北上川夜窓抄 その40=三浦命助 作:左馬遼 

北上川の上流域は、南部藩領である。
三浦めいすけは、百姓・命助(or盟助とも書く)として知られる。
盛岡南部藩領の栗林村<現・釜石市>に、文政2?・1819年頃に生まれ、文久4・1864年盛岡城下の牢内で死亡した。
因みに、百姓とは、かなり尊大ぶった肩書のようだが。おそらく「只の人」の意味であろう。
脱線して脇道に逸れる。四姓<源・平・藤・橘=賜姓>以外の者。つまり誕生時普通の出自であった者との意味になろうか?
脱線ついでに更なる断わりを。
冒頭の南部藩とは、則ち江戸時代と言う意味である。藩と書く事で、江戸期幕藩時代の南部氏に限定する。
南部氏の出自は判然しないが。奥州藤原氏源頼朝が滅亡させた(文治5・1189年7〜10月)直後に、藤原氏の遺領となった空白地帯に進出した武門武士の末裔であろう。血統連続したと仮定してざっと700年間続いた。
その本拠地も八戸〜遠野〜盛岡と移動したが。城下の南下につれ・子孫継嗣につれて、家運が下降した例と言えよう。
”なんぶ”なる呼び名からして、本貫の地は、甲斐国であろう。山梨県岩手県も馬産の地である。その共通性からして、おそらく気質の面で相似通うものがあったろう。
既に二つ脱線したが、三つ目の脱線。
百姓・命助の出生地である釜石市は、太平洋沿岸の大都市だ。飛躍の基となった製鉄産業の勃興は、比較的後世のことである。
9・11による大地震・大津波以後に訪れてないので、更なるコメントを控えるが。江戸期における当地は、仙台伊達藩領との境界地であったことを肝に銘じておく必要がある。
ここで何を言いたいか?だが、北上川の畔を行きつ戻りつしていると、何をもって県境としたかが判らないうちに通過している事に気づく。
現在の岩手・宮城の間の県境とその昔の南部・伊達の間の藩境は、難しく入組んでいて、混乱を招きやすい。藩境は、内陸部で約20km・沿海部で約40kmほど現在の県境より北方にあった。仙台藩宮城県になる際に、南に後退(=面積縮小)させられたのである。
明治新政の地域行政区分は、奥羽列藩同盟の盟主に対して、そのような意趣返しまたは悪意を孕んでいたかもしれない。
明治政変後約150年も経過し、ややもすれば、県域レベルで空間軸を描きがちだが。過去の歴史事象を後世的予断をもって理解することは、誤解を招きやすいのであえて断わりを置いた。
閑話休題
ただの百姓が後世に名を残すことになったのは、命助が百姓一揆のリーダーであったからだ。
しかも彼が未決囚状態のまま7年間も獄に捉われ45歳の若さで牢死したことは、藩権力が恣意に任せて私人の自由を束縛しながら・個別具体的に裁判権を行使する事をためらったことを意味している。
一事不再理を回避したとも解せるが、そうなると7年間の獄中放置の理由が不明となる。そこに藩庁権力の思考水準低下と藩主家の家運没落を読み取るべきであろう。
その一揆の名は、三閉伊一揆<さんへい・いっき>と言う。
嘉永6・1853年に起きた南部藩最大の一揆である。
三閉伊とは、この時期の当地を指す呼び名で。三陸海岸の北部を指している。
南部藩は、寛文頃(1661〜1673or1684)に「通」制を採用し、藩領全域の行政区分として33通を設けた。
則ち三閉伊とは、野田通・宮古通・大槌通のことである。
次に一揆について概説したい。
百姓一揆と言えば、盛岡藩南部氏の統治領が本場である。
一揆は則ち飢饉なる生存の危機とセットであるが、列島最大の集中発生頻度とその都度の被害の深刻さにおいて、ここは他地域をしのぐ本場だ。
慶長5・1600〜明治2・1869年までの270年間に133回<下欄・注>の多発である。
南部四大飢饉を以下に掲げておく
  元禄8・1695年<奥羽・北陸で天候不順>
  宝暦5〜6・1755〜56年<奥羽で凶作>
  天明1〜7・1781〜87年
     <多雨洪水と日照不測から列島規模の凶作へ。
      特に東北など寒冷地が被害甚大>
  天保1〜8・1830〜37年
     <多雨洪水と日照不測から列島規模の凶作へ。
      特に東北など寒冷地が被害甚大>
飢饉発生の原因は、何に由来するか?その原因解明だが、太陽活動や全地球規模の日照不足を招来する大規模な火山噴火など色々考えられる。
列島規模で長期化した天明天保の2つの大飢饉は、小氷期であったかもしれない。
さて、133回と多発した南部藩領の飢饉・一揆だが、その内98回は、和賀・稗貫の2郡下で起っている。
この2郡は,盛岡以南に位置する内陸部であり、おそらく水田農耕が主産業であろう。水利灌漑は備わっていたとしても、前面海域に三陸なる世界有数の巨大漁場があり。その暖流と寒流が衝突する海域から生ずる海霧に由来するヤマセの吹き出す風下域でコメ作りをすることは、気象合理性を欠いていると言えよう。
水田の上級所有者ともくされる藩庁は、おそらくコメ作りを強制した事であろう。
何故なら,参勤交代(大名家臣の江戸滞在)など大名格に相応しい体裁を維持するには、織豊政権が樹立し・全国公準となった石高制に慣らい。兵糧米なる軍需物資を保持する必要があったし、当時の事実上の現物貨幣でもあったコメを持つ必然性があった。
