北上川夜窓抄 その36=菅江真澄・続々 作:左馬遼 

北上川の畔に佇み、時に川面を舟で越えたであろう人物を探るシリーズ。菅江真澄篇の第3稿である。
前稿では、菅江についての謎を筆者が設問したまま、その答を示す事なく終った。
稿末でヒントを出したが、その言わんとするところは、菅江の内心がどうであったか?を探るものだから、いずれにしろ推測の域を出ない。
以下に筆者なりの推測を述べて、謎に対する答に迫るための手がかりと致したい。
結論をまず最初に述べれば。津軽藩領から隣の佐竹藩領に逃れながらも尚、菅江は津軽藩の公安当局に没収された旅日誌や絵図の草稿などに未練があった。そこで隣の藩領に身を置きながら、どうにかして取戻すべく画策しようと構想したかもしれない。
その結果、菅江の希望は遅々として進展しないまま、帰郷を果さないうちに旅先で最期を迎える事態となってしまった。と言えよう。
以上が筆者なりの答である。
それほどに菅江は、各地を訪問し地誌を残す事が、重大な事業であると認識していたのである。
そのような菅江特有の仕事を。当時の列島レベル規模で、果してどれだけの人が理解していたであろうか?菅江の風変わりな営為を事業と認める風潮は、乏しかった。
藩庁に属する為政者達の多くは、他藩の地勢・物産・民衆生活に関心をもつ事はなかった。
この言わば民俗に関する調査〜現地視察は、未知の研究分野・科学探査領域で。公知となり世の多くの人が容認するようになるのは、遠く後世の事であった。
その点で、芭蕉と似ているようで、大きく異なり。菅江の突き出た時代超越感は、ここにこそあると思いたい。
津軽藩庁から没収された資料類は、津軽地域行脚の大半であったと言う。
失われたものの重みはまさに菅江のみが知る事だが。津軽滞在6年8ヶ月のうち、津軽藩庁から呼び出された寛政11・1799年の秋頃〜享和元・1801年夏頃まで、ざっと2年間分の記録類が欠落している。この頃受けた精神的ショックの大きさを物語っている。
没収された事情を再述すると、津軽藩の要請を受けて藩内の薬草の調査・採取に従事した際に、旅先の各地で地域住民に接触するなど、言わば藩庁からすれば行き過ぎた行動があったし。その活動域が八甲田山系(研究者内田武志氏の推測による)など隣接する南部藩領との藩境ゾーンであった事が災いした。
時は既に江戸中期であったが、津軽南部藩の間の抗争・緊張は、戦国時代の様相とほぼ差が無かった。それは、先進地域である東海道沿線の東海地方に生まれ育ち、近現代に連なる意識・環境にあった菅江が、当然に知りえる事ではなかった。それほどに地域較差が強かった。
菅江は、ショックから立ち直る過程で、俳諧の席に連なる地元有力者と知合い、彼等に励まされた。
そして隣藩久保田佐竹藩の地に逃れ、東北ゾーンでの地誌編纂の本来事業に復帰しようと思い立った。
秋田の地に移った後の菅江の立上げは、実に慎重にゆったりしていた。まず藩校明徳館に出入りして知己を広げ足場を築き、時の藩主に自ら収集した”百臼図集”を献上するなど。着実にステップアップしながら、究極の目的たる藩内巡行による地誌編修が許される方向へと道を拓いた。
では、陸奥国域の菅江の行動はどうであったろうか?
故郷三河の家を出立したときの旅の目的は、蝦夷地訪問にあった。しかし、渡道の直前に青森にある善知鳥<ウトウ>神社を詣でた(天明5・1785年 32歳)ら、3年俟てと神託が下った。
菅江は、天明5〜8・1785〜88年までの3年間(32〜35歳)を主に陸奥国の中で過ごした。
和歌を習い、歌をよく詠んだ菅江には、”歌枕の地・陸奥”を訪ねる事は、願ってもないチャンスであった。神託を護りつつ・渡道までの年数を有意義に過ごした。
陸奥国内での主な訪問地は、中尊寺と松島であった。仙台や多賀城の周囲にも”歌枕”に因む名跡は多い。中尊寺にごく近い一関市の地に家を借りて、仙台藩領の内を探索している。
言わば、神詣での旅であるが、ここで一つだけ珍しい話題を紹介しておこう。
松島で出会った「紅蓮せんべい」由来物語である。
松島の掃部と言う金持ちが信州善光寺詣での帰路、白河で出羽・象潟の商人と同宿した。ここで意気投合し、掃部は一子・小太郎に商人の娘(後の紅蓮)を妻合わせることに。さて、紅蓮が松島にやって来たら、既に小太郎は死去していた。
そこで、掃部は紅蓮を娘として貰い受ける旨の申出をするが、紅蓮は操を立て出家したいとばかりに髪を切落してしまった。紅蓮尼となる
ある時、紅蓮尼は、夢の中で観音からせんべいの作り方を教えてもらい。売り出す。
里人は、それを紅蓮せんべいと呼んだと言う〔随筆集=かたい袋所収〕。
生地がコメの粉、マメの粉をまぶしたせんべいだ。
それをみて、菅江はその昔通過したことがある象潟での事を憶い出した。
出羽国由利郡の地(含む象潟)では、せんべいをこうれんと言っていた〔秋田のかりね所収、天明4・1784年〕のだ。
この話は、東北を代表する2つの臨江景勝地=松島と象潟の双方をセットで登場させ、芭蕉ワールドを踏まえており、出来過ぎたようなトピックスだ。おそらく物証を踏まえての実話であるに違いない。
しかも。世に言う「東<あずま>オトコに西オンナ」のセオリーにもちゃんと叶っている。
その景勝・象潟も文化5・1804年かの地で起った地震により、干陸してしまい。臨江の島に松が生える景観はとこしえに失われた。