もがみ川感走録第57 西郷南洲・続

南洲翁遺訓の創出〜刊行に、鹿児島の地から遠く離れた旧・鶴岡藩の主従が大挙して関わっていた。
何故庄内びとは、そのような振舞に出たのであろうか?その背景を知るために、西郷隆盛の詳細な行動を押さえてみた。
慶応4・1868年9月27日に庄内藩は、官軍に対して降伏した。
これを以て鳥羽・伏見の戦い江戸城無血開城〜上野彰義隊撃破に次ぐ奥羽越列藩同盟軍と官軍の戦いである東北戦争が終わった。
この時点で、何度目かの戦場への出馬を要請されて、遠く鹿児島の地から馳せ参じた西郷は、庄内の地のどこかに身を置いていた。そして11月始め頃鹿児島に戻ったと言う。
北陸道鎮撫に向かった官軍が苦戦したのは、河井継之助が統治する長岡藩地と鶴岡藩が守備する庄内戦場の両場面のみであった。
西郷の役名は、薩摩藩出征軍・総差引<北陸道派遣軍司令官>であったが。この方面には総鎮撫官軍の武家参謀として黒田清隆山県有朋が在陣していた。
東北戦争終結後、西郷はこの2人に対して、敗軍の鶴岡藩処分を指示してから、立ち去ったとされる。
旧・鶴岡藩の主従は、意外に寛大な処分に驚ろいた。
背後に西郷の配意があったことを知って鶴岡藩主従は、後の明治3・1870年、大挙して遠く鹿児島の地に西郷を訪ねて行った。
では何故?西郷は敗者=鶴岡藩兵に対し寛大な処置に出たのであろうか?
既に150年以上を経過した今日、西郷の内心を伺う事は難しいと思えるが。実はそうでもない。
先にも引用した大佛次郎が残した著作がある。
大佛は、勝てば官軍的なる偏りを持つことなく・幅広く史料を収集・掲載している。
天皇の世紀13巻・103〜122頁」に江戸・三田にあった薩摩屋敷焼討ちのことが書いてある。
そのため、今日からでも比較的容易く西郷の肚の裡を探ることができる。
焼討ち事件が起きたのは、慶応3・1867年12月25日の深夜〜早朝であった。
その頃幕府から依頼されて。江戸市中の治安取締・住民安寧の重責を担っていたのは、譜代大名鶴岡藩とその配下たる新徴組であった。
大佛はその年の10月から江戸と関東郡部の情勢推移を描いているが。
各地で刃傷・発砲・放火などの乱暴狼藉が連発していた。
その多くは、薩摩藩の中枢が企画したテロ指令を受けての組織的後方破壊行動であった。
その実働隊を束ねていたのは、薩摩藩の家中・益満休之助&郷士・伊牟田尚平であった。
加えて薩摩藩は、天障院篤姫<薩摩から公家の近衛家養女を経て第13代将軍家定の御台所に入嫁>の警護を掲げて浪人を募集増徴し、ピーク500人超の悪党集団を三田の藩邸内に抱えた。
その浪人組頭目の名を紹介しておくとしよう。いずれも悪名高い面々だ
   相楽総三 = 元・旗本家臣
   落合直亮 = 武蔵の浪人
   権田直助 = 武蔵の浪人
   更にその中には土佐藩板垣退助から西郷が依頼されて引受けた
   筑波山屯集浪士の残党も含まれていた。
彼等の仕事は、市中各所での破壊行動で。市中取締隊が駆けつけると薩摩藩邸に逃込むのを常態としていた。
江戸城二の丸放火と庄内藩詰所への発砲など、相次ぐ異常事態続発に激高した幕府側約3千人の市中取締隊は、下手人が逃げ込んだ薩摩藩邸を取囲んだ。
鶴岡藩兵を中核とし大砲を備えており、幕府との打合せを踏まえて、薩摩藩邸に対し犯人の引渡を求めた。
その時、突然薩摩藩邸が炎上した。
幕府を統括する将軍慶喜は既に上京して久しく。長期間の将軍江戸不在でもあり、本来たる幕閣は、軍事組織でありながら、意思決定機能が麻痺していた。
当夜の宿直当番であった幕閣・若年寄役は、直後自死を遂げたので真相不明だが。幕府決定として攻撃命令が発せられたとの確証はない。
或いは、薩摩屋敷側が自ら火を放った可能性なしとしない。
何故なら、薩摩・西郷の本意は、ありとあらゆる手段を講じて幕府を挑発し、軍事的紛争に牽きずりだすことにあった。とにかく幕府を刺激し・戦闘に引込み・幕軍を軍事的に粉砕して・幕府を倒壊させ、関ヶ原以来の雪辱を図ることにあった。
真相不明ながら。薩摩江戸三田藩邸炎上の情報は、12月28日慶喜以下幕府勢が蝟集する大阪城に伝わった。しかも、情報が歪められており、江戸留守居の幕閣が判然たる意志をもって起した快挙であると伝わった。
大佛は、これがキッカケとなって、鳥羽・伏見の戦いへと幕府軍を駆立てたとみている。
となれば。西郷が構想した謀略は、鶴岡藩の主導が契機となって、見事にヒットしたわけである。
鳥羽・伏見の戦いは、翌・慶応4・1868年1月2日京都の南郊において勃発した。薩摩・会津の間で、戦端が開かれた。
明治政変を概観した時、この戦いは本来的に必要性が認められない軍事対決でしかない。
西郷の筋書きどおり、後方撹乱の異常テロ行動が大規模内戦の口火となった。
西郷の肚の裡を知っている者は、その当時居らなかったことであろう。
筆者がここで展開した妄想たくましい推定もまた的を外していることであろう。
かくも西郷は、茫洋とした多義性を備えた複雑・不可解な人物であった。
西郷は、各方面の戦闘が終わったノチも、その都度ごと律儀に鹿児島に戻っている。
後世、明治新政府の重鎮に据えられ、陸軍のトップに就くが。彼に立身出世の意欲乏しく、恬淡としていたらしい。
最後に、彼の言を紹介して筆を置くこととする
  児孫のために美田を買わず
これは、西郷が親友の大久保利通に寄せた「偶成の詩」にある一句だと言う。
いかにも西郷の人柄を示しているようでもある。
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〔参考図書・文献〕
マニフェスト・ディステイニィは、増田義郎著「太平洋ー開かれた海の歴史」集英社新書2004刊行に拠った
明治政変に係る歴史事象は、大佛次郎著「天皇の世紀・全17巻未完結」朝日文庫1977〜刊行に拠った
国史は、「小学館大百科全書」第1巻648頁以下の年表から筆者において抜書きした
その他の個々件名については、ウイキペディアを随時参照した