北上川夜窓抄 その34=菅江真澄 作:左馬遼 

北上川の畔に佇み、かつてそこに足跡を残した、北上川ゆかりの人として菅江真澄について述べる。
江戸中期の国学者・紀行家であるが、その位置づけや評価はそれぞれである。
菅江真澄なる称号は、晩年秋田に定住した頃から、使用したものである。
本名は、白井秀雄(1754〜1829)、三河国(現・愛知県)岡崎または豊橋の人だが、旅先で多くの人と接し・膨大な地誌記録・絵図を残しながら。他人の問いに対して、その出自を明らかにしていない。そのため彼の属性は不明な点が多い。
30歳<天明3・1783年>で故郷を離れ。一度も故郷に戻る事なく、旅先で果てる<76歳=文政12・1829年没。没地は現・秋田県角館または田沢湖の付近>一生であった。
身分階層の厳しい江戸時代、出自を曖昧にしておく事で、より多くの階層の人と交われたかもしれない。
特に、放浪の旅先で、宿泊や飲食の提供を受けるために、身についたやり方であったかもしれない。
以下に述べることは、後世・近年の研究で、解明されつつある事の筆者なりの理解である。
菅江真澄像の解明に挑んだ人物を3人だけ挙げるとすれば、柳田国男宮本常一・内田武志である。
菅江の主な業績である「菅江真澄遊覧記」の現代語訳が平凡社から刊行されたのが2000年であり、ほぼそれに沿ったが、量・質ともに膨大すぎる事もあり。
筆者の手元にある1999年豊橋市美術博物館が開館20周年記念展に際し刊行した「菅江真澄展図録」を参考にした。これは、カラー写真図録が豊富である。
さて、上掲の”国学者”なるタイトルもまた、さほどの事実は乏しく、後世あえて持ち上げ?名声のため?のラベル観が強い。
 ◎ 菅江が師と仰いだ植田義方は、賀茂真淵と姻戚関係にあった。
 ◎ 国元に住む植田には、旅先から度々手紙やら珍しい品などを送った。
 ◎ 賀茂真淵は、万葉集など歌の研究で著名であり、隣国遠州に生まれている。
 ◎ 菅江は、旅先などで多数の和歌を詠み。滞在先各地に書画とともに残るが、その判明分だけでも約4千首と膨大である。
 ◎ 菅江は、旅先各地で長期滞在など格別世話になった地方名家<複数>に対して、和歌秘伝書を伝授した。
 ◎ この和歌秘伝書の出処は、信濃国(現・長野県)本洗馬(塩尻)とされる。
 ◎ 長途不帰の旅の初期の約1年間、本洗馬に滞在し、和歌修業に励んでいる。
 ◎ 本洗馬における和歌の師は、長興寺住職の洞月上人であったが。菅江が旅先で便宜に預かれる有力な仕掛として秘伝書を授けられたものであろう。これは推測だが、先例に宗祇の”古今伝授の旅”に重なるものがある。
 ● 和歌研究と国学との位置どりは、さておく。秋田藩国学と言えば、平田篤胤との関係が気になる。
 ● 菅江と平田は、ほぼ同時代の人だが。平田の活動中心はほぼ江戸と考えられること。平田が幕命を以て国元の秋田に還された時菅江は既に故人であった。よって、両者の間に接点は無いと考えたい
菅江が詠んだ歌は、滞在した土地や家に謝礼的に残したものらしい。その土地の地名や行事などを折込んで当意即妙に作成したような特別な贈答歌とでも言うべきであろう
菅江が出自を自ら明らかにしなかったように、その外見もまた異様であったらしい。
”じょうかぶり”とあだ名されたが、常時・誰の前でも頭巾のようなもので頭部を覆っていた。
これは、菅江が最も長く滞在した秋田での事だが。秋田には晩年48歳<享和2・1802年>から没年まで、約29年間滞在した。
この間、彼の多才・異能ぶりは、広く知られることになり。有力藩士を通じて藩主とも間接的にやりとりが生じ、ついには、藩内の地誌を作成する仕事を下命された。
菅江の中心的業績は、国指定の重要文化財となった日記・地誌・随筆など89点だが。その遍歴範囲は、主に東北・蝦夷地と広範かつ長期である。
この他に、秋田県指定の文化財である51点の著書類がある。その他に、公知となってない未発見・未報告の各地個人像の図録類があるであろう。
今日は、ガイダンス的記述に終始したが、
北上川流域を遍歴したのは、天明5〜8・1785〜88年の間、足掛け4年間(32〜35歳)。この地について残された日記に「奥の浦うら」・「おぶちの牧」・「奥の手ぶり」・「はしわのわかば」・「ゆきのいさわべ」などがある。
この時期は、旅の主目的であった北海道渡航を3年間待つためアイドルタイムとして過ごした時期であることが知られている。