北上川夜窓抄 その38=古川古松軒 作:左馬遼 

今を去ること約230年前、北上川流域を江戸に向けて南下して行く集団があった。
幕府巡検使の一行である。
そもそも幕府巡検使とは何か?だが。
天明8・1788年その随員として一行に加わって、蝦夷・東北を旅した古川古松軒が残した旅日記=「東遊雑記」により、その概要を窺い知る事が出来る。
ここでは、1964年平凡社から東洋文庫として刊行された現代語訳に拠り。
その編纂者=大藤時彦民俗学成城大学教授)が解き明かした解説などを引用し、型どおり紹介してみたい。
幕府巡検使は、第3代将軍徳川家光が始めた。以後将軍の代替わり毎に、派遣され、制度化を見た。
予め、巡回ルートも・立寄先も決っていて。以後先例として忠実に履行された。その目的は、諸国の藩政や民情を視察することにあったから、受入側の諸藩は相当に緊張して迎えている。
言わば、招かざる客の典型だが。他方でほぼ同時代に行われた朝鮮通信使の送迎とほぼ似たような風情があったかもしれない。
古川古松軒<1726〜1809>が、参加した時は、江戸期も後期で。第11代征夷大将軍家斉<いえなり>が、前年に将軍職に就任しており。それに伴い派遣された幕府巡検使であった。
旧暦5月6日に江戸を発って、10月17日に帰着したから。約5ヵ月超の日程であった。
日程の概要は、陸奥国の南端である白河の関まで5日間、そこから会津越後街道を西進して会津地方を巡歴し、言わば福島県域の最西端の布沢に達し、そこから東の方へ折返して、郡山・福島を経た後に、板谷峠から出羽国南半部=山形県域に入った。よって、福島県域を旅したのは概ね1ヵ月弱であった。
次いで、山形県域に約4週間。
かの有名な有耶無耶の関を越えて、出羽国北半部=秋田県域に約2週間滞在。
そこから矢立峠を通過して、陸奥国の最北端に位置する津軽藩領に入る。約1週間、藩領内に留まる。
津軽半島の先端部三厩から津軽海峡を渡海して、蝦夷地へ。
渡海地の三厩へ再び戻ったのは,ほぼ1ヵ月後だから。蝦夷地滞在期間は、ほぼ1ヵ月強だが、そのうち10日間は、対岸松前で海峡越えのため日和待ちしている。
因みに蝦夷地巡歴先は、渡海起点たる松前からほぼ北方方向へ半径60kmに位置する日本海沿いの乙部まで進出した後、海岸沿いに松前まで折り返し。
今度は、東の方に当る函館方面に向かった。
最も遠い到達地点は、黒岩岬(松前からほぼ東の方向へ半径80kmの位置)。津軽海峡に面した沿海部で、そこから折返して松前まで戻った。
松前で日和待ちに10日間を費やした後、どうにか海峡対岸の三厩に達した。
当時は帆船時代だから、対岸は望見の範囲にあっても、風待ちのために想定を越える日数をとられるのは已むをえなかった。
三厩上陸後約1週間で本州最北端訪問地の田名部<現・青森県むつ市。旧・南部藩領>に達した。
そこから太平洋岸に沿い南下。八戸からは、内陸を向けて西に進路を取り、花輪盆地を目ざした。
因みに花輪盆地とは、現在の秋田県鹿角郡&鹿角市に当り、古代から希婦細布<けふのせばぬの>で知られる細布・紫染め・茜染めなどの産地である。
中世以降から現代までは、日本有数の金・銀・銅・鉛に恵まれた鉱山地帯であった。しかも地理的に奥羽山脈の脊梁を跨ぐように立地する。しかも日本海に注ぐ米代川の最上流部に当る。
行政的には陸奥国(後に南部藩領)に属しながら、上古の蝦夷反乱時には出羽国庁と並存した秋田城制<いわゆる軍政管轄のこと>の下に置かれることもあった。
そんな内陸奥地特有の事情もあって、藩領境界をめぐる対立・抗争は、中世から近世まで通史的に見られた。
対立抗争の当事者は、終始支配を維持した南部氏・古からの名族である安藤氏(十三湖〜檜山<現・秋田県能代市>〜土崎湊<現・秋田市>=後の秋田氏)・津軽氏の3勢力であった。
明治4年以降は秋田県に所属している。
