もがみ川感走録第56 西郷南洲

この冬は、雪の降りようも大気の寒さも、例年になく厳しい。本格的な冬であった。
しかし、ついに節分だ。
待焦がれた春は、暦の上ながらも、もうそこに迫っている。
この過ぎようとする冬の間、吾が身は何をしていたかと問えば、身を動かすとも怠り。
ひたすらTVの前に、惰眠を貪る朝・昼・夕であった。
年が明けてから、世を挙げて?官営放送は、とかく西郷の名を吹聴している。
この2018年は、明治150年に当たる。
その手始めに採上げる人物が、果して「西郷どん」で良いのだろうか?
これまで彼の事は、西南端のどん詰まりに生を享けた出世オトコ程度にしか位置づけて来なかった・・・
だがしかし、「南洲翁遺訓」なる、彼の言説を書き留めた文献があると聴かされた。
その成立ちが、極めて異例であり。
もがみ川と重なる事実を知って。
ここに採上げる事にした。
「南洲翁遺訓」なる今日的古典は、明治の早い時期に成立したが。
その成立に、最上川流域の鶴岡藩が関与した。
明治3・1870年。旧・鶴岡藩の元藩主から家老・藩士らほぼ百名近い大集団が大挙して、鹿児島の地に西郷隆盛を訪ね。
その地でじかに聞き出した談話43編を纏めて”遺訓”として出版した。
ごくヴォリュウムの少ない内容だが、その訴えるところはとても奥深いものがある。
そしてあの西郷は、複雑・不可解な多義性のある人物にして、軍事謀略家だったが。思想家の要素もまた備わる思索の人であると知った。
さて、一般的な日本人の日本史に対する感慨はどうか?
ここで吾が乏しい日本史観を語るのはどうかと思うが・・・・行掛かりなのでお付合いを願いたい
おそらく。年号と事象の要約と登場人物=決まりきった顛末を述べて、ハイおしまいの紋切り型に終始しているのではないだろうか?
これはつまり、能吏型官僚養成的つまり大学受験限定型の断片的知識を以て、全て完結と決めつける入試対策措置でしかないのだが。
如何せん、これが現代の経済効率最優先型の生き方であり・この程度の拙速・安易でもって対策終れりとする。
最新流行路線であり・国民的パラダイムなのだ。
反論ある方はどうぞ
とまあ、余計な前口上はこれまでとして本論に戻ろう
”明治政変”を型どおり述べるとしよう。
のっけから脱線だが。”政変”なる筆者独特のコトバ使いについて触れないわけにはゆくまい。
世間一般では、明治維新と言う。そのようなコトバを出来れば使いたくない。
たかがコトバ・されどコトバである。
では、「政変」と『維新』とは、どれほどの差があるだろうか?
実は筆者の側に、明確な回答は用意されてない。
「政変」なるコトバの出典を示しておこう。
大佛次郎著・「天皇の世紀=13巻63頁」に出てくる。
王政復古の大号令<慶応3。1867>の内容を聴いて、アーネスト・サトウ<英国外交官・この時は公使館付通訳>が「政変」の内容を理解したと書いてある。
彼の発したコトバの訳語か?著者大佛が要約したコトバか?は、不明だが。ものごとの始まりを等身大の大きさで捉えた適確な表現語であると考えたい。
他方の『維新』は、権力側が意図を以てつまり大いなるイデオロギー性を込めて造り出した政治的プロパガンダである。
明治維新と言うボワッとした用語を使うのであれば、この歴史事象が、何時始まり・何時終ったか?を、明確に決めてもらいたいものである。
範囲を限定せずにコトバを使う=その曖昧さがこの国の有力なイデオロギーでもあるのだが・・・
「政変」であれ・『維新』であれ。この時の歴史事象に関与した人物は、実に多彩であった。
テロで失われた人命の多さを思い・不要なのに勃発した内戦のムダを思うと暗澹たる気持になる。
その最大の仕掛人は、西郷であったから。彼の第一の属性は、暴力性に富む軍事謀略家であったと決まる。
しかも彼が築いた日本陸軍は、昭和20・8・15<1945の日本人的敗戦の日>に終る大戦争の引き金を引く事になる国民全層を束ねる大暴力集団となり。後世、今日まで引きずる国民規模の悲劇の元凶となった。
『維新』なる人騙しのスローガンは、前政権を全否定するようなアンチ方策しか持たない明治新政府の貧困な為政をカムフラージュするために必要なだけであった。
『維新』なるコトバにおどらされた大多数の末端に位置する国民=否、苛酷を背負わされた酷民(こくみん)=にとって、その政治深層を究めないままに、ただ踊らされ続けたことから取返しのつかない不幸が始まった。
