もがみ川感走録 第16 特産食品=さといも

もがみ川は、最上川である。
今日から最上川流域に産する地域固有の食品を語る。
食品は、その地に生まれてもおらず・かつて住んだことも無い筆者が、最も避けるべきテーマかもしれない。
土地固有の食風景となれば、インターネット&スマフォの現代でも、外部からの一時的来訪者と根っからの土着者とでは、大きな情報ハンディがあるからだ。
とまあ、のっけから言い訳をかましておく。
今日は、山形を代表する郷土料理である「芋煮」を、2階から目薬の感覚でお届けする。
現代風に言えば、「芋煮」と言うより”芋煮会”の方が親しい。
芋煮会”と言えば、ニュウスの定番トピックス・大型年中行事の観すらある。
大型建設機械が活躍できる大河の河川敷に集まって、大勢の人が盛上がる。そんなTV受けする一大イヴェント。それが”芋煮会”のイメージであろうか?
しかし、今日は”芋煮会”のおそらく原型となったであろう「芋煮」の始まりを考証しよう。と言う、いささか場違いの見解を披露したい。
例によって、定番化した小鵜飼舟の船頭衆が、立役者として登場する。
まず、時・空軸を明らかにしておこう。
最も古く想定すれば、江戸時代の初期まで遡れそうである。
発祥の地は、東村山郡中山町長崎とされる。
長崎の地は、最上義光が大難所の碁点・三河<みか>の瀬・隼<はやぶさ>を開鑿させた戦国末期頃から、元禄7(1694)年に五百川(いもがわ)渓谷にある大難所の黒滝が開鑿されるまでの間=ざっと100年近く=、最上川舟運の終点であった。
舟運の終点は、陸路の始点であり。陸・水運送の接点は、河岸《注・文末を参照》と呼ばれ。幕府公認の物資集積・積替え場所であった。
その当時、長崎で積替えられ、多くが荷駄となって馬の背で運ばれた物資は、狐越街道を山越えして往く米澤・置賜方面への登り荷であった。
小鵜飼舟に載せて船頭衆が、運び込んだ物資は、遠く京都・関西方面からの、いわゆる”下りもの”が主体であったが、重量物の代表と言えば、西塩と呼ばれる加賀・能登・越後産の食用塩であった。
もちろん長崎で降ろされて、山形城下方面に向かう荷物も皆無ではないが少なかった。
支流に設けられた船町河岸が山形城下の外港として既に機能していたからだ。
疲労困憊の極みである上り航走が終ると、小鵜飼舟の船頭衆は、下り荷を積み次第 長崎から酒田に向けて下る。
しかし、時に積荷が届くまで待たされることがあった。当時の主な下げ荷は、コメ・大豆・紅花・青苧などだが。
遠く米澤・置賜方面から狐越街道を越えて積荷が届くまで、何日も待たされることがあった。
現代のケータイも鉄道も無い時代、情報整備以前の気の長さで待たされた。
予定も知らされること無く・ひたすらのんべんだらり・ただ待つ日々、船頭衆=と言っても、船団を編成しての運航だから20〜40名から成る若者集団だ=は、河岸の隅に屯して。朝・昼・晩の3食を大勢で会食をすることが多かったらしい。
若さと貧しさが、彼らの取柄。職業柄収入も社会地位も決して高くない、その口に入るものは、多くが近隣の百姓が譲ってくれる安い食材であった。
その名をサトイモと言う。
里芋と書くのが一般的だが、地域によってハスイモ・水芋・田芋・土垂<どたれ>・唐芋<とうのいも>・八頭<やつがしら>・海老芋<えびいも>などと呼名は色々である。
サトイモを一言で要約すれば、いわゆる「カテメシ」そのものであって、小鵜飼舟の船頭衆に相応しい食材・食糧であったと言うべきであろう。
サトイモ類の分布は、欧州を除く地球規模。
起源の地は、インド〜マレーシア〜インドネシアなどとされる。因みにハワイなどのタロイモにみられるとおり、列島地域でも稲作流入以前の基本食糧であった事が知られている。
その遺風を示す民俗行事に『芋名月=旧暦8月15日の満月 十五夜』があり。その供え物とされる。
また、滋賀県蒲生町日野の「芋くらべ祭り」は、神前で芋の長さを競う年占行事として知られる。
ところで、京都には ”キヌカツギ(調理の名だが)”や”芋棒(ボウダラとの炊いたん)” なる名物料理もある。
葉柄はえぐい味だが、ずいきと呼んで、保存食材として重宝する地域もある。
さて最後に、カラトリイモなる例を紹介して、筆を置くとしよう
最上川の最下流部たる庄内地方の特産品種だ。
多くのサトイモは田でも畑でも産するが、カラトリイモは唐芋<とうのいも>系統とされ、苗代跡を使い湛水栽培される。
庄内地方の中だけ=狭い地域で栽培され・他地域に移動しない特異な産品である。
因みに、イモと言えば、現代人はジャガイモ・サツマイモをすぐに思い浮かべるが、これ等は近世以降の外来種である。
ジャガは16・7世紀に伝来したが、普及は江戸後期の18世紀と言われる。
またサツマも17世紀初めに沖縄本島まで伝来し・18世紀初頭に鹿児島で栽培され始めたと言う。
芋煮会”のメイン食材が、サトイモであることは言うまでもない。
また、”芋煮会”発祥地を千歳山<山形市に同名の公園あり>とする説もあるが、筆者は、鍋掛松の伝承がある中山町長崎を採用した。
・・・・・・・・・・・《注=12T月24日訂正》・・・・・・・
本文中に。河岸=かし=を幕府公認と記述してあるのは、誤りに近い。よって、下記のとおりに改めます。
河岸は、陸運と舟運との接点に成立つ複合的な輸送サービスの拠点であった。
河川と街道とが、交わるか・近づく位置に。河岸は形成されたが、当該地を支配する藩主=大名または幕府の場合は代官=が取立する事(見合としての徴税が伴う)をもって、事実上公認と等しい特権的営業権が備わった。
因みに、本文のそれは、務場《つとめば》を想定したもの。幕府御城米輸送船が必ず立寄る事を義務付けられた中間チェックポイントである。寛文10年(1870)河村瑞軒が、銚子に置いた幕府役人が常駐した出張所。がそれである。
この個所の記事は、川名登箸・河岸・の19&61頁に拠る

河岸 (ものと人間の文化史)

河岸 (ものと人間の文化史)