花輪盆地についていささか脱線した。
幕府巡検使の巡歴行路に戻る。
むつ湾の田名部から太平洋岸を八戸まで行き、そこから内陸の花輪盆地に向かってほぼ西方へと進路を取り。奥羽脊梁山脈を東から越え、尾去沢で折返して,今度は同じ山脈を西から東へと越えた。北上川の源流付近に達したのは、田名部出立から約10日後であった。
ここで言う源流とは、古川古松軒が訪れた弓弭の泉である。源頼朝が行なった不思議な事象について古川は否定的な見解を述べており、現代人に通ずる合理性を備えていたようだ。
因みに、北上川の源流は、複数説があり対立する。本稿で既に採上げたので再論しない。
北上川に沿って南下し、南部氏城下の盛岡を経て、水沢まで下った。
水沢からコースを変えて東に向かう。北上高地を越えて、太平洋岸を目ざす。
気仙川の河口都市=陸前高田で、広田湾を望見した。弓弭の泉を離れてからほぼ1週間が経過。
左手に太平洋を眺めながら、気仙沼を通過して、津谷<本吉>まで海沿いに南下。そこから海を離れて、内陸に分け入り再び北上高地に踏込む。千厩を経て、中尊寺に至る。
ここで北上川に何度目かのコンタクトをするが。最後に北上川と分れたのは、水沢だったから。まっすぐ川沿いに南下していれば、ほぼ1日の行程で水沢から中尊寺に達していただろう。
しかし現実の経路は、時に海めがけて山越えするなど、大きく行きつ戻りつした。約1週間を要している。
巡検使の旅そのものが、各地巡歴にあって、さして急ぐ旅でない事の証でもある。
中尊寺の後も、達谷・一の関・有壁姉歯・若柳など迫川<はざま・川>沿いに進み、北上川を離れつつ、北上川河口の石巻に達した。
石巻からは再び内陸に向かい、涌谷・古川・中新田を迂回したように行き、仙台湾の中の松島にほぼ戻るように達したのは、中尊寺を出てから既に1週間強が経っていた。
松島を発って、塩竈多賀城跡・仙台を経由して、仙台湾阿武隈川河口の町=岩沼に達し。この川に沿って遡行し、白石まで。
白石を発ち、越河<こすごう>まで南下し。そこからまた白石に戻っている。今日で言う国道4号を僅か往復(片道10km程度)しただけだが、巡検使の旅としては、比較的郡界を究めている例が多いのだ。よって今日では真意を解しにくいが、郡界や藩境辺など兎角争乱が起きやすい地域を巡回したのであろう?
白石から角田・金山を経て坂元に達し、太平洋岸を南下するルートを採り。駒ケ嶺・相馬<中村藩城下>・原の町・小高・富岡・四ツ倉・平<現・いわき市>と海岸沿いに南行した。
鮫川河口の植田で太平洋岸を離れて、内陸部を鮫川沿いに遡行し、石住・竹貫・棚倉・東館を経て、茨城街道に沿い陸奥国界を離れたのは、白石出立から11日目であった。
都合,帰路の陸奥国滞在期間は、約1ヵ月半であった。
陸奥出国後は、水戸を目ざして南下し。石岡・牛久・松戸を経て、5日目に出発地の江戸に戻り。全行程約5ヵ月超の幕府巡検使の旅は終った。
冒頭にも問題提起したが、そもそも幕府巡検使の狙いは何だったろうか?
第3代将軍家光が初めて以来、制度化し。将軍の代替わり毎に、各地に派遣された。
同じ時期に始められた参勤交代とバランスを採るために創案されたとも考えられる。
どちらも軍事行政の必要から生じた軍役の一部との見方が成立つ。他方で民政に及ぼす影響を考えると,その波及効果は実に大きい。
参勤交代は、地方から江戸への移住者を急増させ、小判使いの金本位制が全国規模に格上げされる経済・金融効果を招いた。江戸は消費経済において、自給能力をほぼ欠いていたから。コメはもちろんとして、酒からミカンまでほぼあらゆる生活物資を列島各地から集めた。
そこで、近代国内海運が一挙に起ち上がった。
その中でも名高いのが、檜垣廻船・樽廻船・バックアップ的かつ全国商圏の北前船<厳密な造船学に従えば、弁才船>である。
今日はこれまでとします。