高尾山独吟百句 No.15 by左馬遼嶺

寒の夜  家で味わう  きりたんぽ
〔駄足呟語〕
今は寒<かん>、北半球が一年で最も寒い時季である。
生物が生き残るため最も厳しいこの最悪寒冷期を無難に過ごし、やがて来る暖かい春を待ちたい。
さて、きりたんぽ
吾が故郷は、あきたの郷土料理である。
と言っても、身に備わった「おふくろの味」ではないので、ここに書き連ねる事に対して、いささか不安なしとしない。
生まれてから18歳になるまで、秋田県の南つまり出羽富士と称される鳥海山の北に位置する土地で暮らした。
この東北有数の高い山は、豪雪をもたらすが。このすぐ麓の矢島<現・由利本荘市>なる土地から、吾が母は河口の街である『古雪(ふるゆき)』の吾が実家に嫁いできた。
江戸時代矢島は、遠く瀬戸内海に面した温暖の地から、急遽遠島に処せられるがごとく転封させられた生駒藩の支配地となった。
遠来の大名がもたらした上方的風俗は、土着の百姓の娘でしかなかった吾が母にも気風なり所作なりに何らかの異文化的情緒を与えたことであろう。
つまり、あきたの郷土料理たる「きりたんぽ」は、吾が少年期の生活周囲の中には存在しなかった。
つまり、38年間の転勤生活の中で、吾が妻が発見し・習得した家庭料理のレパートリーである。
よって、今棲む北陸のスーパーに、遠く北の彼方600kmも離れた秋田のきりたんぽ具材を販売していることに正直驚ろかされた。と言っても、セリや比内鶏までは置いてない。
セリは正月市で目にする程度だから、雑煮としての需要に応えた当地としては格別の品揃えかもしれない。
その時期を外すと当地でフツウに売れる野菜ではないようだ。時々見つけるが、その値段の高さに驚ろく、手は出せない。
これは私見だが。セリの根っ子まで食べてしまう、あの野性味溢れる豪快な食べ方が、百万石好みの気取った華奢な文化風土と相容れないのかもしれない。
比内鶏<ひない・どり>だが、これは秋田県北の地名を冠したニワトリ。地域の特産品である。この地のスーパーで入手できよう筈もない。よって、手近な鶏肉で済ませる。
北陸の地は、幸いなことに霊峰=白山の向こう側が,国産鶏肉の本場である東海ブロックである。
いささか手前味噌だが、とても良いダシを味わえているのではないだろうか?
閑話休題
きりたんぽと言えば、聞こえは良いが。吾が家のそれは、一つの鍋とめいめいの小皿があれば、一食フィニッシュだから。まあ、「鍋」料理風の縄文料理的ごった煮と言うべきであろう。
白ネギやらシラタキも入れるから、ちゃんこ鍋の様相でもある。
メインは、名称の由来たるきりたんぽだが。
これはコメの加工品、素人がトライして簡単に造れるものでもないようだ。
鍋の中に他の具材と放り込んで、かなり加熱しても、型くずれしない。
おそらく焼きおにぎりの類いであろうか?その独特のカタチが、秋田県的民俗では梵天であって、正月の頃、神社に担ぎ込んで奉納するカミシロの一種だが。男性器の象形とみるべきであろう。
よって、命名の由来がいま一つピンと来ない。
蒲鉾の焼きちくわに似た、中空にして細長いカタチが、武器の槍を連想させるから。槍に由来するので良いとする説が有力だ。
だがしかし、きりたんぽは、武士の食べ物ではない。あくまでも百姓の食べ物だ。
戦国戦乱期に、戦略用道路の構築や戦場後方での物資輸送などに駆出された地域農民は、時に粗製濫造の竹槍などを持たされて、俄か仕立ての歩兵に充当されたかもしれない。その時、手持ちの槍にしのばせる個人消費のための携行保存食糧として、あの独特の形態を備えた「焼きおにぎり」が、創意工夫されたのかもしれない。
だがしかし、ただの百姓には、コメの飯はどんな用途であれ、どんな時代であれ、ほぼ無縁な食糧であった。
それほど、食糧生産の現場における身分差による摂食強制は厳しかった事であろう。
よって、百姓が携行するコメは、万一武士階級に見つかっても、申し開きできる類いのコメ周辺物である必要があった。
刈取り後の田んぼの地面から拾い上げる「落ち穂拾いのコメ」
精米の時に、こぼれ落ちる”砕米”つまりコメとして纏まった形状を欠く「屑コメ」・時に作業床から拾い上げるゴミのようなコメ。
落ち穂拾いと言えば、ミレーの絵画。
ただ、あっちの方は、コメでなくムギだが。
刈取り後に落ち穂拾いの目的で農地に入れるのは、寡婦とか孤児とか社会的弱者であったらしい。