治と揶揄される嫌い無しとしない。蝦夷地開発など積極策に乗出し、商人資本との提携など、幕府の財政失陥を補う奇策を打出した。
武士道一点張りの古いアタマしかない徳川家臣団にはいささか理解困難であったろう。
この田沼施政の積極策が、若い菅江に届き、蝦夷地に行ってみたいと思わせたようだ。
実家は岡崎か・豊橋か、またはその双方の武家出入りの商人であったと考えたい。
菅江の本名は、はじめ白井英二。秋田に定住した文化7・1810年(57歳)頃から、菅江真澄の号を使い始めた。さすれば、その境遇は、商家の次男坊だ。
儒教思潮の強い状況の下では、現代と異なる社会通念が横行した。
その頃の用語は現代の常識からすれば差別用語である。そもそも掲出を憚るべきだが、適確に記述する必要があるので、已むなく使用することを許されたい。
嫡男=思想不穏・身体不具など格別の事情が無い限り長男が選ばれる=以外の男子は、あらゆる点で不要の存在であった。
けだし、居候<いそうろう>、穀潰し<ごくつぶし>。
その嫡男に男子が誕生すると、種叔父<たねおじ>などと呼ばれ。一層その不要とされる度合いは増した。
因みに、江戸期における農家は、武士の俸給を担う納税者だ。
新田開発など税収増加が見込まれる場合を例外として、既存の田畑を分割して複数の子に相続させる事は許されなかった。
それを口に出す事すら「たわけ」と一喝された。漢字を当てると「田分け」である。
商家の場合は、そこまで厳しく統制されてはいなかったようだが。菅江の実家が仮に武家出入りの城下商人であれば、ほぼ武家・農民と同様の規範遵守を求められた事であろう。
打開策はある。
菅江の親”白井の父”が、有力なコネで”次男坊の英二”を他家に養子に押込むか・資力を以て次男坊の独立を要路に認めさせるか
どちらの打開策も、英二30歳までに実現しなかった。
それで菅江は家を出て、そのまま戻らなかった。
『家老の子は家老・足軽の子は足軽
これは家祖たる家康が定めた祖法である。
これほど、儒教色の強い締め付けは苛酷、非人間性において他に無い。
そんな時代に、田沼意次は一代で城持ち大名にまで化けた。
幕閣の上下にあって松平信明は、田沼と親しかった。互いの国許も情報的に近かった。
”次男坊の英二”は、蝦夷地で一山当ててやろうと起ち上がり。家を出た。そして旅先で帰らぬ人となった。

高尾山独呟百句 No.11 by左馬遼嶺

大空に  入道出でて  なに思う
〔駄足呟語〕
当地の梅雨明けは、つい先日他の地域に少し遅れて、知らされた。
当面の空模様が、早晩に雨がちに転ずるのは、台風5号の影響であろう。
台風発生が、7月中に2ケタ台に近づくのは、気象統計的に、希な事象らしいが。日本海方面を台風中心が通過するのは、何かと被害甚大であるから、願い下げにしたいものだ。
眼の前の大空には、いつも豪快な真っ白い入道雲が、出ている。
少し見ぬ間に、高く立上がり、みるみる変形する。
北陸は、通年雨がちの土地柄だが。周囲の多くの人がカミナリの被害に遭っている。
下界からは見えないが、年がら年中、雨雲の上は、ほぼ入道雲が支配しているのであろう。
カミナリと言うくらいだから、雷光も怖いが。雷鳴もまた豪快だ。
特に、冬期のそれを「鰤起し」と呼ぶ。
沖合で眠っているブリを起し、もっと岸に近づけとカミナリさんが命づる声だとか・・・・
さて、先日。官立放送の気象予報員が、トピックス的に興味ある話題を述べていた。
なんと、金沢の地は、世界3大カミナリ多発ゾーンなのだと。
閑話休題
そうなると。他の2つは、どこだとなる。
答は、北米5大湖周辺&ノルウエーだそうだ。
地理・地形的に共通するものがあるかどうか、疑わしい。
強風性の卓越風と大気に湿潤を含ませる海流または大規模湖水の存在と大気撹乱を招きやすい高山地形などとの絡み、さまざまな要素の組合せが前提となろうか?
入道雲とカミナリとの相関もまた、素人には何とも言えないが、おそらく確率的に近いであろう?
地元の工業大学には、カミナリ研究の専門家が在籍するらしい。
カミナリ発生条件は、大気が静電気飽和に近い状態なのであろう?
それを低コストの自然エナジー源として転用したいものだ。
北陸の電気料金は、列島商業電源中で、最安値を維持しているが。更なるコスト削減と災害防止のためと再生エナジー発電源の多様化などの観点から、創造的研究を更に勧めてもらいたいものである。