おもう川の記 No.38 阿武隈川の8

この阿武隈川シリーズは、10月23日に書き初めたから、間もなく3ヵ月目に入る。
この川は、自身の河川舟運でなく。河村瑞軒が飛躍する足場となり・彼が列島周回航路を整備する契機となった点において、サラブレド級の川である。
先日、日和山と方角石を見るために、酒田を訪ねた。
11月下旬に終日の晴天が続くとは、日本海の冬の荒天を知るものにとっては、何とも快挙である。酒田市内、舟運中心は、何と言っても山居島だが。そこから南の月山と北の鳥海山とが、ほぼ落日までいっぺんの雲もなく・すっかりその全貌を晒し続けていたことに驚きかつ感動した。
その日和山に、色々のモニュメントが置かれている。
北前船の実物大模型や早い時期の灯台遺構などだが。
日和山のすぐ下、海を最も広く見渡せる好位置に河村瑞軒の肖像がある。
その設置された事情はよく知らないが、港町=酒田の繁栄に貢献した人物であると目されるからに違いない。
それはそれとして、舟運史の黄金期は、たしかに彼の業績を踏まえ到来した。
より具体的には東廻り・西廻り航路の整備だが。それを土台に、北前船の隆盛期が到来したと言えないことも無い。
だが、この国の歴史観は、著しく歪んでおり。ことさらに・必要以上に特定の人物の業績に結びつけようとする偏りがある。
要約して言えば、人物日本史とも言うべき偏好趣味だが。
最も非科学的なのは、明治・大正・昭和などと時代が足元に近づくほど。個人名に直結するような時代区分を設定する例である。
であるから、港酒田の繁栄と河村瑞軒の功業との間に、格別の因果関係があるとは言えない。
もちろん、皆無とも言いがたいが・・・・
河村瑞軒が行なったことは、史実に照らして語れば、むしろ酒田地元の米蔵商売を縛る方向で動いた。といえる。
幕府の意を享けて彼が動くことで民間業者の商売機会は狭められた。
常識とは異なる見解だが、歴史の真相とは、得てしてそんなバランス構成であるのだ。
酒田が港として、繁栄した時・空背景を列挙すれば、以下のとおりだが。実は、その点にこそ阿武隈川に欠けて最上川に備わる要素が見えてくるとも言える。
別の稿でも述べたが、小鵜飼舟は、阿武隈川から最上川に導入された。
その意味において、この二つの川は、兄弟姉妹の関係であると言えよう。
河村瑞軒が、仕事に着手した時間経過からも、この二つの川は、兄妹の関係にある。
それぞれの河口にある港=酒田と荒浜だが。かくも出自において相似するにもかかわらず、物流機構が成長した後のありようは大違いである。
運輸事業が飛躍するには、大集積地に対して近いよりもある程度遠いことが必要なのかもしれない。
以下に述べることは、列島〜東アジアまで及ぶが、瑞賢と関係あった酒田と荒浜との差異を考えている
1、酒田は最上川唯一の河口に形成された商港である
2、その最上川流域に幕府直轄領が存在し、幕府は年貢米を御城米として江戸もしくは大阪方面に廻送しようと目論んだ。
3、最上川流域に各藩領が存在した。参勤交代の制度が始まると、江戸で通用する貨幣を入手する必要が生じた。
4、江戸時代の貨幣制度を、簡単に説明することは高度に難解な課題であるが、金・銀・銭など交換材にコメなどの実体財もまた含めるべきであり、地金実物性・多元本位制であったと考えるのが至当であろう。
5、実貨幣制と江戸・大阪の間に存在した為替(=信用通貨すなわち究極の交換材)の仕組とは、互いを助長・補完する関係と考えたい。
6、脚光を浴びる輸送は、コメだが。経済に占めるウエートからすれば、過大評価であって。コメだけを追いかけても、物流の全体像を理解するにほど遠い。
7、北海道の水産加工品を長崎口や琉球・薩摩口での交易素材として視野に置くべきである。
8、以上述べたことを踏まえれば、酒田から敦賀の間にある日本海域と沿岸地域は、江戸〜大阪・間から遠いことも含めて、物流銀座であり、瀬戸内海以上の交通頻度があったと言えよう。
9、江戸期も後期・幕末期と下る時間軸に連れて、コメのウエートは相対低下する傾向にあった。
10、長州藩は、倒幕において薩摩と並ぶほどの重い役割を担った。
瀬戸内海と日本海とを繋ぐ好位置に立地する地理上の特異性を最大限に活用した点で、酒田に最もよく似る。
越荷会所を設置して、積極的に物流にコミットし、セット金融の生む利益をもって藩士の撫育金とした。
日本海を往き来しながら瀬戸内海航行を回避したいと考える北前船船頭が居たこと、大阪に届く前のフロント・ポイントで、積荷を捌きたいとうごめく浪花商人が多数居た。
潮流の干満差は、日本海にはほぼ存在しないが、瀬戸内海は有数であって、操船上の脅威を感じさせた。