もがみ川感走録第52  もちの話5

餅と東北の繋がりについて,あれこれ考えて来た。
餅は成立が古い。
将来に向かっての展望となると,広がるどころか、むしろ萎みつつあるらしい。
東北の近未来は、どうか?
古くかつ良いものを選んで、これまで生き続けて来た。
この好ましい面をいつまでも保ち、その本物選択眼が評価される未来を迎えたい。
さて、餅の不思議も。著述としては、そろそろ第4コーナーである。
型どおり、文献上の初出に迫ることにしよう
糯米が、天平6・734年「正倉院文書尾張正税帳」〔竹内理三著・寧楽遺文・ならいぶん〕に登場する。
糯の字が、大陸中国の文献に初出するのは、6世紀であるとされる。
陸徳明の著作「経典釈文」(成立は、唐代583〜588)。その注に粘稲であると書かれ,以後、糯の字が広く使われるようになったとある〔出典:丁穎著・内田じゅんこ訳「中国栽培稲の起源と変遷」。六興出版1989刊の『中国の稲作起源』に邦訳・収録あり〕
”糯の字”に限れば、幸い「モチゴメ」の意味として、日・中ともに同じ『糯』<ただし、発音は”ダ”>を使う。同義語に”ジュツ”があり、その字体は禾<=偏>と朮<=旁>の組合せ〔出典:白川静香『字通』〕。
ここで異なる例を1つ紹介しよう
本稿で多用する「餅」だが、発音は”ビン”となり・意味も小麦粉で作られた食品と変る。
では「餅」の意味に該当する文字を示せとなるが、「米」偏の“ツ”&“カオ”であると発音のみ紹介しよう。該当文字は、日本で表記できる文字の枠外にあるとしておこう。
以上が、日本史を考える場合の一般論である。いささか脱線気味、前置のアト出し。
日本列島は、大陸中国と同じ文字を使うが。その意味する物が異なる事が,いつの時代にも存在する事を忘れてはならない。誤解回避の対策は,仮名を使って表記するとよい
ここで、話題はイネ一般に転ずる。ここでは一時的に、モチ・ウルチ戦争を忘れる。
一般に知られるイネの日本列島への伝来は,下記のとおりである。異なる見解あるも省略
 2 ,300年前 ・・・ 縄文晩期 〜 弥生早期
 経 路 ・・・ 4〜5ルートあり。併行とする見解も当然である。
 始発点 ・・・ イネの野生種は、列島内・有史以来未発見である。
         イネの野生種は、長江流域に存在するが。
         それは、列島伝来の始発点を規定しない。
         広く東アジア・東南アジアの何処か?であろう
さて、ここで。当初の文脈に戻る
日・中における『糯』の字のありようからして。導かれる結論は、下記のようになる。
モチイネの列島到来は、古墳時代に・大陸中国の江南地域から直接日本列島に伝わった。とする見解<古川瑞昌の著書より抜粋した>だが。
これが、学界多数派の見方であり、同時にウルチイネ先着説となる。
”糯米があればこそ、餅食が可能”との原則に従えば。ここでも、モチ派は劣勢のようだ。
もちろん、少数説も紹介する=モチイネ先着説を掲げる立場。
いささか脱線気味の前置はまだある。農作物の場合、受入地の事情もさることながら。先立ってまず始発点において、該当種が栽培されていた事実を証明しなければならない
モチイネ先着論者は、松本清張中尾佐助など。名の知れた大物揃いである。
執筆の都合上,まず出典を示す。
松本清張説は、朝日新聞紙上である。1970年1月12日号
中尾佐助論は、代表作のみ紹介する。くもん出版1992刊 「照葉樹林文化と日本」佐々木高明との共著
序でながら、民俗学柳田国男も「米に潜む霊的な力」としての餅に対し,格別の功績がある。「木綿以前の事」・「食物と心臓」など多数の著作を遺したことを明記しておく。
さて、松本説だが。列島渡来のモチ米は、苗(ミャオorメオ)族系の栽培法で、始発点は、同族が未だインドシナ半島の東部に生活の場をもっていた頃。としている。
この松本説を理解するポイントは、まず苗族の扱いである。