食糧生産は、荒天時に備えつつ気候風土に則した植物種を選択すべきである。
いわゆる地域特産物だが、阿波鳴門の藍玉生産などに例を見るように。必ずしも穀物種に拘らない智慧もまた発揮されるべきであった。
例えば、アワとヒエとか、ハナマメ・ソバなど、必ずしも日照性を前提としない五穀に着目していれば、飢饉による被害は、軽減されたことであろう。
宝暦5・1755年には、死者数が50,000〜60,000人に達し、損耗高19万石と概算された。因みに、南部藩のこの時の石高<軍役表高>は、10万石であった。
この時の飢饉は、南部藩政史に残るおそらく最大の被害であったろうが、藩庁為政者が猛省したような様子も再発防止策を検討することもまたおそらく無かったであろう。
この頃の飢饉対策で無能無策ぶりを露呈した背景は何であったろうか?
その答を史的合理性をもって実証的に解明する事はとても難しいが。筆者なりに想像をたくましくすると、藩財政の破綻が最大の背景と考えられる。
南部の地は,古代から黄金・馬・鷹の羽・鷹の幼鳥を産出したが、天然資源としての鉱山は、鉱脈が枯渇したら急速に衰亡に向かい再開はあり得ない。
北上川以東の高山地帯は,我が国有数の金脈が存在した。おそらく18世紀の半ばに掘尽くし。連れて藩財政も急速に破綻したことであろう。金売吉次の故事や東大寺大仏開眼供養に先立つ産金の故事など、遠い過去の栄光になってしまっていた。
馬も鷹の羽・鷹の幼鳥も。18世紀の半ば頃には,国内平和が長期安定化し、鷹狩りなどが準スポーツ化し・贈答的限定需要に堕して先細りしていた。
騎馬軍団を備え軍事的に高名だった鎌倉草創期以来の雄藩は、民政面統治能力を欠き、財政失陥で縛られ。みすぼらしさが目立った。
藩政時代の列島全域には、領地を支配する藩主が総数270乃至300人ほど存在した。各藩が各個に独立して政治統治する地域分権性だから、他藩に対して救援措置を要請するようなこともまた無かったらしい。
江戸幕府もまた,征夷大将軍として軍事統括する立場から、各藩の内部事情を把握していても、自ら各藩に対して働きかける事も無かったようだ。
序でながら、封建前期・後期を通じて、領地替えつまり転勤をしなかったのは、この南部と遠く九州南端の島津氏薩摩藩だけだったようだ。
封建の思想では、土地に固縛されるのは百姓領民。領主・武士層は移動させられる原則だった。
さて、三閉伊一揆だが。弘化4・1847と嘉永6・1853の2度に亘って史料に登場するが、実質において1個の一揆と解される。
先の方は、幕府御用金6万両を藩内の町人・百姓にそのまま割付け賦課させようとした事に端を発した。藩政改革を訴えて領民12,000人が遠野に強訴した。無能なる藩庁は何らの対応を示さなかったので、後の年に一揆=動員総数1万数千人が再発した。
今度は課税重過・藩政改革を訴えて,隣の伊達藩領に逃散した。石塚峠には南部藩の平田番所<現・釜石市>と伊達藩の唐丹番所<とうに 現・釜石市>が並んでおり、総勢2,996人の領民が越境した。
石高62万石の大藩である伊達藩の対応は,まだましだったようだ。
三浦命助を含む首謀者45人を仙台城下に連行し、他の者は説諭して帰郷させた。
結果、一揆側の要求は、かなりの点で聞き届けられ。只の一人も処罰者を出さないカタチで終息した。
この三閉伊一揆の指導層・中核機動主軸は、三陸漁民であった。
かつての一揆の中心多発地域であった和賀・稗貫の2郡下のような耕作農民層とは、領民気質や藩庁との交渉作法すらおおいに異なった。
三陸海岸は,コンブの産出もあり、蝦夷松前藩に次ぐ輸出用俵物を特産物として産出・出荷する特異な海産域であった。この頃幕府は輸出の大宗を占める俵物を確保するため,産出地での直接集荷に関与し始めており。その点でも、南部藩庁は,江戸幕府政庁との接触機会も多かったらしい。そのような背景と機微は、一揆側領民も察知し、藩に対して強く出る遠因になったかもしれない。
だがしかし、藩庁役人は、一揆終息後も長く、三閉伊一揆の指導層に対して、根深い屈辱感を抱いていた。
一揆終息し帰村した後の命助は、間もなく村を出奔した。
故郷を逃れて一時的に留まった地は、隣の仙台藩領内であった。彼はそこで里山伏として暮らし、修験日記を残した。当時の村の生活ぶりや里に定住した修験者の役割などを知る事ができる民俗史料である。
そこで彼は、次に僧になろうと決意して,京都に向かった。
当山派に属す里修験であった彼は、その本山筋に当る京都・醍醐寺三宝院に向かった。
修験宗は、明治5・1872年に明治新政府により一方的に廃止されたが。最近刊行された岩鼻通明の著書=出羽三山によれば、修験者には妻帯修験<有髪・妻子あり>と清僧修験<髪は問わず・妻子なし>の2流があり。
前者は宿坊等を経営して参詣客を受け容れる兼業実業者像だが。
後者は修行と布教に専念する暮らしだったらしい。
命助が求めたものは、正式な出家僧の身分であったかもしれない。しかし、学僧・読経僧の道に進むことは,年齢的にも険しかったのではないだろうか?
