北上川夜窓抄 その39=続・古川古松軒 作:左馬遼 

北上川を行きつ・戻りつした古川古松軒についての続稿である。
古松軒は、幕府巡検使の随行員として天明8・1788年陸奥・出羽を巡歴しつつ蝦夷地までを往復した。
ほぼ230年ほどの昔だが、時は東北地域が大飢饉の苦境に喘いでいる時期であったから。ある意味において、現代に通底するものがありそうだ。
前稿では、巡検使なる制度が創設され<寛永10・1633年>た事情を中心に述べたが。
その頃は、江戸幕府の創業期から脱して。次なるバージョンとなる平和の時代=全国統治の存続安定化へと向かうタイミングであった。
第3代征夷大将軍徳川家光(在世1604〜1651。在位1623〜51)が、打出した新機軸である海禁政策寛永10・1633〜16・1639年の間。順次5回発令された鎖国の措置のこと>・参勤交代<寛永12・1635年>・巡検使などは、いずれも戦国動乱が再開しないことを見透した平和恒久路線に立つ措置であった。
その結果。江戸が大消費地に躍り出て、関西地圏に並ぶ経済集積都市に成長する革命的新事象を招いた。
言わば,江戸の大都市としての急成長は、想定外の社会変化であった。
では、古松軒が巡検使として旅に発った天明8・1788年は、江戸幕府にとってどんなタイミングであったろうか?
この時期は江戸期も後期であり、第11代征夷大将軍徳川家斉の長期在位の初期に当たる。
この頃注目すべきは、筆者の曲見であるが、いよいよ幕府財政が破綻し始めたことである。
しかし、財政破綻なる”御家の大事”は、ごく一部の幕閣中枢部のみが極秘に知っていたに過ぎない。
幕府が軍事政体であるから、組織として安定存続するため。そのことは厳しく秘匿される必要があった。
その事実は、権力の中核たる将軍家斉(在世1773〜1841。在位1787〜1837)にも知らされなかったようである。
彼は前任将軍の誰にもまして放埒かつ豪奢な生活態度であった。
その時に、豪腕な経済家=老中・田沼意次(たぬまおきつぐ。在世1719〜88。老中在職1769or1772〜1786)が登場する。
彼は、幕府の基本策として、伝統的な重農政策に加えて、新たに重商政策を追求する。
しかしその新機軸は、財政再建の成果をみないまま潰えた。
当時のパラダイムから遠く・おおかたの賛同を得るまでに至らず。彼は失脚。打出した新機軸もまた評価されず放棄された。
田沼が打出した新機軸の一つが,蝦夷地開発政策であった。
この時期の幕府による対蝦夷地政策は、短期間のうちに二転三転し。幕府の命運を財政面から縮める遠因となった。
幕府が現実に倒壊するのは、この時からほぼ80年後の明治政変の時だが・・・
欧米列強による軍事的脅威を伴う強制開国は、世界経済の中に日本を組込もうとするだけの狙いであった。
手始めは、捕鯨船の出没なるカタチを以て。大陸のある西からではなく・大洋のある東の方から、日本列島に迫った。
それは、後世的に考えれば、当時における「産業革命」体制の余波であった。
その大きな人類史的大ウエーブの意味する処を、当時の幕閣は十分に把握していなかった。
オランダ商館からもたらされる西洋情報では,限界があったからであろう。
江戸期日本は、端的に言えば、「産業革命」への対処を誤まったが。
産業革命」は、筆者の曲見では、人類史の中では負の記号<=マイナス価値>を以て論じられるべきだ。
そう切捨てる背景なり根拠なりを手短かに述べれば。経済奴隷主義が世界規模<=いわゆるグローバル事象>に拡大しただけでしかなく、本来そのような反道徳的慣行は葬り去られるべきだからだ。
冒頭の脱線としてはいささか長過ぎた。
本稿では、古川古松軒を中心に述べるとしよう
彼が何故?幕府巡検使の随員として選抜されたか?
どのような立場だったか?は、あまりはっきりしない。
官費支給による物見巡行だから、一県気楽なようだが。当時既に世に知られた在野出身の地理学者であったから、決ったルートを外れたいと思っても。公式巡行行事のため全く叶わず、その気苦労を嘆いた。
まさしく、すまじきものは宮仕えであろうか?
古松軒(ふるかわこしょうけん、1726〜1807)は、備中国<現・岡山県総社市>に生まれた。生家の家業は、薬種業・医家であったらしい。
ここまで書いてくると、先の稿で採上げた菅江真澄の境遇とかなり重なることに驚ろく。
菅江真澄=本名・白井秀雄(1754〜1829)は、三河国岡崎または豊橋のおそらく薬種業の家に生まれ、医家の修業を積む一方で,各地を巡歴し。30歳の時に家族に見送られて東北・蝦夷地へと旅立ち。ついに旅先で還らぬ人となった。
この二人の違いと言えば、年齢差と出生地くらいでしかない。古松軒のほうが、28歳ほど年長だ。
この二人は、江戸のほぼ同じ時期を生き。ともに前後して蝦夷・東北を訪ね、ほぼ同じ場所に居合わせることもあった。
菅江は、著書=「岩手の山」や「外が浜づたひ」に、巡検使を迎えるための道路整備補修作業に駆出された地元農民の苦しい姿を描写している。よって、互いに見知る関係には無かったとしても、共に東北に前後して居た事が判る。
ただ、旅行家としての両者の目線は、大違いであったように思われる。
この点について、柳田国男も前述の大藤時彦もあまり際立って採上げてないように思える。
要約して言えば、古松軒は、高い位置に身を置いて、東北の文物を低く見下している。
そのことは、彼がより先進的文物を産する山陽路に生まれ育ったことや、57歳の頃修験者に身をやつして九州地方を独り旅し「西遊雑記 天明3・1783年刊行」を著したことと無関係ではないだろう。
しかもこの「西遊雑記」の著書をもって地理研究者として世に名を知られるようになり、ひいては時の権力者老中松平定信が知るところとなった。巡検使の随行員に選ばれたのも、この著述によるかもしれない。
更に70歳を過ぎた頃故郷の備中国・岡田藩より苗字帯刀を許され、士分に取り立てられており。境遇的に菅江とは、対極に置かれる、いわゆる成功者だったようだ。
ところで、蝦夷地域を探訪した民俗学者として菅江真澄松浦武四郎(1818〜1888 幕末・維新期の北方探検家。一時幕府&新政府の官員となるが、権力批判の立場から辞職し、紀行文を公刊した)が知られるが。
彼等の蝦夷アイヌ生活様式を捉える視点には、おのずから科学合理性が備わり、文化人類学に通ずる現代的水準にあったようだ。
古松軒の属した幕府巡検使は、総勢約120名ほどで江戸を発着したが。
訪問先では、これに案内役の地元藩随行員が加わり、時に10倍以上の1,000名超の事もあった。
北上川の上流域は南部藩、衣川合流点から下流は概ね仙台伊達藩に交替するが。幕府巡検使に付添う諸藩接待員を含めた移動人員の総数だから、大飢饉直後の地元にとっては,まさに招かざる来客にして、大迷惑であった。