川歩きの物語 穇

2017年の11月である。何も書けないまま一ヵ月が過ぎようとしている。
そんなことで、約1年半ぶりに 〔 川歩きの物語 穇 〕を書いている。
〔 川歩きの物語 〕を書いた2016年4月は、入院中であったが。実はただ今も入院している。
ここはインターネット環境が備わった大病院。
石川県ひいては金沢市の医療水準とIot環境のレベルを物語るようでもある。
簡単に入院事情を披瀝すると、今月初めに実家で法要があり。例によって,過疎地の交通インフラは最近とみに後退感が募っており,体験上からもマイカー出動となった。
そのついでに、取材地の歴訪をと思い立ち、奥入瀬などを含めて約1週間ほど連続して移動した。
折から東北は寒冷に向かって、気候変動もあり。白いものが散らつくような日もあった。
医療用の酸素ボンベを常時携行し、酸素の補給を受けながらの取材地訪問だから。
格別体力に訴えるような活動ではないが、本州北限地である下北半島の突端である大間を訪れた頃から,やや微熱を催していた。
そこで、次なる訪問予定の計画も未練もあったが、背に肚をと取って返す事にした。
主治医の見解は、体力の低下と持病のデータ悪化をもって、入院治療しましょうであった。
体力の方は、2〜3日の自宅休養でもって,ほぼ回復しつつあったが・・・・
月央から当面3週間程度の臨床サービス付き禁足刑に服す事とした。
さて、下北半島だが、全くもって観光地ではなかった。
最初の訪問であった。
狙いは、この川歩きの物語シリーズで,次に採上げるべき青森県の下見だ。
例によって予備知識=事前情報なしの行脚第一歩だった。
ざっとしたイメージだが、彼の地は全く農業には向かない風土のように感じた。
しかし、近年はあらゆる農産品目で成功している北海道の農業振興ぶりも見せつけられているので、
単に寒冷地である事をもって、ムゲに農業不適と斥けるべきではない。
しかし、南部藩政時代以来の馬産地であるから、栽培型農業には無縁と考えるローカル・パラダイムが存在するかもしれない。
その直前に訪れた奥入瀬下流にある三本木原は、かの有名な新渡戸家<にとべファミリー>が開拓に乗出し、その後国営直轄事業ともなった大規模農地開発である。
しかし、その名を冠した記念館は、既に休館表示があるのみで、何の得るものもなく,空しかった。
最近の社会的価値基準の変動は、著しいものがあり。旧態然とした先人の業績を評価する事もなく・先哲の忘却は激しいものがある。
地方素封家の財団組織が発展的に市町村に寄贈されると、一挙に「市蔵・文化財」でなく『死蔵・文化財』の憂き目を見る例が目立つ。
これもまた平和惚け現象同様の本末転倒後退化事象と思うと、この国の国民性のへたり具合に暗然とするばかりである。
その下北半島だが、北前船の盛んだった江戸期には、林産資源の積み出し地として、北陸に拠点があった銭屋五兵衛などが盛んに進出したように記憶している。
しかし、林業や鉱山業などは,資源が枯渇すると,たちまち火が消えたように、地域の産業が衰え,急激に人口減少に向かう。
林業の場合は、植樹など気の長い事業継続のための再投資が前提となるが、下北のケースは果してどうだったろうか?
海運と造船は,明治の政変をもって、木造帆船から鋼製動力船へと大きく様相を変えた。
かつて、江戸の初期に幕府天領産のコメを列島全国規模で輸送する企画が始まった時に、弁才船<べざいせん>なる乗組員節約型の効率追求タイプの船形が新造された。
その土地が、大湊周辺とする見解がある。
下北半島の地は、北上川のシリーズで採上げた古川古松軒が巡行した地でもあった。
その北上川シリーズだが、2015年春から起ち上げており、もうそろそろ終りにしたいと考えている。
更にその前の年=2014年春から始めた「もがみ川」だが、こっちも最終コーナーにしようと考えている。
NHKの朝ドラマと言えば、国民規模で人気を博した「おしん」がある。
もっとも中核になった舞台が最上川であり、基幹たる人生の礎を形成した町が、その河口なる街=酒田であった。
筆者は放映当時勤務の都合で、朝ドラとは無縁であった。そこで、現在DVD化された完全版ものを再生して観賞している。
最後に。次なるシリーズの予告だが、青森県の川=岩木川を予定している。
反時計回りの東北ブロックも残るは2つの県域となった。