彼の意図したものは、おそらく地域権力の司直の手を逃れる便法にあったであろう。
安心立命の道は、域外に根拠を構える巨大宗教権威の一画に身を起くことにあった。軍事力とは異なる権威に護られたいとする彼の願望は、結局叶えられなかった。
次に京都にある公家の家来になる道を目ざし,五摂家の一つ=二条家の家来になった。
格式どおりの衣装・装束に身を固め・供を連れて、公の立場で堂々越境できる筈であった。
しかし、南部藩庁は、身柄を拘束した。
上述したとおり、7年間獄舎に繋がれ・裁きを受けないまま獄死した。
彼が導いた一揆の年は、日本史上有名なペリー来航の同年であり・かつ直前であった。
その頃藩庁の獄に繋がれた者は多数あったし、運よく明治まで存命した者もいた。版籍奉還により藩が消滅した際に放免出獄を果した例もあった。
彼の奇異に満ちた生涯を辿っても、彼の考えが何処にあったか?それを知る事は難しい。
勝手な想像は浮かぶ。
彼は我が国の古い基層にある思潮である儒教の「仁政」・「政道」に関する漢籍知識を備え。他方で”底辺にある民衆を基礎に置く民本主義”とでも呼ぶべき現代人と変らぬ思潮を抱く教養人であったかもしれない。
語るべき草稿はもう無い。
以下は余談である。
 ○ 文化5・1808年南部藩は、石高20万石に改まった。しかし、当然にその前提となるべき所領の増加は全く無かった。幕府の決定は,藩庁の意向に添ったものとしても一挙倍増だ。飢饉の本場に立つ藩主として自らの立つスタンスに対して無知であり・藩庁もまた愚の骨頂である。
飢饉・一揆の相次ぐ寒冷地域にして、このような民政に臨む姿勢は到底許されない。
文化5・1808年は、天明天保の2つの大飢饉の中間に位置する時だ。
馬科な藩主は,江戸城内で家格が進級して、悦に入ったであろうか?
理解困難である。
追って、すぐに幕府から蝦夷警衛の任務が発せられた。馬科(?ばか?)な藩主に仕える役人ほど哀れな者は居ない。
 ○ 三閉伊一揆の発火点もまた幕府御用金を領民に丸投げした事にあった。俵物など海産物を産出する三閉伊地区により重く課税したことが、動員数1万数千人の規模に拡大した主因であったろう。
しかもすぐそこに幕末の動乱と開国の時期が迫っていた。
倒幕で主役を務めた薩摩は、俵物を琉球口を通じて中国大陸に運んで,軍資金を造成した。
一方の薩摩は、国内流通の最後端に位置して、新しい時代を拓く主役になりえた。
他方の南部は、俵物の生産と流通の端口に位置したが、何の働きもしなかった。
あえて、述べよう。
薩摩人の西郷隆盛は、陸軍創設の功労第1位である。
対する南部人は東条英機。陸軍解体の基を為した事実上の首班であった。
 ○ 三浦命助から彷彿される南部人を挙げておこう。新渡戸一族と原敬が咄嗟に浮かんだ。
    <注=飢饉や一揆のカウント数は一定でない。ここでは平凡社刊の歴史地名大辞典より引用した>
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早稲田大学名誉教授・深谷克己の著書に「南部百姓命助の生涯」がある
   朝日新聞社1983刊行
   岩波現代文庫2016刊行
本文で紹介した〔出羽三山〕は、2017年10月岩波新書より刊行された