北上川夜窓抄 その37=菅江真澄・番外 作:左馬遼 

北上川の川面を眺めつつ舟を浮かべ、川の畔を辿り歩いた人たちの評伝を探るシリーズ。菅江真澄編の第4編だが、前稿までに本筋は述べ終わったので、本稿は番外編である。
江戸中期、三河人が東北・北海道までやって来て、遂には秋田の地で最期を迎え、一度も故郷の地を踏まなかった。
この数奇な生涯を過ごした一奇人の心境に迫ってみたいものである。
菅江の残した業績については、既に多言したので再述しないが。地誌の作成など実に先駆的でもあり、ユニークである事は言うまでもない。
他の何人も成し得ないことを成し遂げる事にこそ、自らの存在意義があると確信したのは、おそらく津軽〜秋田の地においてであったろう。
当初菅江が、旅日記の形で作成したものは、擬古文で徒らに難解で意味が採りにくく現代語訳の必要な文章主体の旅行記であった。
しかし、津軽の地を立去った頃からは、訪問した各地の景勝・景観を絵図にすることに主体が移るようになっていた。菅江なりに学習し修正を図っていたのである。
では。その力は、どこで身につけたか?
菅江は、自身の生い立ちを明らかにしていない。
まず親の在所に関する見解だが。三河国のうちの岡崎説・豊橋説<=後述する東海道・吉田宿>と並立する。相互の距離は僅か20km内外である。
どちらも譜代大名の国許にして・代々の当主が幕閣を勤めるいわゆる三河武士の故地である。
菅江が旅に出る天明3・1783年(30歳)までの行動は、研究家・内田武志が推測しているので、それに従いたい。
菅江の本草学の師は、尾張藩医の浅井図南であったらしい。この人は、京都の人で、本業の医術の他に、文にも画にも秀でていたらしい。墨竹を描く手腕については、当時平安の四竹と呼ばれるほど上手であったそうだから、若い菅江は名古屋の地に出て、浅井から本草学を学びつつ、絵の方も手ほどきを受けたことであろう。
因みに、尾張国名古屋と三河国岡崎とは40km・豊橋だと60kmと離れていない。
ここで忘れてならないのは、江戸期の街道=東海道沿線の開放性についてである。
ここでの開放とは、情報の流通と共有を言う。
江戸幕藩体制は、列島を約300ほどの大名が分割統治し、本来的に閉鎖体制であった。
各藩の内政とは別に、外交を江戸幕府征夷大将軍の専権事項として管掌した。
その幕府政治の中核は、幕閣つまり老中そして老中首座の手元にあった。
老中や老中首座は、譜代大名から選ばれる。その領国=いわゆる国元が、概ね東海道沿線に集中していた。
東海道の開放性は、沿線が大名分国でありながら、幕閣の国許であるために江戸との情報格差がほぼ無かったばかりか。伊勢参り庶民層の出入り多い土地柄のため各層間の情報格差もまた無いに等しかった。
菅江はかなり後年まで。滞在先の東北各地からかつての国学の師である植田義方と文通しているが。その植田の居住地は、三河国の吉田<東海道吉田宿=後の豊橋>である。
ここで三河武士について、型どおり述べておく。
徳川宗家を含む十八松平氏は、家祖を共通とする親族および家臣団だが。発祥の地は、三河国加茂郡松平(現・愛知県豊田市)とされる。
岡崎藩は、その中でも家康の生誕地として江戸期を通じて重要視された。本多〜水野〜松井流・松平〜本多と5万石クラスの譜代が統治し、いずれも幕閣を占めた。
岡崎と言えば、八丁味噌が有名だ。長谷川町子の名作漫画に登場するご用聞きは、「みかわ屋でござい」と名乗っていた。徳川家の中核をなす家臣団は、江戸に移った後も、遠い故郷の豆味噌をもって手前味噌としていたようだ。
次に菅江の三河時代を考える場合、世に言う田沼時代を取り上げる必要があろう。
田沼時代とは、明和4・1767または安永元・1772〜天明6・1786までを言う。
老中・老中首座に田沼意次が着いて、重商政策などの積極策に転じた。
9代家重&10代家治の両将軍時代に当り、8代吉宗の改革を引継いでいる。
更に蝦夷地開拓などへと展開した。貿易振興策であろう。
田沼意次の国許にも触れておこう。
宝暦8・1758年から遠江国相良の城持ち大名となっている。相良<現・静岡県牧之原市>は、海岸沿いの町で街道から少し外れるが、やはり東海道である。
