高尾山独呟百句 No.13 by左馬遼嶺

空に月  かおり添えたる  キンモクセイ
〔駄足呟語〕
吾が家から月を眺めた。
過ぎた9月は7日の夕べであった。
その日は、運よいタイミングで月の出を見た。
日本海に面した北陸の地、晴れの日に出会うことが難しい。
望月(満月=月齢15。十五夜の月)は、前日の6日であった。
満月の月の出を,つい失念したか?雲が隠して見落としたか?は、今では定かでない。
実際にみれた月は,十六夜<いざよい>であった。
キンモクセイは、吾が家の隣家の庭にある。月を隠せるくらいの大木ですらある。
つまり、隣家の庭園は、吾が家から見下ろす位置にある”借景の和風庭園”だ。
閑話休題
因みに,吾が下駄履き長屋のブロイラー・ハウスには、西側の壁がある。通路ではない。
しかし、落陽を眺めるほどの空間は無いに等しい。
しかも、四六時中朝となく夜となく、犬のバウ(=こじつけて字を当てると”暴”かも)声が満ちている。東側とは様変わりの興醒め壁景観である。
この際、与謝蕪村を踏まえても
  キンモクセイ  月は東に  陽は西に
とはならない。
さて、残るテーマは、”かおり”
駄足の中の駄足は、『かおり』とした背景である。
実を言うと,初めは『におい』としていた。
だがしかし、現代人は、嗅覚に等級をつけているらしい。
筆者の勘違いであろうが
 ○ かおりの方は、良い匂い
 × においの方は、その反対
とする見解が存在する事である。
どうも、漢字文化も21世紀に及ぶと,言語本来の伝統的変遷が抜け落ちてしまうのであろうか?
漢字は、日本語つまり列島固有言語が無文字ワールドであったから、隣邦・大陸中国漢王朝時代のそれを借字として導入したに過ぎない。よって、音声言語に拠るべきであって・当てた字面が持つ意味に捉われるべきでないのだ。
ここで「漢」なるワールドにワープしよう。
漢王朝をひらいた初代皇帝の劉邦は、楚人であった。
その「楚人(そのひと)」は、列島に稲作をもたらし,そのまま列島に土着したらしい。
「楚」の地を出奔すると決めた時点で、自らを「楚人」と名乗る事を辞めたはずだ。
直接列島に渡来して、倭人の祖先となったか?
それとも、一度朝鮮半島に着地して、倭人と韓人の混住地域を経た後に列島を目ざしたか?はっきりしないが。おそらくその双方ともあったであろう。
倭・韓の中間に対馬<つしま>なる島がある。
この島の北も南もクロシオの分流が流れ、この島のどちらにも倭人と韓人が混住していたらしい。
「楚」の地は、現代の大陸中国の”蘇”つまり、ざっと長江の河口・北岸〜沿海部に当たる。
劉邦は、成祖として。その宮都を黄河に近い内陸奥地である長安<現・陝西省西安市>に置いた。
その背景は、前王朝である統一国たる『秦』の王都=咸陽<かんよう>の位置を踏襲する必要があったためであろう。
つまり楚人たる劉邦は、我が田に都を引っ張ってくる愚を犯さなかった。
漢は、既にして抜きん出た国際センスを備えた開放性の政治を掲げていたらしい。
とまあそのような国際情勢から、我が国には古代〜律令時代の間に、漢字が導入された。
その流れは、現代にも深く底流を這っていると言えよう。
ここからいささか脱線だが。
列島の仏教界は、通史的に漢字・漢音ではなく・呉字・呉音を多用している。
漢王朝とほぼ同じ時期の大陸中国・長江流域は、「呉人<ごのひと>」の領邦<=くに>であった。
呉人の地と楚人の地は、ごく近い。しかも同じ長江稲作文明圏内にあった。
あの広大な大陸中国を単一文化圏と括るべきでない。南船北馬なる成語がそうである。
列島からの遣唐使は、 {注=唐は漢の次の王朝の名} 呉の領域の港に入った後、陸路または内陸運河経由で遠く内陸奥地・北方の都・長安を目ざした。
官人の外交使命は、いつの時代もそこに行く事にある。
その点、同船した入唐僧たちは、行動的に自由であったから、無駄に遠路に達することが無かったであろう。おそらく最寄の呉字と呉音で用が足りたことであろう。
長い脱線だった。辞書を牽いてみた。
 ○ かおりは、香り&薫りとある。
    香水のもたらす嗅覚刺激か?
 × においは、匂い&臭いとある。
    鼻を背けたいような嗅覚印象か?
だが、俟てよ
古い時代の「におい」は、必ずしも嗅覚だけに対応していたわけではない。
視覚領域にも使われていた。
傍証として,ここに古歌をひとつ掲げる
  いにしえの  ナラの都の  八重桜  けふ九重に  においぬるかな