”苗”なる表記は、大陸中国の古代・漢族文献に出現するもの。自らはモン族と称するとも言う。
華夏族黄帝(漢族祖先)に”タクロクノ戦い=タクロクは地名:現・河北省”で、敗れた蚩尤(しゆう。非漢族の英雄)の末裔であると主張する見解がある。
なお、中国内の神話とする見解と対立するが。神話と史実の幕間を巡る議論は、最近急転回しつつあり、要注目である。
モン族は、中国国内12地域からラオス・タイ・ミャンマーの高地山岳地帯までと広域に居住する。水生・陸生のイネ<一部が焼畑民>・トウモロコシ・ケシなどを主な栽培種とする。
しかし、広域移動・移住生活を厭わない,特異な生活信条もあり。有史以来、周辺他民族との対立抗争もまた絶えなかった。
往々にして、現在居住する地域は、インドシナ半島まで達しているが。時間軸を遡ると、遠く大陸中国の長江<何故か?日本では揚子江とも書くらしい>流域に、根拠を持っていたことであろう。
狂暴な北方民族<漢族とも言う>に圧迫されて,客家<ハッカ>が移動したように。段階的に時代を追って南に逃れ、生活には不利だが、平和が得られる山岳地帯へと逃れて、現住域を形成したと考えられる。
松本清張の引用に”未だ生活の場をもっていた頃”と、ぼかした表現が見られるが。大陸中国山岳帯から地続きのインドシナ半島に住む高地民の生活は、照葉樹林文化のそれと通うものがありそうだ。
言わば、耕作から長期定住し・変容した日本人が、最も理解しにくい広域越境の漂白民族だが。遺伝系統的には,日本人の近縁的存在であるかもしれない。
閑話休題
ここでは、中尾佐助らの照葉樹林文化を再論する愚は犯さない。
ただ、先般紹介した著書「もち(餅・糯)」の中で、の著者の渡部忠世が、重要な指摘をしている。照葉樹林文化論の根幹を補強する引用なので、紹介しておきたい。
<法政大・文化シリーズNo.89の第3章75頁より抽出>
林巳奈夫によれば、漢の頃の沛国(現・江蘇省に存在した)で、”稲”はモチ米を指し・同時期の洛陽では”更”はウルチ米を指したと言う<漢代の飲食・1974刊の東方学報・第48に収録>。
中尾佐助は、この林説を踏まえて。更に大陸中国において、早くはモチ常食であったが、後漢と隋の間にウルチ常食に転換した<出典:『続・照葉樹林文化』1976中央公論社刊・共著>。
隋の煬帝が大運河を建設したのは、華中の米を華北に大量移動させる目的であったとも書いている。
なお、渡部・中尾は、中国は有史以来2度に亘って、より不味なウルチ米に転換したと。言っている。
陸中国が古くモチ常食であった事実は、考古学上の成果である出土土器からも補強される。
炊飯用具の本来の用途は、モチ米を蒸すもの。ウルチ米を炊く想定に無理があろう。
また、照葉樹林文化の一大特徴として、醗酵による食品の調製・加工がある。
酒をつくり・飲む生活は、文化基層を形成する風習だから、より古態が保存されやすい。
しかるに、大陸中国を代表する銘酒といえば、紹興酒(生産地は浙江省紹興)だが、主原料はモチ米である。この事からも、古い時代においてモチ常食であった事が伺える。
ここに来て残された紙数はもう少ない。
糯米は、人為的に開発された農産物であると書いたが。その根底にある植物の倍数性については、理解困難もあり説明は省く。
かつて、世界貿易の中心となったオランダで経済バブルの素材となったチュウリップも、江戸期の江戸で,バブル契機の引き金となったアサガオも、ともに倍数作物である。
因みに,昨今新登場のミルキークイーン=半モチ種もまた、倍数性の遺伝子操作により,作出するらしい。
最後に、イモの話をしよう。
モチゴメ文化圏において、糯米栽培が持続された背景として、先行食糧であるイモとの重なりが指摘されている。
イモの舌触り・食感は、粘さにあるとすれば、餅食との共通性がありそうで説得性がある。
なお、詳しくは、列島の「餅なし正月」を述べた坪井洋文の『イモと日本人』1979未来社刊を参照されたい