何時どんな状況でも、過ぎた事に対して市民一人ひとりがキチンと総括しておくべきである。
さて、明治政変だが。時計は嘉永6・1853年6月のペリー来航に始まる。
165年前に始まったグローバリズムと初めての出会い、それが現在まで続く列島規模の混乱の始まりであった。
仮に。この国の政治姿勢が、対米従属に傾き過ぎているとしたら。その原因の一つは、USAの意志の固さと準備の周到さに比べて、当方にそれを凌駕する程度の海賊根性が欠けているからだとも言える。
ペリーの砲艦外交は、軍事と外交とは表裏一体であることを示しており。開国を迫る動機は、太平洋を航行する捕鯨船の薪水食糧の補給と天候被災時の救難防備にあるとする見解がある。それは判りやすい一面の真理だ。
しかも、捕鯨活動は、18世紀の中頃イギリスに始まった産業革命に起因しており、鯨油がエディソンの電球発明・普及まで、繊維工場が夜間操業に使う照明用燃料であった。
だがしかし、開国を迫る背景は、もっと根が深かった。
国史を貫く、大きな一本の柱がある。
マニフェスト・ディステニィである。
ここで下手な邦訳をしておくと
     アメリカ市民に下された明白なる神からの使命
一神教世界の作法を持たない我々には、何かピンと来ない”ディステニィ”感覚である。
マニフェスト・ディステニィなるコトバを最初に文字化したのは、1845年のこと。ジャーナリストで英国生まれのJ・L・オサリヴァンとされる。
このマニフェスト・ディステニィに基づき、米国は一貫不変の国策を掲げて日本に開国を迫っていた。
ここで米国の国策がどのように推移したかを概観しておこう。
 ◎ 1823  モンロウ主義宣言=旧大陸からの不介入と
       再植民地化への反対を表明
       これはまた、民主的な共和制的自由社会を実現した
       自らを高く評価する対外的発言でもあった
 ◎ 1836  アラモの戦い=テキサス州独立戦争(対メキ
       シコ戦争)で米側が守る砦は13日間で陥落した
       J・ウエインが西部劇映画2作=同名&リオブラボー
       で好演した土台の事件
 ◎ 1845  テキサス併合なる
 1846〜48 メキシコVSアメリカ戦争
       勝利してカリフォルニア州を割譲させるが、
        1849年その地(サンフランシスコ)から金鉱が
        発見されゴールドラッシュとなる
 ◎ 1853  ガズデン購入なる
       アリゾナ州南部とニュウメキシコ州の地をメキシ
コから買い取る
 ・・・ここには先住民虐殺の歴史を掲げてないが。
     1620年のボストン上陸以来一貫してネイティブアメリ
     カン=インディアンとも=を抹殺し・居留地へ追落した。
    1776年の独立以前に存在した史的過去に立向かわない・
     隠された白人至高思潮=WASP独尊主義は差別強行・民族
    浄化の点からも非難されるべきである・・・
 ◎ 1858 日米通商条約なる
 ◎ 1867 アラスカをロシアから購入
 ◎ 1887 ハワイ王国よりオアフ島ホノルル真珠湾を租借
 ◎ 1894 ハワイ王朝最後の女王リリオカラウニを退位させ、
       共和国制とする
 ◎ 1898 ハワイを併合する
       アメリカ太平洋艦隊の寄港拠点を確保する
 ◎ 1898 スペインVSアメリカ戦争
       勝利してグァム島&フィリピンを割譲させる
 ◎ 1899 トゥトゥイル島=米領サモアをドイツから獲得する
       南太平洋の寄港拠点
 ◎ 1914 パナマ運河を開通させる
ここに掲げた米国の新大陸討伐平定と太平洋進攻の経過を一覧すると。彼等のフロンティア拡大の狂信的行動は、必らずしも陸上に限定しておらず・海上にも及んでいる。
今日では遥か太平洋を越えてユウラシア大陸をも解放の対象と考えているフシがある。
紙面の都合で、今日はこれまでとします。
アメリカは、我らが東に位置する隣人であるが。彼・我の差は、一神教的狂信者と茫洋たる多神教信仰者と抜出せるが、互いの距離は遠い。
しかも彼等の歴史観は、100年〜200年スケールで一気通貫しており。強固かつ盤石だ。
その点我らが歴史時間軸は、明治・大正・昭和などと極めてショートスパンで区切られ、近視眼的かつ従人的な理不尽さしか備えてない。