高尾山独呟百句 No.8 by左馬遼嶺

薪能  家に還して  菖蒲の湯
〔駄足吠語〕
昨夜は金沢城址で、薪能があった。
狂言「樋の酒」と能「殺生石」を覚えている。
甚だ楽しんだと書きたいところだが、最後の演目である能の中段頃に退座して、急ぎ家に還して、風呂に飛び込み、ひたすら暖まった。
百万石祭礼行事の一環として、開催されたもの。
旧城内の芝生に座って観劇した。芝に腰を下ろす芝居そのものであった。
71年も生きて、始めての体験だ。
朝から市内各所で、祭のアトラクションが催されメディアは多忙の一日。
当方が出かけた夕暮れ時は、最大のイヴェントである”利家とまつ”の入城行列を再現したおくねりが終って。帰宅する一団の群集を掻き分け逆方向に進む、それなりに気の減る作業だった。
その頃から、上空は快晴の青空に向かったが、予報どおり最高気温は20℃どまり。
ほぼ無風状態であったが、野外観劇は季節外れの寒さとの戦いであった。
頭上には、半弦の月・宵の明星が寄り添って輝いていた。
閑話休題
俳句なるものを習ったのは、中学生の授業正課のみである。
それ以来、誰からも習わず。何ものからも学ばず。ひたすら五・七・五のみに重きを置いて、らしきものを捻って来た。
さて、今頃”菖蒲湯”とは、季語としてどうか?と聴かれそうだ。
しかし、事実を踏まえての作句であるから、ご容赦ねがいたい。
当地では、端午の節句に菖蒲はやや早過ぎて間に合わない。
節句そのものを旧暦か・俗に言う”月遅れ”で執り行う風習が一般的らしい。
市場に菖蒲湯用の菖蒲が売り出されるのも今頃目に付く、それもまた実景としておこう。
まだある。
金沢百万石まつりの方も、今年が第66回であった。
戦後にスタートした、観光臭の強いものだが、神輿が担がれて終始静かに進行するのも、当地風を反映しており、ある意味古式ゆかしい。
”まつり”は、当初6月15日を中心に。曜日を考慮せず、満月を念頭に置き、挙行されていたらしい。
ある時期から、紆余曲折があって? 6月の第1土曜・日曜での開催へと変更された。
以下は脱線だ。
最近は、金曜に前夜祭行事も付加され、民主化?もしくはポピュリズム化?が一層すすんだようだ。
パトロン衆の商家の要望や人的パーフォーマンスを担う学生やサラリーマンの招集を考慮した結果か?より観客動員を招きやすい成果となっている
更に付け加えると、当初の市民の祭礼から、今では県レベルまたは民族の祭典へと飛躍する気配だ。
と言うのは、加賀百万石藩祖である前田利家&まつの生地である中京圏愛知県勢の参加が目立つようになったからだ。
戦後スタートした歴史も含め、江戸情緒の匂う・その静かな祭礼・その平和の祭典ぶりが、この”まつり”の世界性を象徴しているようだ。
現今スタイルの入城行進が叶うまで、幾度もゴール地点の変遷があった。
戦前は旧城址に旧陸軍が常駐した。
戦後はそのまま国立大学のキャンパスであった。
戦闘集団が解体され・学群が転出した後、やっと城は市民に開放された。
長々と時空両面の脱線ルートを述べた。
要するに偶然の時空マッチングで、上掲の一句が出来上がった事になろうか?
蛇足ながら・・・・
門前の老小僧ならわぬ何とかだから、俳句と呼ばれるのは覚束ないが、
自らは、この百句群を泉柳<せんりゅう>と呼ぶようにしている