江戸期のキャビネットロード・メイクロード上にある。
田沼は、旗本上がりの側用人から身を起し、2代の将軍に気に入られ遂に城持ち大名に出世し、老中・老中首座に任じた。
この眼の覚めるような田沼の立身出世の事は、菅江の耳にも街道の噂<仮に岡崎在住説であれば、三州岡崎〜遠州相良間は約97km>もしくは上掲植田義方<三州吉田〜遠州相良間は約77km>経由で入った事であろう。
田沼政治のうち蝦夷地開拓が、格別に菅江を刺激したかもしれない
次に豊橋<三州吉田>藩だが。
上掲の植田義方が年寄役を勤める有力町人であった。菅江の親の在住地とする説もある。
藩主松平信明<1763〜1817 第4代藩主・大河内流松平氏第7代当主=譜代大名>は、菅江とほぼ同時代を生き。老中そして老中首座を勤めた。
この殿さまは、田沼政治にごく近いスタンスにあった人物である。
松平信明が幕閣在任中、さらに幕府財政は破綻へ向けて悪化しつつあった。
長崎・出島口がもたらす貿易の巨利は、もちろん大きいが、その成長性は頭打ちであった。
課題の外交は、四周を海に囲まれる列島の常で。新しく台頭したのが、ロシアの軍事力を伴った北方からの進出と・太平洋に出没し始めた米国系の捕鯨船であった。
いずれも異国=夷族どもで、征夷大将軍の所管事項=外交であった。
さて、田沼時代と松平信明執政時代との間に、松平定信執政時代が存在する。
将軍は11代家斉に代っており、寛政の改革が有名だ。名のみ改革と華々しいが、旧来の質素倹約を訴え、幕府草創期のパラダイムへの回帰を唱えるような内容でしかなかった。
因みに松平定信の国許は、陸奥国白河<ただし養家。定信は将軍吉宗が立てた御三卿・田安の7男>である。奥州街道筋の宿場城下だが、鉄道も自動車も無い時代だ。東海道沿線の開放性には遥かに及ばず、きわめて閉鎖的であったろう。
さて、世に田沼時代は、賄賂政治と揶揄される嫌い無しとしない。蝦夷地開発など積極策に乗出し、商人資本との提携など、幕府の財政失陥を補う奇策を打出した。
武士道一点張りの古いアタマしかない徳川家臣団にはいささか理解困難であったろう。
この田沼施政の積極策が、若い菅江に届き、蝦夷地に行ってみたいと思わせたようだ。
実家は岡崎か・豊橋か、またはその双方の武家出入りの商人であったと考えたい。
菅江の本名は、はじめ白井英二。秋田に定住した文化7・1810年(57歳)頃から、菅江真澄の号を使い始めた。さすれば、その境遇は、商家の次男坊だ。
儒教思潮の強い状況の下では、現代と異なる社会通念が横行した。
その頃の用語は現代の常識からすれば差別用語である。そもそも掲出を憚るべきだが、適確に記述する必要があるので、已むなく使用することを許されたい。
嫡男=思想不穏・身体不具など格別の事情が無い限り長男が選ばれる=以外の男子は、あらゆる点で不要の存在であった。
けだし、居候<いそうろう>、穀潰し<ごくつぶし>。
その嫡男に男子が誕生すると、種叔父<たねおじ>などと呼ばれ。一層その不要とされる度合いは増した。
因みに、江戸期における農家は、武士の俸給を担う納税者だ。
新田開発など税収増加が見込まれる場合を例外として、既存の田畑を分割して複数の子に相続させる事は許されなかった。
それを口に出す事すら「たわけ」と一喝された。漢字を当てると「田分け」である。
商家の場合は、そこまで厳しく統制されてはいなかったようだが。菅江の実家が仮に武家出入りの城下商人であれば、ほぼ武家・農民と同様の規範遵守を求められた事であろう。
打開策はある。
菅江の親”白井の父”が、有力なコネで”次男坊の英二”を他家に養子に押込むか・資力を以て次男坊の独立を要路に認めさせるか
どちらの打開策も、英二30歳までに実現しなかった。
それで菅江は家を出て、そのまま戻らなかった。
『家老の子は家老・足軽の子は足軽
これは家祖たる家康が定めた祖法である。
これほど、儒教色の強い締め付けは苛酷、非人間性において他に無い。
そんな時代に、田沼意次は一代で城持ち大名にまで化けた。
幕閣の上下にあって松平信明は、田沼と親しかった。互いの国許も情報的に近かった。
”次男坊の英二”は、蝦夷地で一山当ててやろうと起ち上がり。家を出た。そして旅先で帰らぬ人となった。